崇高なる愛の自然=歴史の舞台

■崇高なる愛の自然=歴史の舞台──ベルリン国立歌劇場におけるビゼー「カルメン」新演出上演に寄せて[2005年]

「定めなんだわ! きっとそうなる。あたしが先で……それから彼……運命には逆らえないわ」(歌劇「カルメン」第3幕第6場におけるカルメンの台詞)。

ビゼーのオペラ・コミック「カルメン」の最終場面(第4幕第2場)のつくりは、この作品がヴァーグナーの「楽劇」の対極にあることを、最もはっきりと示していよう。ドン・ホセが、最終的に手にした短刀で、自分を捨てて闘牛士エスカミーリョを選んだかつての恋人カルメンを刺し殺すに至る、二人のあいだの緊迫したやり取りは、遠くから聴こえるこの闘牛士を讚える合唱によって、三度にわたって中断される。いや、二人が対峙する情景は、そのとき静止させられるのだ。エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」における、オデッサ港を見下ろす丘に上る階段で皇帝の軍隊が民衆を虐殺するあの場面のモンタージュを思い起こさせるような仕方で、別の時間が差し挟まることによって、眼前の情景の時間が静止し、それとともに、情景の緊張度はいやがうえにも高まってゆく。そのように、カルメンの死という一点へ向けて強度を増してゆく断続的な時間を現出させるビゼーの音楽は、近代の民族神話を呼び起こそうとする意味──と言うよりも作曲家の意図──によってすべての音が拘束されていて、それによって途切れることのない時間の流れ──聴き手を巻き込もうとする流れ──を現出させるヴァーグナーの音楽とは、まったく対照的である。そして、それゆえに「カルメン」に魅せられた「ヴァーグナーの場合」のニーチェによると、南欧の乾いた空気のなかへ音を解放するビゼーの音楽は、このような中間休止を含んだ時間を舞台上に現出させることによって、愛の真理を明かすのである。

愛するとは、ヴァーグナーがその楽劇のなかに描いたように、偽りの同情や利他性のために自己を犠牲にし、それをつうじて──場合によっては来世において──相手を所有することではありえない。そうではなく、愛するとは、抑えがたく沸き上がる激情も含めた自分自身に、すなわち身体を含めた自己にどこまでも忠実であること──カルメンはこれを「自由」と呼んでいる──であり、またそうすることで自己を他者も所有しないことなのだ。そのような愛の真理が、理知的な自己保存を捨ててホセの前に身をさらけ出すカルメンの崇高さにおいて露呈されているのである。しかしながら、ニーチェによれば、この「自由」としての愛、「自然のなかへ翻訳し戻された愛」は、同時に「宿命」としての愛でもある。愛する者は、自由であろうとすればするほど、自分以外のものに、「自然」という他者の「戯れ」に翻弄される。そして、この「冷笑的で、無邪気で、残酷」な「宿命」としての愛の「悲劇的な戯れ」としての本質は、「カルメン」の幕切れの直前に、恋人を殺すという行為の意味を理解しないままカルメンを手にかけるホセの非知のうちに屹立するのである。

このような「自由」にして「宿命」であるような愛は、オーストリア出身の演出家マルティン・クシェイによると、絶えず死という一点へ向けて転がり落ちてゆく。フロイト的な言い方をするなら、愛に生きる者は、死への欲動に衝き動かされているのだ。2004年12月11日と19日の2回にわたり、ベルリン国立歌劇場でこの演出家の新演出による「カルメン」の公演を見たが、その演出においては、カルメンが歌い、生きる「自然のなかへ翻訳し戻された愛」には、つねに死の影が付きまとっている。それどころか、彼女以外の愛する者もすべて、まさに愛するなかで死の手に落ちようとしているのだ。そのことをクシェイはまず、舞台の風景によって暗示しようとしているようである。

幕開けの場面の舞台となるセヴィーリャの街の広場は、建物一つない、砂漠のような荒涼とした空間。それは、乾いた空気を突き抜けて太陽が燦々と照りつけるなか、すべてが砂へと崩れ落ちてゆく、絶えざる衰滅のプロセスを思い起こさせずにはおかない。これに対して第2幕の舞台となる場末の酒場は、一転して湿っぽい、実際に水溜まりもしつらえられている廃墟だった。そこではすべてが錆びつき、朽ち果ててゆくのだろう。クシェイは、このように舞台の風景によって、死と愛の近さを暗示するばかりでなく、台本の翻案によっても、愛する者の儚さを描き出している。台本および原作の小説と異なって、第3幕では、ドン・ホセの婚約者ミカエラが、ホセによって射殺されてしまうし、終幕では、エスカミーリョまでもが死体となって運び去られてゆくのである。

たしかにこうした大胆な翻案にはいくぶん驚かされたが、「自由」であろうとすればするほど、「宿命」の虜となり、死へと凋落してゆくものとして「愛」をとらえようとするこの演出のなかに置いてみると、本来書かれていないミカエラの死もエスカミーリョの死もそれほど違和感を感じさせない。むしろ、いかなる意味も救済しえない強度において「自然のなかへ翻訳し戻された愛」を描き出す「カルメン」のドラマにおける必然とさえ思えてくる。それほどまでに、今回のクシェイの演出には説得力があった。それは、幕開けから見る者をぐっと惹きつける。有名な闘牛士の歌の前奏曲に続いて演奏される、運命の主題によって貫かれた二曲目の前奏曲がしだいに高まるなか、縛られた殺人犯ホセにゆっくりと目隠しが付けられ、激しいトゥッティの一撃とともに彼が処刑されるという、これまた本来の台本に書かれていない演出は、舞台上の情景が緊迫の度を増してゆくのと、音楽の、最後の一撃へ向かう直線的な高まりとを、見事に一体化させていたと言えよう。そうすると、以後の本編全体のドラマは、絶命に至るまでのホセの回想として展開されることになるわけだが、その舞台は、第1幕と第3幕に登場する、手前に傾いた舞台上の舞台をなす大道具を除いては、大がかりな装置を一切用いない、どちらかというと寒々としたシンプルさによって、愛に生きる者がすべて死の手に落ちてゆく救いなきドラマを仮借なく描き出していた。それによってクシェイの演出は、真に愛に生きるとは死へと近づくことであるほかはないという「自然のなかへ翻訳し戻された愛」の真理を、より純粋な強度をもって浮かびあがらせていたのではないだろうか。また、第4幕では、右往左往する群衆を登場させて、こうした愛の真理の浮かびあがる場が、近代社会であり、現代の都市であることを暗示していた点も、この演出の迫真性を高めていたと言えよう。

愛とはけっして過去のものではない。それは、カルメンのように愛に生きることがかぎりなく不可能に近づいているかに見える今ここにもありうるのだ。しかし、この演出が示しているのは、その現実が、ニーチェの言葉を借りて言えば、どこまでも「冷笑的で、無邪気で、残酷」であることにほかならない。真の愛の現実は、つねに死によって決着をつけられる悲劇なのだ。クシェイに言わせるなら、「カルメン」という作品は、そのことを突きつけるものなのである。彼の演出は、愛と死の緊密な関係を一貫して強調することによって、このような、どちらかというと甘い憧れの対象である一般的な「愛」の観念を突き崩すような愛の真理の強度を、ほぼ余すところなく取り出すことに成功していたのではないだろうか。

さて、トーマス・マンに捧げられたアドルノの「カルメン」論「カルメンをめぐる幻想」によれば、「自由」と「宿命」の弁証法が展開されるこの「オペラ・コミック」の音楽のクライマックスは、第3幕のカルメン、メルセデス、フラスキータという3人の「ジプシー女」たちの三重唱のうちにある。カード占いをしながら歌われるこの三重唱において、メルセデスとフラスキータには、月並みな、社会への馴化としての幸福、すなわち結婚が約束されるのに対して、カルメンには死の運命が明かされる。そのことを受けとめるカルメンの、低い声で歌い出されるソロのうちに、アドルノは「運命に対する主体の応答」を、その崇高さを見て取っているのだ。社会への適応を拒否して、あくまで「自由」に愛に生きること、それは死へ向けてまっすぐに歩むことにほかならない。その「運命」がカード占いによって明かされるのに正面から向きあうカルメンの歌のうちに、作品全体の音楽の頂点がある、というのである。今回の公演を指揮したダニエル・バレンボイムは、あたかもアドルノのこのような解釈を念頭に置いているかのような音楽づくりを示していた。彼はこのカルメンのソロが始まる直前に、それまでの音楽の流れを断ち切る重いフォルテを置き、カルメンの崇高さを際立たせていたのである。

この場面をはじめとして、バレンボイムはオーケストラから、固い芯のある、それでいて内容豊かで迫力にも富んだ響きを引き出していた。何よりも、ビゼーの音楽自体に内在するダイナミズムを、現在のオーケストラによってこそ可能な仕方で、増幅されたかたちで実現させるかのような、説得力に富んだ指揮は特筆に値しよう。とりわけ、第3幕のホセとエスカミーリョの決闘のシーンでオーケストラが示した、凄まじいまでの疾走は忘れがたい。とはいえ、バレンボイムの、どちらかというとヴァーグナー向きの持ち味もあって、オーケストラの響きは、ビゼー特有の爽快な切れ味には不足する。冒頭の前奏曲をはじめ、ところどころ響きが重くなりすぎていたし、第3幕の最初の密輸業者の合唱など、ほとんどヴァーグナーの音楽のような重々しい歩みを示していた。こうした、「さまよえるオランダ人」の幽霊船の船員の合唱を思わせる音楽にも、それはそれで凄まじい迫力があったのだけれども。

歌手のなかでは、ホセを歌ったメキシコ出身のテノール、ロランド・ヴィラソンが出色の出来。ほんとうにはまり役という感じで、愛に狂った男、というより愛するとは非知であり、狂気でもあることを全身で描きながら、すべてのアリアをほぼ完璧に歌っていた。これほどまでにカルメンという女性に心を奪われた男の危うさを表現しえた歌手がいただろうか。カルメンを演じたマリーナ・ドマシェンコは、両日とも当初声がこもりがちだったが、だんだんと調子を上げてきて、先に触れたカード占いの三重唱をはじめとする数々の歌において、カルメンにとっての「自由」であり、社会にとっての悪であるようなその魅力を、切れ味鋭く表現していた。何よりも声が太すぎないのが好ましい。ミカエラを歌ったドロテア・レシュマンは、この清楚なみなしごにしては声が太すぎる感じもなくはなかったが、無理なく完璧に歌う様子から、実力のほどは伝わってくる。エスカミーリョを歌った、ハンノ・ミュラー=ブラッハマンもなかなかの好演。そして、こうした主要な役柄を歌う歌手ばかりでなく、わき役を歌った歌手たちも、舞台をしっかりと引き締めていたのが、とりわけ印象的だった。

おそらく、「カルメン」という作品の真理内実を、考え抜かれた演出と水準の高い演奏によって十全に浮かびあがらせた、という点で、これほどまでに完成度の高い「カルメン」の公演に今後触れることはきわめて稀なことであろう。そして、この新演出による「カルメン」の公演は同時に、「オペラ・ハウス」という近代の装置の内部で、その桎梏を越え出ようとする試みでもあったと考えられる。スラヴォイ・ジジェクが『否定的なもののもとでの滞留』で述べているように、近代的主体の歴史と重なる歴史をもったオペラというジャンルが、アイデンティティをもった人格ないしその一定の意味へと回収されうる「人間性」を表象するものであり、オペラ・ハウスがそのための装置であったとすれば、今回の「カルメン」の公演は、ニーチェ的な「自然のなかへ翻訳し戻された愛」の意味へと解消しえない崇高さを表現するものである点において、この装置の限界を踏み越えていたと言えよう。しかもその崇高さは、今回の演出によれば、ベンヤミンがそのバロック悲劇論において語っている「自然=歴史」のうちにのみ、すなわち人間の歴史を自然が絶えず侵食するなかで絶えず衰滅を続ける「世界の受難史」のうちにのみ現出する。愛することを突きつめてゆくなら、死ぬことに限りなく近づくのだ。

このことが「カルメン」という作品の核心にある真理内実であることを取り出すことによって、今回の公演は、「カルメン」という「オペラ」として最も人気がある作品を脱構築し、それとともに「オペラ」というジャンルに内側から揺さぶりをかけることに成功していたのではないだろうか。そしておそらくは、「オペラ」を内側から突き破ってゆくことによってのみ、これまでに書かれたオペラ作品も、これから書かれるオペラ作品も生き続けることができるはずである(ちなみに、ベルリン国立歌劇場におけるヤナーチェクの「カーチャ・カバノヴァー」の新演出上演に際して講演を行なったジジェクは、その『オペラの第二の死』において、やや図式的に過ぎるきらいはあるものの、近代オペラの極点とも言うべきヴァーグナーの楽劇のうちに、その可能性を探っている)。2005年の2月初めまで、ウンター・デン・リンデンの国立歌劇場では、この「カルメン」以外にも、武満徹の作品を再構成したムジークテアターや映画監督ミヒャエル・タルハイマーの新演出によるヤナーチェクの「カーチャ・カバノヴァー」の公演など、「オペラ」と「オペラ・ハウス」の限界を内側から踏み越えようとする試みに、いくつか接することができた。そのような試みのうちにある崇高さに打ち震え、その経験を、言説の定型を解体しつつ語り出すことが、これからの「オペラ」に関する批評的言説の課題となるにちがいない。

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