「東京-ベルリン/ベルリン-東京」展

[2006年3月14日/森美術館]

東京六本木の森美術館で開催されている「東京-ベルリン/ベルリン-東京展」を訪れる。19世紀末から21世紀の現在に至るまでのベルリンと東京の芸術交流の歴史を、絵画、写真、建築、工業デザイン、ライヴ・パフォーマンスといった側面から描き出そうとする実に意欲的な展覧会である。自分に残された2時間ほどではとても充分に作品を見ることができないくらい見ごたえがあった。

19世紀も終わりにさしかかった頃、新興の明治政府は、ベルリンから建築家を招いて政権の中枢をなす官庁街を日比谷に整備しようとする一方、森鴎外をはじめ若い学者や芸術家をベルリンへ派遣し、当時最新の学問や技術を学ばせたり、新しい芸術の息吹に触れさせたりしていた。そうした公的な交流を背景にしながら、日本の芸術家たちが深いところでドイツの芸術運動からインスピレーションを得ていたことを、最初の数室の展示は示していた。

ベルリンで作曲を学んでいた山田耕筰と同じくベルリンでデザインを学んでいた斎藤佳三が、表現主義の発信基地とも言うべきシュトゥルム画廊の委託を受けて、第一次世界大戦の始まる1914年に日比谷美術館で表現主義の木版画の展覧会を開いたのをきっかけにして、表現主義の運動が日本にも徐々に浸透し始め、またドイツの絵画の潮流が日本でも知られるようになる。展覧会の第2室は、そのきっかけとなった日比谷美術館の「シュトゥルム木版画展」を半ば再現したような展示になっていた。

それに続く部屋には、当時のドイツの新しい芸術運動の影響を受けた日本の芸術家たちの作品が展示されていたが、たとえば岸田劉生はすでにデューラーの人物画を範としつつも、表現主義的な内面の発露を画面にもたらそうとしているし、また萬鉄五郎、東郷青児、普門暁といった芸術家の作品には、「青騎士」の画家たちの影響が色濃く表われている。萬はカンディンスキー風のコンポジションを試みているし、東郷の初期の女性像は、カンディンスキーと見まがうばかりの抽象性と色彩の構築性を示している。また神原泰は、画面に音楽的な運動を生命の流動として導入した作品を残しているし、普門の作品では鹿の姿がマルケの描く馬のように自然の生命の躍動と、そこにある色彩の運動のなかに溶け込もうとしている。ただし、普門の作品では表現意欲の横溢が画面の速度に結びついている一方で、マルケ自身の作品においては、瞑想的な静けさのなかで馬の姿が自然の色調のなかに静かに溶け込もうとしているのだけれども。

ところで、最初の展示室には、ドイツ表現主義絵画を代表する一人エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの作品も数点展示されていた。キルヒナーは、ドレスデンから移ってきたベルリンのアトリエに和傘を飾ったり、日本の芝居小屋の情景を描いた絵を残したりと、日本文化にただならぬ関心を示していた。もしかすると人物像の描き取り方には、ゴッホを経由したジャポニズムの影響があるのかも知れない。今回展示されているキルヒナーの作品のほとんどは、ベルリンの新国立美術館などで見たことがあるものだったが、19世紀末からの日本の美術や同時代のヨーロッパの芸術家の日本文化への関心と並べてあらためて見ると、キルヒナーの作風とジャポニズムの関係も少し意識せざるをえない。

それにしても、今回展示されているキルヒナーの作品はどれも見ごたえがある。何と言っても「ポツダム広場」は、アウラを剥ぎ取られた都市の情景をそこにある速度とともに鋭く描き出しながら、そこに娼婦と思われる女性のこちらを見つめ返すような一瞬の姿を刻印する傑作である。その女性の緑がかった肌の色は、一瞬にして儚く消え去ってゆくものが閃かせるアウラを放つかのようであり、また街路の緑は、いったん神話的なアウラを剝ぎ取られた都市が、再び無限の迷宮を内に宿した自然へと廃墟化しつつあるのを示しているかのようだ。実際、この画面の奥行きは深い。緑の街路がどこまでも続いてゆくように見える。もう一つ「ベル・アリアンス広場」も、広場のギリシア風の神話的なモニュメントのアウラを剥ぎ取りつつ、その廃墟のなかから自然の一瞬の輝きを抉り出している。そして、その輝きの中心にあるのはやはり緑なのだ。キルヒナーにとって緑とは、儚く滅び去ってゆく自然が一瞬閃かせるアウラの輝きの光彩なのかもしれない。

さて、ドイツと日本の芸術交流の場としてもう一つ挙げなければならないのは、芸術とそれにもとづく生活空間の再構成、さらには世界変革をも目指した芸術運動としてのバウハウスである。バウハウスの美術学校に留学し、そのエネルギーを日本に持ち帰ろうとした日本人がいた一方で、ブルーノ・タウトは、ナチスによってドイツを追われた後日本に住みつき、その風土を生かした、かつバウハウス的に簡素で洗練された生活空間のデザインを日本に根づかせようと試みてもいた。そうした彼の試みについては、今後再評価が進むかもしれない。また、モニュメンタルな外観によって見る者を威圧するのではなく、人間の生活の場としての内部空間を、それぞれ異なった生活をいとなむ身体性にもとづきながら無駄を削ぎ落としたかたちで再構成し、それにもとづいて建築それ自体を組み立てなおそうとしたこの時代のバウハウス的建築も、バブルの再来とばかりに大都市にいくつもの巨大オフィスビルが建てられている今こそ再評価されるべきであろう。そのように生活空間を内部から再構成することを目指す建築や工芸のデザインにも触れることができたのも、今回の展覧会の収穫だった。

バウハウスの運動は、ナチスによって押し潰されてしまうが、そうしたナチズムの暴力に対するジョージ・グロスらの風刺的抵抗の絵画も展示されていたし、あるいはファシズムによる政治の唯美主義に貢献したドイツと日本双方のフォト・ジャーナリズムの動きが当時の雑誌などによって描き出されていたのも興味深い。また、第二次世界大戦の敗戦を経験した両国のなかに、戦争の犠牲を神話化するかのような具象画が現われているのは、敗戦の後、両国の人びとがともにその虚構の自己同一性を慰撫する物語を求めていたことを示していよう。そして、それに対する誘惑は未だ死に絶えていない。こうした絵画の問題は、現在の問題でもあるのだ。

今回の展覧会では、1960年代以降東京とベルリンがともに国際的なフルクサス運動の発信拠点として機能していたことも、フルクサスのパフォーマンスのヴィデオ放映を中心とする多彩なドキュメントで描き出していた。また、この二つの都市では、ジャンルの越境と公的空間でのパフォーマンスによって、経済成長を追い求める時間の流れに楔を打ち込もうとする試みも盛んに行なわれていた。その様子も興味深く展示されていたのだけれども、たとえばヨーゼフ・ボイスらの活動が当時いったい何を目指していたのかを、もう少しインパクトのあるかたちで、そのアクチュアリティとともに描き出してもよかったのではないだろうか。

19世紀の終わりには新興国の首都としての都市計画を推し進め、第二次世界大戦の敗戦後は瓦礫の山からの復興を目指した東京とベルリンは、言ってみればどちらも「グラウンド・ゼロ」からの都市空間を再構成しようとする芸術の、さらには世界変革を目指す芸術の拠点だったはずである。今回の展覧会は、19世紀末から現代に至るまでのエポックメイキングな芸術運動と、それをめぐる東京とベルリンの芸術をめぐる交流とを、実に目配りよく展示していたように思われるが、その一方で東京とベルリンの「グラウンド・ゼロ」からの芸術の希望を今に閃かせるところにまで踏み込んではいなかったのかもしれない。細かい点まで実に目の行き届いた展示であったことは大いに評価できるものの、芸術の今をその可能性とともに照らし出すようなインパクトにはやや欠ける感があったのが、いささかもの足りなく思われたところである。今秋ベルリンで開催される「東京-ベルリン/ベルリン-東京展」において数多く展示されることになっている東京の芸術家たちの作品は、ベルリンの地で芸術の今をどのように照らし出すのだろうか。

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