直野章子『被ばくと補償──広島、長崎、そして福島』

「放射線が人体に与える影響については、わからないことが多いにもかかわらず、ABCC/放影研の公開されている調査結果をもとに、病気に苦しむ多くの被爆者は、『被曝していない』ことにされてきた。冷戦下の米国軍事戦略の影響を多分に受けてきた被爆者調査の結果を、無批判にどころか、積極的に取り入れて被爆者に新たな苦痛を与えてきたのは、他でもない『唯一の被爆国』を自称する日本政府だ」。しかも、戦後「原子力事業」を国家事業として推進しようと、東京電力をはじめとする電力会社との結びつきを強めてきた政府は、福島第一原子力発電所の人災のために被曝したり、生活を奪われたりした人々にも、今なお被爆者が味わっているのとまったく同じ苦痛を強いようとしているのではないか。

本書は、そのような深刻な危機感を胸に、原爆投下に至るまで戦争を続けた国家の責任の下での被害補償を求め続けてきた原爆被害者の運動に寄り添い続ける著者ならではの立場から、今原発の人災の被害者のために定められようとしている補償制度の問題を、今なおいくつもの問題を抱えている原爆被害者の援護制度の歴史から浮き彫りにし、その歴史を繰り返さない可能性を模索しようとする力作であり、今後原爆被害と原発人災の被害双方に対する責任の所在を明らかにしつつ、それに応じた補償を求める議論が第一に参照しなければならない必読書と言えよう。

本書において示唆的なのはまず、すでに触れたとおり原爆被害者の運動が、その初期から国家の戦争責任を問い、それにもとづく被害の救済を求めるものであり、同じような戦争の被害者を二度と作らないことへ向けられていた点が指摘されていることである。しかし、このような被害者の要求とは裏腹に、日本政府は国家の戦争責任を一度も明確にせず、福島原発の人災の後にも実態にそぐわないことが露呈した同心円のイメージで被害者を線引きし、立証の困難な「放射線起因性」を盾に被害者を分断してきたのだ。今日あまりにも一般的に用いられている「被爆者」の概念は、法的な観点から見れば、そのような暴力を孕んだ原爆被害援護の法制度の歴史によって作られたものにほかならない。

こうして戦争責任を否定しながら、「被爆者」を作るとともに「被爆者」になれない者を作って援護の埒外へ追い落とす法の暴力の前提にあるのは、政府が戦後強弁し続ける「戦争被害受忍論」にほかならない。それは、戦争という「非常事態」においては、国民が多かれ少なかれ犠牲を余儀なくされるので、国民は等しくその被害を受忍しなければならない、などという国家の戦争権を容認するばかりか、国家の戦争のために国民は犠牲になって当然とする、人民主権の社会とはおよそ相容れない論理である。だが、国家の責任の追及を許さないこの受忍論が、著者によれば、今や拡張されて、福島原発の「未曾有の事故」という「非常事態」に適用されようとしているのだ。放射線の「許容量」が定められること自体、そのことの表われと言うべきであろう。

しかし、この人災そのものが、電力会社と結びついた国家の原子力政策の帰結ではないのか。にもかかわらず、責任の所在が覆い隠されるかたちで、法の暴力の歴史が、それとともに「受忍」の歴史が今繰り返されようとしている。それを食い止めるために、つまり「受忍」の論理を突き破って責任の所在を突き止め、そして生きるために当然の援護と補償を得るために、本書は読まれなければならない。

[平凡社新書、2011年]

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