長谷川宏『ことばへの道──言語意識の存在論』

「しかし、言葉を発するとは誰かに語りかけることであり、誰かのために思うことである。この誰かは、つねにその人と特定された誰かであり、一般化された誰かとして耳だけをもつのではなく、口も具えているのだ」。本書を読んでいるあいだ脳裏に去来したのは、ここに引いた、ローゼンツヴァイクが「新しい思考」のなかに記したこの言葉である。言葉は伝達の手段として機能するばかりではない。言葉は、誰かへ向けて発せられ、その誰かとの関係を取り結んでいく。そうした生きた働きのうちにあるものを掘り下げることなく、言葉そのものを問うことはできない。このことを銘記しながら著者は、言語が人と人のあいだで語られるという出来事を、「言語場の成立」、「表現の構成」、「伝達の構成」という三つの観点から解き明かそうとしている。

そのような著者の議論のなかで注目されるべきは、言葉が沈黙のなかから表現として立ち上がってくるという事態を、詩的な表現の豊富な例を引きながら、あるいは「空談」としての日常言語の批判を背景にしたハイデガーの言語論を解釈しながら論じている点であろう。そのなかで、ベンヤミンをはじめとする思想家も述べているように、言葉が表現となるなかで受動性と能動性が一体となっていること、すなわち言語そのものが、伝達手段である以前に媒体であることを指摘していることは、特筆されるべきと思われる。このような議論が、すでに1978年に現われていたのだ。それを忘れたまま、いわゆる「言語哲学」は、言語の機能性にのみ目を奪われていたと言えるかもしれない。

こうした重要性を著者の言語哲学に認めないわけにいかないと思う一方で、著者が言語を絶えず共同性と結びつけようとしている点には、疑問を拭えないのも確かである。著者の議論において、言語自体の象徴性が、わだかまりなく言語の語り手の共同性への参入につながってしまっているように見えるのだ。

むろん、それによって、言葉というものが、上から神話的に語られ、人を従わせるものでは断じてなく、むしろ対等な人々のあいだで語り交わされ、そのような人々の共同性を形成する媒体であることを示したいという意図はあろう。だが、デリダなどの議論を通過した見方からすれば、言葉の象徴性は意味の共有を保証するものではありえないし、むしろ沈黙に抗して言葉を発し、誰かに語りかけるのは、その誰かに伝わることの定かならぬ可能性へ向けてではないか。それゆえ、そこにあるのは祈りのようなものですらあるのではないだろうか。だからこそ、誰かへ向けて言葉を尽くすのであり、言葉を発する際にその「誰かのために思う」とローゼンツヴァイクは述べているはずである。言葉を語りかけるその誰かが、他者であることが省みられないまま、言葉を語り交わす関係が水平的な次元に収斂しかねない危うさも、本書の議論は含んでいるように思われる。

[講談社学術文庫、2012年]

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中