今福龍太『薄墨色の文法──物質言語の修辞学』

静けさに耳を澄ますこと。それは自然の豊饒な沈黙に身を委ねてみることである。そこにあるのは、生き物たちの蠢きであるかもしれず、あるいは死者たちの声の残響であるかもしれない。こうした未だ言葉にならない、声として響き出る手前のところにある囁きを聴き分ける言葉が生まれるとき、自然と呼応しながら生きるための野生の知恵が得られる。著者によるとその知恵は、メキシコの民衆のあいだで伝統的に「ラ・グラマティカ・パルダ」と呼ばれていた。「黄褐色の文法」と直訳できるこの言葉を、著者は「薄墨色の文法」と捉えようとする。

「ジャガーの耳、トウモロコシの穂、銀髪、そして煙……。クアパチュティク、というインディオの可変的な色彩語彙が示す階調のなかに、あの沈黙で充満する特異な文法がたしかに隠れている。私はそれを、あらたに『薄墨色の文法』と呼ぶことにしよう。すべての色彩を混ぜ合わせてできた漆黒、それを水で薄く解きほぐしていった淡い薄墨色の微細な濃淡のなかに、現代文明の固化した言語文法を溶解する手がかりが隠されていると信ずるために。脅迫的な言語的喧騒を、すべての色を含み込む薄墨の一筆が小気味よく払ってくれることを夢見て」。

本書は、薄墨色の沈黙に耳を澄ませ、その色の無限の階調──それは岩礁の断面や植物の節などの細部に見いだされるだろう──を凝視することで、そこにある豊饒な運動を、音にならない音を聴き分け、野生の知恵が言葉に結晶するに至る回路を辿る思考の軌跡を記したものである。それを追うなかで読者は、著者がフィールドとしてきた、メキシコ、ブラジル、カリブ海、奄美列島、石狩地方などを巡ることになる。そして、それらの場所に残された楽器、そして音楽には、その知恵が凝縮されている──奄美の島唄にも「薄墨色の文法」があるのだ──のである。さらにそれらは、死者たちの魂を、歴史にとっては沈黙であるままに、今ここに呼び出すだろう。時の襞をたくし上げ──この点に関するベンヤミンの言葉の解釈は示唆的だった──て、力ある者が物語る歴史に矢を射かけるようにして。

著者によれば、こうしたことすべてが、沈黙に深く聴き入ること、すなわち息吹ないし気息としての生命に満たされた時空間へ聴覚を放擲することにもとづいている。そうして気配を察知するとき、野生の存在を肯定する深いリアリズムに達することができるのだ。興味深いのは、著者がこのことを、所有と帰属の場としての「家」を放擲することと結びつけていることである。私的所有と権力の生=政治の場としての家を離れ、風のなかに佇むもう一つの家へ。この発想は、漂泊を基本的な生き方の一つとならざるをえない状況下で、時に過酷な力を振るう自然のなかで他者とともに暮らすことを考えるうえで示唆的と思われる。

最後に著者は、沈黙に耳を澄ますことにもとづいて野生を生きる知恵としての「薄墨色の文法」を、エコロジーと結びつけ、さらにこれを「エコーロジー」と言い換えている。「人間と環境の関係性についてのもっとも簡潔な思想であるエコロジーecologyは、いまやエコーロジーechology、すなわち事物の呼びかけに答える谺の学、と呼び直せるかもしれない。薄墨色の文法とは、この慎み深く繊細な谺のなかに息をひそめている、ことばの嬰児にほかならない」。すでにベンヤミンも語っていた「谺」を生きること、その回路を著者と異なった地点から探ることへ誘う魅力的な一冊である。

[岩波書店、2011年]

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