Toward the Stillness

Toward the Stillness: Four Essays [1998]

 

■Im Freien

闇のなか、手探りでラジオを消した。船の汽笛が聴こえた。

鹿児島の私の家は海から離れた高台にあるのだけれども、夜になると港に停泊している船の汽笛が聴こえてくることがある。冬になるとそれはよりはっきりと聴こえてくる。

小さな望遠鏡で見る彗星のように、茫漠とした余韻を引きながら遠くへ響いてくる汽笛の音。それは港にあっては何かの合図なのかもしれないが、港からは遠く離れた私の耳まで届くとき、それはもう誰のためのものでもない一つの音になってしまっている。その音は人間の手を離れて、一つの物音として鳴っているのだ。夜の遠耳に聴こえてくるのは、そんな物音たちである。

夜、それは所有することの彼方にある音たちの時間である。昼の明るみとそこに行き交う視線から解き放たれて、さまざまなものたちがそれぞれの音を奏ではじめる。そのとき自分の音を立てるのは、なにも夜行性の生きものばかりではない。草木も、生命をもたない人工のものも、そして空気も、光のなかに聴こえるのとは異なった音を鳴り響かせている。こうした夜の音たちに耳を傾けているとき、たとえ体をベッドに横たえているときでも、私の耳は戸外にあるように感じられる。

夜の音たちは、眠りの前の身体が自らのうちに刻み込まれた記憶を繰り広げているところにも入り込んでくる。その音には、耳を戸外の静寂へと引き出す力が備わっているのではないだろうか。バルトークには「戸外にて」 (Im Freien: 1926) というピアノのための作品があるのだが、その第四曲「夜の音楽」では、夜の空気から湧き出てきたかのようなさざめきが、民謡ふうのメロディーを幾度となく中断し、再び闇のなかへ消え入ってゆく。こうして戸外の空間から聴こえてくる音によって記憶の歌が遮られるとき、耳は不眠の床を離れて、昼の喧噪のなかでは塞がれていた自らの感受性を再び見いだすことだろう。耳は外へと開いて、解き放たれた音たちを聴く。今やそれは、人間によって所有された音の意味するところに従って、身体を定められた振る舞いへ駆り立てたりすることはしない。

夜の音楽、それは不眠の苦しみを取り除きながら、私を眠りからさらに遠ざける。

だが、音たちとの対話のなかで苦しみが和らぐのも、鹿児島の家にあっては、虫たちが地中で息をひそめている間だけである。夏に聴こえる音はあまりにも力強い。漲る生命が耳を突き刺してくることもある。そんなとき、私はラジオを点けることにしている。深夜にラジオから聴こえてくる音、──どれを聴くかにもよるのだけれど──それは私にとって、耳を遠くへ、あるいは遠く過ぎ去ったものへ誘う音である。

夜の音は遠くから響いてくる。それをどのように聴くことができるのだろうか。一つの言葉として。そうかもしれない。だが、その言葉とは、近くに満ち溢れているものとは異なった一つの言葉であるはずだ。では、遠くで呟かれる言葉として聴き取るとはどういうことなのだろう。

もしかしたら、遠くの音たちが聴こえてくるひと時こそが、静寂というものなのかもしれない。この夜の静けさはいま、昼によって絶えず浸食されている。昼、騒々しい人間たちの時間。

夜の音たちを聴き取ることで、夜の空間を、遠くからの音が聴こえてくる空間を切り開くことができるだろうか。そこにはおそらく、もうひとつの言葉が、ひとつの歌に結晶するかもしれない一つの言葉が必要だろう。そして、その言葉には、武満徹の言う「〈沈黙〉と測り合えるほどに、強く少ない音」が具わっていなければならないように思われる。

まだそのような言葉には遠いところにいる私は、ひとつの「充実した沈黙」を経験するところから始めたい。もっと耳を澄ますこと。耳を澄ますときにしか静けさはないのだから。

 

■Hommage à Sandor Végh

舞台袖から出てきたのは直角近くまで背中の曲がった老人だった。彼は突き出た腹に顎を載せるようにしながらよちよちと歩いて、普通の人のたっぷり三倍の時間をかけて舞台の中央までたどり着き、コンサートマスターの肩を借りてようやく指揮台の上に据えられた椅子に落ち着いた。そしてひと息ついてから、彼はおもむろにタクトを持たない右手を振り下ろした。すると、今まで経験したことのなかったモーツァルトの空間が静かに開かれるのだった。

この不思議な老人、シャーンドル・ヴェーグのことを知ったのは六年ほど前のことである。きっかけは一枚のコンパクト・ディスクだった。それに収められているバルトークのディヴェルティメントやベルクの抒情組曲の演奏に、私の耳は引きつけられた。あらゆる音が新たな命を吹き込まれたかのように脈打っているのが、澄み切った響きのなかから聴こえてきたのである。後に私は、FMで放送されていたザルツブルク音楽祭の「モーツァルト・マチネ」で、ヴェーグがモーツァルトやハイドンの作品も取り上げていることも知った。彼の手にかかると、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のような作品でさえ、すべての手垢を落としたかのような清冽な響きを取り戻し、これまで「モーツァルト」の情緒のなかに埋もれていたリズムの躍動を示すのである。それも一つの形式を失うことなく。一昨年の冬、「モーツアルト週間」の時期にザルツブルクを訪れた目的の一つは、そうしたヴェーグのモーツァルトを聴くことだった。

彼の指揮するザルツブルク・カメラータ・アカデミカの演奏会で聴いた、あの有名なト短調の交響曲は、この作品にこびりついている人間的な、というよりもちょっと俗っぽい感傷からまったくかけ離れた風景を繰り広げていた。その風景は、これまで気づかなかった一つひとつの音の相貌や音と音との関係が、空間の透徹した広がりのなかに聴き取られるような静けさによって貫かれていたと思う。フィナーレのアウフタクトで始まる二小節の間にある音楽、こうしたものこそ、「疾走する悲しみ」のような言葉の騒々しさが覆い隠してきたものではないだろうか。

この静けさが夜のそれであることがはっきりと示されたのは、フィナーレの展開部へと移るところだった。空間を裂くようなトゥッティのユニゾンが奏き切られた後に一瞬の間隙があったのだが、このふとしたパウゼが、どこまでも深い闇を開いたのである。そこから聴こえてくる薄明のような木管の和音は、闇の深さに慄くかのような主題の転調を引き出していた。この闇のなか、初めの二つの楽章でしばしば現れる、二つの細かな音の連なりが遠くで閃いていたのだ。アンダンテの楽章においてそれは、湧き起こる感情を噛みしめるかのようなフォルテがやがてひとつの歌へ昇華するのに応答するのである。ヴェーグがこの演奏を通じて呈示していたのは、主題をなす歌と、それにさまざまなかたちで関わる音たちが、出会いの瞬間に一つの風景を開くようにして響き合う姿だったのだろうか。そこにある自然な息遣いの交錯は、さまざまな風景が開かれる空間の無限の広がりを暗示していたのかもしれない。ザルツブルクの演奏会場の客席で私は、その空間が遠くの音たちを透過させる夜の澄んだ空気で満たされているのを感じていた。

このト短調交響曲の最初の主題は、今までに聴いたどの演奏よりも慎み深く歌われていたのだけれど、それを奏でるヴァイオリンの音は、どこかヴェーグ自身のヴァイオリンの音に似ていた。その透徹した響きは、静謐さに貫かれた空間へ聴き手を導くものであった。

 

■Deux impromptus

ポール・クローデルは、『眼は聴く』という題をもった本のなかで、オランダの絵画についてこう語っている。「それらのどれひとつとして、声高に語っているもののかたわらに、小声で言わんとしているあるものを隠していないものはない。」風景画をはじめとするオランダの絵画は、微小なものたちに言葉を与えるために、あれほどまで細密に描かれているのだろうか。「それを聞き、言外のものに耳を傾けることこそ、われわれの義務である。」このようにクローデルは、オランダの絵画を見る人々に、一瞬を描き取ったタブローがその細部から語りかけてくるものを聴き取る耳をもつことを求める。だが、この耳はどのように聴くのだろうか。

微かなものに耳を澄ますとき、そこにはひとつの充実した沈黙があると思う。この沈黙のなかで耳は、聴こえてくるものにただ身を委ねる受容の器官であることはできないはずだ。

充実した沈黙のなかにあるのは、微かに聴こえてくるものたちとの対話であろう。この対話は、やがて沈黙を突き破って、聴き取られたものを言葉にもたらし、光のなかに取り出すのではないだろうか。私は、画家の眼もそのような対話をおこなっていると思う。

静寂のなかで耳を澄ますとき、ひとつの微細なものが他のものたちと響き合っているのを聴き取る言葉が、光を求めて動き始めているのではないだろうか。その言葉とは、遠くから聴こえてくるもの、そうして耳をとらえるものに応答する対話の言葉だと思う。オランダの風景画において細部の光彩──事物の光彩とは、それが他のものと響き合う瞬間を示すものであろう──が緻密に描き出されているのを見るとき、私はそうした言葉が画面の上に結晶しているのを感じる。

ところで、カンディンスキーには「即興」 (Improvisation) という標題をもつ作品がいくつもあるのだが、それらを見るとき、世界のなかから語りかけてくるものと画家の眼差しの静かな対話から、光の言葉とでもいうべきものが、まさにその対話のなかからしか出てこない「即興的な」ものとして取り出されているのを感じる。この標題にふさわしい闊達な筆遣いにおいて。その筆遣いはまた、絶えず過ぎ去ってゆく時間のなかにおかれた画家の身体が、対話のおこなわれる一度限りの瞬間をカンバスの上に描き取ろうとする所作を示すものなのかもしれない。

「即興」というタイトルは、カンディンスキーにとって、現実に準拠した制作から自らを解放するものであったようだ。確かに、いまだ具象性を残している画面上のさまざまな形象は、ある事物や人物としての特定の現実性からは解放されているといえよう。そして、ここで形象をそうした制約から解き放つのは、画家によって表出されているその色彩であるように見える。だが、いまだ具象的なものをその内部から解放している、ひとつのモティーフのなかの鮮やかな色の配置は、ある種の「現実」よりもっと現実的なものと語り合う思考がはたらいているのを感じさせずにはいない。ある瞬間に、実在するものの細部でさまざまな色が響き合っているのを、色の厳密な配置においてとらえる思考なしには、そのような「即興的な」色彩の表出はありえないと思われるのだ。そうした色と色の響き合いをとらえることを、カンディンスキーは「内面化」と呼んでいたのだろうか。

もしかしたら、「即興」とは、本当はきわめて厳密なものなのかもしれない。

即興の厳密さ。このことをあらためて強く感じさせてくれたのは、内田光子によるシューベルトの即興曲の演奏だった。考え抜かれた即興というものがあるとするなら、それこそがこの演奏から聴き取られるものであろう。いたるところで聴かれるふとしたルバートやテンポのわずかな揺れ、転調に伴う微妙な音色の変化といった動きのうちに、厳密な思考の跡が感じ取られるのである。その思考とは、楽譜のなかから聴こえてくるものに応えるひとつの対話であろう。

耳を澄ます思考としての楽譜のレクチュール、それは一つの響きにおいて思い浮かべられる音楽に身を委ねることではない。耳を澄ますとは、むしろそうした想像を可能にするような、書かれた音符を覆うイメージを突き破るものであろう。それを突き抜けたところではじめて鳴り響いてくるものがあることを、内田光子の演奏ははっきりと示している。そうしたものを聴き取る思考、それは歌の息遣いを疎外するものではない。むしろ、静かなこだわりをもって読まれた楽譜のなかから聴こえてくるものに応答する思考は、沈黙を破るいくつもの歌に結晶するのではないだろうか。一つひとつが、こうであるほかはない、という厳密な息遣いをもった歌に。こうした歌の数々がひとつの演奏のなかで、鮮やかな光彩をもったモザイクのようなものを形成するのかもしれない。

内田光子による「即興曲」の演奏のうちには、例えば主題が回帰してくるときに、身体を媒体としたひとつの歌の想起がそこにあることを感じさせる瞬間がある。その瞬間に聴かれる、時の移ろいのなかにおかれた歌、これも彼女の厳密な即興による歌である。
厳密な即興のうちにあるもの、それは一つの回り道だと思う。そして、この回り道を静かに歩むことを通じてはじめて取り出されるものが確かにあるのだ。

 

■Toward the Sea!

四歳のころから小学校に上がるころまで、私はどこへ行くときにもたいてい魚の図鑑を携えていた。四歳か五歳の誕生日に、デパートの書店で『学研の図鑑・魚』をねだって、親ばかりか書店の店員までも困らせてしまった覚えがある。それを正しく読めるかどうかは問題ではなかった。魚の姿と名前を一致させ、その生態や分布を自分なりに頭に入れて、さまざまな魚たちが泳ぎ回る姿を思い浮かべるのに喜びをおぼえていたのである。

そんな幼いころの私にとって水族館に行くことは最大の楽しみの一つであった。日頃は想像のなかにしかない魚たちの泳ぐ姿をこの目で見ることができるのだ。沖縄の「海洋博覧会」に連れて行ってもらったときなど、大きな水槽で魚たちがのびのびと泳ぎ回っているのが見られる水族館に毎日行きたいとせがんで、また両親を困らせてしまったものだった。

水族館を訪れることは今でも好きだ。でも、どうして魚たちが泳ぐ姿を見るのが好きなのだろう。

大阪の水族館で、巨大なジンベイザメがゆったりと泳ぐのをじっと眺めながら、私は、武満徹が「海へ!」という彼自身の作品に寄せた言葉を思い出していた。「できれば、鯨のような優雅で頑強な肉体をもち、西も東もない海を泳ぎたい。」ジンベイザメ──それは鯨鮫ともいう──は、水槽の同じようなところをぐるぐると回っているだけなのだけれども、その泳ぎには何ひとつ迷いがないように見える。この迷いのない動きには、伸びやかな優雅さというものがあるのかもしれない。そして、この優雅な動きのある空間は、一つの静けさで満たされているのではないだろうか。

以前は引き締まった流線型の回遊魚の泳ぎに憧れていた。とりわけ、均整のとれた流線型をもつ鰹の泳ぎは、さぞかし美しいものだろうと思っていた。だが、ここ最近、そうした回遊魚たちの群れをなして同じ方向へ突き進む姿には、どこか付いて行けないものを感じる。むしろ今は、群れることのないエイの泳ぎに魅力を感じる。エイにもいろいろなものがいるが、私がとくに魅かれるのはトビエイというエイである。それは本当に滑空するように泳ぐ。この静かで伸びやかな動きに、私は憧れるのだ。

ジンベイザメと同じ水槽でトビエイが泳ぐのを見つめながら、自分がなぜ魚たちが泳ぐのを見ることに楽しみをおぼえるのか、少しずつ分かってきたような気がした。私もあのエイのように泳いでみたいと思う。自分が身を置いているこの世界で。だがあの迷いのない、ほんとうに伸びやかな泳ぎのための静かな空間が、いったいどこにあるというのだろうか。

おそらく私は、その空間を自分の手で切り開かなければならないのだろう。自分の手で、といったけれども、「西も東もない海」を泳ぎ回るものたちのような「頑強な肉体」というものを持たない私に残されているのは、たぶん言葉だけだと思う。今、私が求めているのは、静けさを切り開く言葉である。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中