ジャック・デリダ『コーラ──プラトンの場』

晩年のプラトンの対話篇『ティマイオス』には、造化の神デミウルゴスによる宇宙開闢が物語られるが、そのなかで存在の母胎のような場として、「受容体であり、すべての誕生の乳母のごときもの」として語られる「コーラ(khôra)」。デリダによると、それを「定冠詞付きで」語ることはできない。「コーラ」が、ある種の主体ないし実体として存在することを、あらかじめ想定することはできないのだ。

プラトンによると、「コーラ」は存在の二つの類、すなわち不易にして叡知的な存在と、滅びやすく生成状態にあり、感性的な存在とのあいだにある、「第三の類」に属するわけだが、「コーラ」を語る言説を厳密に辿るならば、それはいかなる類別も、ジャンルの分類も、さらにはジェンダーをも逃れ去っていく。それは「第三の類」でありながら、他の存在の類と対を、すなわちカップルをなさないのだ。デリダに言わせれば、「誕生の乳母のごとき」ものでありながら、「コーラは、一人の乳母ではないのと同様に一人の母ではなく、また一人の女でもない」。そのようなものとして「コーラ」は、事物を類別して同定するロゴス、あるいはミュトスとしての言葉を逃れ去る。もしかすると、そのことによって「コーラ」は、両者の分別そのものを問題にするのかもしれない。

とすれば、「コーラ」とは「コスモス」としての宇宙の存在を可能にする何かでありながら、その存在を語る論理、つまりプラトンのディアロゴスとしてのロゴスに穿たれた穴である。デリダの『コーラ』は、この穴を厳密に歩測する試みと言えよう。その試みは、哲学すること自体を試す。それは哲学する言葉を、深淵の前に立たせるのである。しかし、そこからこそ考えられうる次元があるのではないか。「コーラ」をめぐる思考は、言葉をそこへ誘うものでもあろう。「彼女=それは、あらゆる人間−神学的図式から、あらゆる歴史=物語から、あらゆる啓示から、あらゆる真実から逃れ去る。前−起源的であり、あらゆる世代=生殖の前かつ外にあって、それはもはや一つの過去や過ぎ去った一つの現在という意味すら持たない」。

しかし、そのような「コーラ」においてこそ、何ものかが存在するようになるとすれば、しかもデリダが言うように、「コーラとは、まさに、その『うえに』、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセス『である』」とすれば、それをどのように考えたらよいのか。もしかすると「コーラ」とは、そこにおいてある何ものかが存在する、立ち現われてくる、鳴り響いてくるようになる媒体であることそれ自体を指し示す、未だ言葉ならざる言葉なのかもしれない。しかも、デリダによると「コーラ」となるのは、それ自体「独自の事物」でもある。そうだとすれば、宇宙の開闢と関連づけられる「コーラ」は個としても遍在しうる存在の媒体そのものということにもなろう。

ただし、このことは忘れられてはならない。「コーラを思考するためには、はじまりよりも、すなわち宇宙の誕生よりも古いはじまりまで立ち戻る必要があるのだ」。例えば、クリステヴァのような母胎の主体化と実体化に陥ることなく、思考を深淵に曝しながら、起源よりも古い次元を考え抜くこと。デリダの『コーラ』は、思考をその危険へ誘うのである。

[守中高明訳、未來社、2004年]

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