ジャック・デリダ『アデュー──エマニュエル・レヴィナスへ』

もはや応答することのないレヴィナスに宛てられたデリダからの「アデュー」、すなわち「神の御許に」。それは1995年12月27日にパンタン墓地で読み上げられたレヴィナスへの弔辞と、その1年後にソルボンヌで行なわれた「エマニュエル・レヴィナスへのオマージュ」の開会講演「迎え入れの言葉」から成っているが、そこにあるのは、ハイデガーに抗して他者の死を「第一の死」と捉えるレヴィナスの思想の核心を踏まえながら彼の死を受け止め、生き残った者の責任においてそれに応答しようとする思考の軌跡である。そしてその思考とは、『全体性と無限』において言語の本質を「歓待と友愛」と規定し、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方に』において感受性の根底に「歓待性」を見て取るレヴィナスの哲学を、歓待の哲学として捉え返そうとする試みにほかならない。

それによれば、最初にあるのは他者の肯定と歓待である。それゆえ、呼びかけはすでにして応答であり、他者へ向かう志向性、すなわち他者へ注意を向けること自体、歓待の表われなのだ。そうして私が今ここに、他者の前に存在することを、歓待性から脱構築する思考は、さらに主体であることを、その自己性ないし固有性を、歓待されてあることから捉え直すに至る。ここに住んでいるとは、ここに受け容れられてあることなのだ。このように、レヴィナスの思考を歓待の哲学として突き詰めながら、デリダはレヴィナスの歓待の概念を、カントのそれと対照させる。カントの歓待概念とは、『永遠平和のために』において、「世界市民」のあいだの平和を法的に実現するために、「普遍的権利」を表わすものとして導入される概念である。カントにとって歓待とは、基本的には法的権利を表わす概念であり、平和もまた、自然状態のうちにある戦争を越えて社会的に築かれなければならない法的な状態なのだ。

しかし、そのように平和を構想するなら、それを「果てしなき進歩の最終段階に送り返してしまう」のではないか。とすれば、「今ここ」に平和を、という喫緊の要請に応えるためには、レヴィナスが政治のはるか手前に、今ここに、他者たちのあいだに存在することの根底に見て取った歓待に立ち返る必要があろう。「政治は後で!」と述べた彼が、根源的な歓待性にもとづいて、他者の顔との対面のうちに最初の平和を見て取っていることを、デリダは汲み取ろうとするのである。「平和の概念はもしかすると政治的なものを超過するかもしれない」のだ。

では、「他としてのかぎりでのなんらかの他者が、顔の顕現のうちで、すなわち顔の退隠または訪問のうちで、なんらかの仕方で『迎え入れられた』ことにならなくては、平和を語ることに意味はない」、というレヴィナスから受け継いだ洞察をどのように生かすのか。その問いに向き合うなかで、デリダは平和へ向けた政治をけっして断念しない。しかもその際に、彼はレヴィナスのある種の倫理主義をも乗り越えようとするのだ。他者と遭遇する時の「継ぎ目の外れた」瞬間から、政治そのものを、来たるべき正義へ向けて、さらには「遠き者にも近き者にも」ある平和へ向けて、他者に応える倫理にもとづいてどのように捉え直せるのだろうか。デリダがレヴィナスに応答するかたちで引き受けようとするこの問いは、すでにデリダも亡き後、残された者たちが彼に応えながら、今ここで向き合わなければならない問いでもある。

[藤本一勇訳、岩波書店、2004年]

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