唯一無二のヒロシマを普遍的に記憶する

アメリカ軍の爆撃機エノラ・ゲイによって当時一大「軍都」でもあった広島に原子爆弾が落とされ、一瞬にして十数万の人々の命が奪われてから60周年の日を迎えるにあたり、その記憶を普遍化する可能性を考えてみたい。この60年のあいだ、重い口を開き始めた被爆者たちを中心に、いわゆる「被爆体験」──この言い方自体は好ましいものとは思えないのだが──を語り伝え、また平和運動や学問的言説をつうじて、また音楽、演劇、美術、文学などさまざまなかたちで、その「体験」を語り継いでゆく努力がなされてきた。そして、それによって「ヒロシマ」の名は、平和を愛する世界中の人々のうちに、核のない平和な世界への憧れを喚起する名として銘記されるようにもなったのだ。

しかしながら、先ごろ広島を訪れ、ヒロシマの記憶が広島という地域を越えてゆく希望を語ってくれたキャロル・グラックによれば、ヒロシマの記憶は、例えば「ホロコースト(ショアー)」の記憶ほどには、あるいは「従軍慰安婦」の記憶ほどにも、世界的に普遍的なものにはなりえていない。また、そのようななかで、とくに若い世代のあいだで、自分が今ここで「ヒロシマ」を記憶する責任が見失われてきている──記憶の「風化」を言うなら、それはこうした状況についてこそ言われるべきであろう──ことも否定できないはずだ。さらには、こうした間隙を突くかたちで、日本においては、再び戦争を行ないうる国家をつくる憲法の「改正」が進められようとしているばかりか、子どもたちを国家の戦争に命を捧げる「国民」にするための、いわゆる「愛国心教育」も押し進められようとしている。

他方で、泥沼化し、常態化したいわゆる「テロとの戦争」が、理由なき憎悪を世界中に浸透させようとしているなか、小型の核兵器が、世界各地に分散した武装組織の手に渡る危険を理由に、すでに核兵器を手にした国々は、それを手放そうとしていない。このように人類が、一人ひとりのうちに他者に対する責任として潜在する自由と倫理性を犠牲にするかたちで、あまりにも野蛮で凄惨な殺し合いへの「総動員」の客体になろうとしている状況を、そのようなものとして見抜き、来たるべき戦争による死へと向かいつつある政治の流れを食い止めるために、かけがえのないヒロシマの記憶を、普遍的なものとして、すなわち広島という地域の境界を越えて語り継がれうるかたちで、今ここに、世界へ向けて甦らせなければならない。そして、そのためにはまず、唯一無二のヒロシマの記憶を普遍的なものとして再生させる可能性が問われなければならないはずである。

すでに触れたように、原爆の記憶の「風化」ということがしばしば言われている。その「風化」が、広島を無辜の「被害者」として、さらには日本を「唯一の被爆国」として、その「被爆」にまつわる歴史的経緯の複雑さ──例えば、被爆者のなかに日本軍によって徴用されていた朝鮮半島や中国の人々が含まれていることや、捕虜として広島に送られていたアメリカ軍の兵士が一般市民の手で虐殺されたことなど──を捨象しつつ祭りあげる、あまりにも単純な自己正当化の物語──キャロル・グラックが「ヒロイック・ナラティヴ」と呼ぶもの──について述べられているのだとするならば、「風化」とは、この内向きの、普遍的ではありえない物語を解体して、60年前の8月6日を唯一無二の「グラウンド・ゼロ」とする記憶を、広島の外へも語りかけうるようなかたちで更新する余地を与えるものでもあろう。

では、そのようにかけがえのない記憶を普遍的なものとして再生させるとは、どういうことなのだろうか。キャロル・グラックは、ヒロシマの「グラウンド・ゼロ」で起き、おびただしい死をもたらすかたちで体験されたことを、世界じゅうの誰の身にも起こりうることとして、人類へ向けて語りかけ、問いかけなければならない、と述べていた。1945年8月6日の核兵器使用とそれによる市民の無差別大量虐殺を、今ここの、今生きているわたしたち自身の重大な問題として提起する必要があるのだ。

そのきっかけとなるのは、ヒロシマの出来事を、広島以外の場所で起きたこと、あるいは起きつつあることと結びつけることであろう。ヒロシマを、たとえば無差別虐殺にも等しい仕方で戦術核なみの破壊力をもった爆弾の落とされたアフガニスタンと、あるいは大量の劣化ウラン弾が使用され、放射能による死がもたらされつつあるイラクやバルカン半島と──皮肉なことにこれらの加害者はすべてアメリカの軍隊である──関係づける視座に立つときにこそ、唯一無二のヒロシマの記憶を、今わたしたちがどのような時代に、またどのような世界に生きていて、そこでどのような危機に直面しているのかをグローバルな次元で照らし出す、普遍的なインパクトにおいて、創造的に更新させることができるはずである。そうすることでわたしたちは、60年前に起きたことを繰り返させないという人類に対する、とりわけ未来の他者たちに対する責任を、引き受けてゆくことができるのだ。

キャロル・グラックの同僚だったエドワード・サイードは、その『知識人とは何か』のなかでいみじくもこう述べている。「自分が属する民族の集団的苦難を表象し、その苦難の証言者となり、いまもなお残る試練の傷痕を絶えず喚起し、記憶を更新するという、この重要なことこのうえもない責務に加えて、知識人だけがおこなえると、わたしの信ずるものを述べておかねばならない。多くの小説家、画家、詩人、たとえばマンゾーニやピカソやネルーダといった人びとは、民族の歴史的経験を美的作品に盛りこんだのであって、作品が傑作として認知されるようになったのは、そのあとのことである。したがって知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験と結びつけることである」。サイードがここで「知識人がなすべきこと」として語っていることを、今私たち一人ひとりが、ヒロシマを出発点にして行なわなければならないのだ。彼によれば、「知識人」は「アマチュア」に徹しなければならない。とすればなおのこと、私たちも今ここで、彼のいう「知識人」の役目を果たしうるのではないだろうか。

そうすることはまた、自分が無関心でいられない遠くの、しかし今を共有している他者たち、先に挙げたところで言えば、アフガニスタンやイラクやバルカン半島の他者たちに対する責任を引き受けることでもあろう。それは言い換えるなら、その他者たちから平和への、さらには正義への呼びかけを聴き取り、それに応答することであると考えられる。そのような応答の言葉、応答責任を引き受ける自分自身の言葉であってこそ、現在の危機に立ち向かうかたちで差し出されうるのではないだろうか。サイードは続けてこう述べている。「ある民族が土地を失ったとか、弾圧されたとか、虐殺されたとか、権利や政治的生存を認められなかったと主張しても、同時に、ファノンがアルジェリア戦争でおこなったことをしないかぎり、つまり自分の民族をおそった惨事を、他の民族がこうむった同じような苦難と結びつけないかぎり不十分である。これは、特定の苦難の歴史的特殊性を捨象することとはちがう。そうではなくて、ある場所で学ばれた抑圧についての教訓が、べつの場所や時代において忘れられたり無視されるのをくいとめるということである。そしてまた、自分の民族が舐めた辛酸を、それも自分自身が舐めていたかもしれない辛酸を表象しているからといって、自分の民族が、いま同様の犯罪行為を他の民族に対しておこない犠牲者をだしていることについて、いっさい沈黙してよいということにはならない」(以上大橋洋一訳、平凡社、1995年)。そうなのだ。こうして未来および同時代の他者たちに対する責任を引き受けながら、ヒロシマの記憶を、普遍的な問題を提起するものとして、人類へ向けて、しかも現在の危機に抗するかたちで語り出すことは、けっしてヒロシマの特異性をなおざりにすることではない。むしろ、他の出来事との関係においてヒロシマの出来事をもう一度問い直し、そのかけがえのなさを新たに際立たせてゆくことであろう。

その際にまず求められることは、60年前の8月6日の出来事にまつわる歴史的な諸関係の複雑さから、あるいはその出来事に関するさまざまな記憶の抗争から、けっして眼を背けないことである。ヒロシマの記憶を特異なものとして普遍化するために必要なのは、それに関する単一の、虚構の「われわれ」を慰撫するような内向きに完結した神話ではない。むしろ、そうした神話を解体すること、サイードが『知識人とは何か』で引いているヴァルター・ベンヤミンの言い方を借りるなら、「歴史を逆撫でする」かたちで、歴史を単純化する神話が抑圧し、忘却してきた記憶を今に呼び覚ましてゆくことが必要なのである。こうして新たにヒロシマを問い直すとき、私たちは、痕跡を残してもういなくなってしまった、あるいはまだ生き残っている、これまで物語られてきた歴史の他者たちの証言に遭遇することになる。ヒロシマを特異な出来事として記憶するとは、そうした歴史の他者たちに応答してゆくかたちで、その出来事にまつわるさまざまな記憶の配置を少しずつ描き出し、複数の記憶が唯一のヒロシマのモザイクをかたちづくっているさまを、広島の外へ向けて浮かびあがらせることなのだ。

しかも、今ここで私たちがこの歴史の他者に応えなければ、その記憶は取り返しのつかない仕方で再び忘却の淵に葬り去られてしまうし、また私たち自身も、現在支配的な神話に身を委ねてしまうことになる。それゆえ、歴史の他者に対する応答責任を引き受け、自分が現在そのような危機に直面していることを認識するところから、ヒロシマを記憶することを始めなければならない。ベンヤミンは「歴史の概念について」(通称「歴史哲学テーゼ」)のなかで、過去を記憶することについてこう述べているのである。「過去を歴史的に関連づけるとは、それを「もともとあったとおりに」認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである。歴史的唯物論の問題は、危機の瞬間に思いがけず歴史の主体のまえにあらわれてくる過去のイメージを、捉えることだ。危機は現に伝統の総体をも、伝統の受け手たちをも、おびやかしている。両者にとって危機は同一のものであり、それは、支配階級の道具となりかねないという危機である。どのような時代にあっても、伝統をとりこにしようとしているコンフォーミズムの手から、あらたに伝統を奪いかえすことが試みられなければならぬ。メシアはたんに解放者として来るのではない、かれはアンティクリストの征服者として来るのだ。過去のものに希望の火花をかきたててやる能力をもつ者は、もし敵が勝てば〈死者もまた〉危険に曝される、ということを知りぬいている歴史記述者のほかにはない。そして敵は、依然として勝ちつづけているのだ」(野村修訳、岩波文庫、1994年)。

ここで「伝統」を、ヒロシマの記憶の継承と考えるなら、唯物論とメシアニズムを結びつけるベンヤミンの言葉は、広島の今にも響いてくるにちがいない。高齢化の進む被爆者たちの平和への希求を踏みにじるかたちで、ヒロシマ以前と同じ戦争を遂行しうる、また人々がその戦争に命を捧げる国家をつくりあげようとする現在の政治の趨勢に抗して、今ここで被爆者たちの声を新たに聴き出し、ヒロシマをめぐるさまざまな記憶を新たに洗い出し、さらにはそこにある記憶の抗争をもパブリックなものにしてゆく努力を続けなければならない。そうしてかたちづくられる新たな「過去のイメージ」を、今こそ、戦争へ向かう流れを食い止める新たな「パブリック・メモリー」(キャロル・グラック)の形成へ向けて差し出さなければならないのである。

ここでいう「過去のイメージ」は、けっして完結したものではありえない。閉じた神話的なイメージを形成することは、むしろ現在生きている自分を正当化するために、過去を歪曲し、その記憶を抑圧することなのだ。60年前の8月6日の出来事は、それ自体としてはいわゆる「表象の限界」を越えた凄惨さをもっている。それは被爆者自身にとっても長いこと「語りえない」出来事であったし、今も多くの被爆者にとって「語りえない」ものでありつづけている。そのような過去の出来事と今生きている自分とのあいだの埋めることのできない断絶をしかと受けとめたうえで、過去と出会っている今ここで呼び起こしうるその記憶を、その複雑さを捨象することなく、さらなる補完に開かれた言語的なイメージのかたちで甦らせることが、ヒロシマの記憶を唯一無二のものとして再生させつつ、普遍化することにつながるのではないだろうか。

このようにして、過去にまつわるさまざまな記憶の複雑な絡みあいを、その複雑さから目を背けることなく解きほぐそうとするなら、そうして過去を記憶する自分自身もけっして無実でないことが浮かびあがってくる。私たちは、そのなかに日本軍による徴用のために被爆者となった人々も含まれるアジアの人々に対する行為の償いを果たしていない、さらに言えばそれを償おうとすらしていない政府の庇護のもとで、あるいはそのような企業の恩恵を受けながら生きている。しかも、そのなかでアジアの人びとに対する責任をなおざりにしたまま、政府と企業が結託して戦争を遂行しうる国家をつくろうとしている動きを止められないでいる。

このことをテッサ・モーリス-スズキはその『過去は死なない』のなかで「過去への連累」と呼んでいるが、それが過去を想起する自分のこととして突きつけられてくるのである。それを現在の問題として見すえながら、さまざまな記憶と対話する努力を重ね、それを今に甦らせつづけること、これを彼女はさらに「歴史への真摯さ」と呼んでいる。「ひとつの出来事についてのさまざまに異なる表現に耳を傾ければ、歴史知識の伝達を形成する力を理解して、歴史のプロセスへのわたしたち自身の〈連累〉を理解するために豊かな知識の宝庫を利用することができる。こうして、〈歴史への真摯さ〉には一種の継続的な対話が関わってくる。その対話をとおして、ますます増える過去からの声のレパートリーに耳を傾け、聞いた物語を語り、語りなおし、そうすることで現在の自分を定義し、定義しなおす。この意味で、過去についての完璧でどこまでも〈正しい〉表現など不可能であることを認めつつ、このような努力をすることが抹殺の歴史学と闘うための出発点になるのではないだろうか、とわたしは言いたい」(田代泰子訳、岩波書店、2005年)。

キャロル・グラックは広島で、「未来を記憶する」ことを語りかけていた。わたしなりに言い換えるなら、私たちの未来へ向けて、さまざまな記憶の抗争があることなど一つの出来事をめぐる歴史の複雑さをけっしてなおざりにすることなく、過ぎ去った出来事を、特定の地域を越えた普遍的な問題を提起するものとして記憶し続け、世界的な「パブリック・メモリー」を形成してゆくこと。このような「歴史への真摯さ」を外へ向けて発揮することこそが、今ヒロシマという原点で求められているのである。唯一無二のヒロシマを普遍的に記憶するために。

[2005年8月6日]

■追記

上の小文は、2005年7月28日に広島市まちづくり市民交流プラザで行われたキャロル・グラックの講演「未来を記憶する──ヒロシマと世界」および、7月30日に広島国際会議場で開催された国際シンポジウム「ヒロシマと平和憲法──私たちはその精神をどう活かすか」(主催はいずれも広島市立大学広島平和研究所)の際に彼女が行なった報告「原爆の記憶の自然史──私たちの時代のための遺産」に触発されて書いたものである。この機会に個人的にも親しく話をしてくださったグラック教授に心から感謝申し上げる。

■付論

□新たな戦争の時代における平和についての暫定的テーゼ

平和とは「ただで」与えられているものではない。それは、守られなければならないものとして初めからあるわけではない。

平和とは、つねに問われなければならないものである。それは、「平和とは何か」と問う徹底的な思考をつうじて、絶えず新たに築かれなければならない。

しばしば「平和」の名において戦争が起こされる。「国民の平和と安全」のために「敵」を倒さなければならないというわけである。

このような「平和の逆説」を前にして問わなければならないのは、戦争によって守られるべき「平和」の質である。「敵」という他者を犠牲にすることによって確保される「平和」は、はたして平和と呼ぶに値するのか。

この問いは、表向き「平和に」暮らしている者、すなわち戦争に巻き込まれていないと信じている者にも向けられている。「平和」と思っているその生活の安寧は、他者に対する公然ないし隠然の暴力、さらにはその構造化の上に成り立っているのではないか。

そのような問いを自分自身に突きつけ、自分が生きている世界では「非常事態」が常態となっていることを洞察すること。そして、そこにある戦争と暴力の新たな形態を認識すること。これが平和をその可能性において問う思考の出発点となる。

今ここにおける可能性として平和を問うとは、他者の面前で自分自身の生存がけっして正当化されえないことを自覚し、みずからの生存をその地盤から揺さぶり、この地盤が抑圧してきた他者からの呼びかけに応えようと試みることである。

[2006年4月27日]

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