研ぎ澄まされた親密さ──倉敷でのハーゲン弦楽四重奏団演奏会

[2003年2月23日/倉敷市芸文館]

ハーゲン弦楽四重奏団の演奏にじかに触れるのはこれが二度目である。今から七年前、ザルツブルクのモーツァルト週間の一環として行なわれた演奏会を、モーツァルテウムのホールで聴いたのが、このクァルテットとの最初の出会いである。そのときはヴィオラにジェラール・コセが加わって、モーツァルトとブラームスの弦楽五重奏曲を聴かせてくれた。当時からすでに、きょうだいを中心としたクァルテットならではの親密さと透明さを兼ね備えた響きのなかに、鋭敏な感性を洗練されたかたちで表現していたのだけれども、今回の演奏会では、そうした魅力にいっそう磨きがかかっているばかりでなく、さらに緊密なアンサンブルによって、弦楽四重奏の可能性を示す新たな境地にも達しているのを確かめることができた。

休憩の後で、バッハの「フーガの技法」から最初の四曲が演奏されたのだが、それを聴くと、たとえば晩年のカンディンスキーの抽象画のような、すみずみまで厳密に構成されることによって逆にそれぞれの色の濃密さとタブローの光彩が際立ってくる抽象画を見ているようであった。四人はバッハを一貫してノン・ヴィヴラートで演奏したが、それぞれの楽器の音は、ピリオド楽器を意識した演奏がしばしばそうであるように、痩せぎすになったり、それぞれの音の物質性をことさらに際立たせたりすることはなく、むしろ豊かさが保たれたなかにどこか張りつめたものがあることを感じさせる。そのような音の線を折り重ね、しっかりと組み合わせることによってフーガが織り上げられてゆくのだが、フーガ全体の響きは壮大な建築のように聴き手を圧倒することはなく、むしろ四人のあいだの空間へ聴き手を引き込む求心性を保ち続けていた。この小さな空間では、音の線と線が緊密な関係を結ぶことで一本のフーガの線が形づくられていき、それとともに響きの彩りも少しずつ変わってゆくのである。そう、この抽象画は小さなタブローなのだ。

ハーゲン四重奏団は「フーガの技法」を、いわゆる「バッハのフーガ」であるよりもいっそう純度の高い音楽として、つまり純粋な音による純粋なフーガの形式を示すものと捉えているようだ。そして、その演奏はもちろん洗練された響きによるものなのだけれども、けっして冷たくなりすぎることはない。緻密なアンサンブルはむしろ暖かささえ醸し出しているし、そのことがまさに、バッハの書いたフーガが凝縮されたかたちでそこにあることを思わせるのだ。ハーゲン四重奏団による「フーガの技法」の演奏は、演奏楽器の指定されていないこの未完の作品を、モダン楽器の弦楽四重奏で演奏する一つの可能性を、説得力あるかたちで示していると言えよう。

その後、ほとんど間を置かずにショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第八番が演奏されたが、このことからして四人が、作曲者の名を主要なモティーフとしているこの二つの作品を意図的に並べていることがわかる。とはいえ四人の演奏は、そのことに意味を込めて、この弦楽四重奏曲の自伝的要素を強調するものではなく、わずか四つの音にもとづく、バッハのフーガと比肩しうるほどに純度の高い形式がそこにあることを示そうとするものだった。やはりノン・ヴィヴラートの音で主題が提示され、それがどちらかというと線の細い音でずっと展開されてゆくさまは、たしかにショスタコーヴィチの踏みしめているロシアの大地と、その上にあった重苦しい時代の情景を浮かび上がらせるような広がりには欠けていたかもしれない。しかし、四人の緊密なアンサンブルが聴かせる澄みきった響きは、とりわけラルゴの諸楽章において、そのように自伝的であることに限られないこの作品のより普遍的な形式を浮き彫りにするばかりでなく、ショスタコーヴィチが五線紙の上にその墓碑銘を刻み続けていた死者たちの声が彼方から聴こえてくることができるような静けさをも織りなしているようであった。アレグレットのワルツも、眼の前の死神がけたたましく奏でるワルツではなく、かつて死者たちと奏でたワルツが記憶のなかで鳴っているかのようだ。そうしたなかに打ち込まれる厳しいアクセントは、作品全体を貫く、ショスタコーヴィチの作品ならではの緊張感を際立たせていたが、それ以上に印象的だったのは、最後の祈りの音楽の研ぎ澄まされた静謐さである。

さて、演奏会の冒頭では、ハイドンの「騎士」の名で知られている弦楽四重奏曲が演奏された。ここでは、四人の若さがリズムのみずみずしい躍動をもたらしていた。終楽章のギャロップのようなリズムには、冗談なんだよと眼で言っているような荒々しさがあるのだけれども、そこで微笑んでいるのはうら若い少年の眼であるように思われた。ルーティンな演奏では表に出てこない清新な魅力を強調しながら、しっかりとした形式によって貫かれていることも聴かせるあたり、四人の音楽の成熟も感じさせる。

ハイドンの後には、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲第一番「クロイツェル・ソナタ」が演奏されたが、ここでクァルテットの研ぎ澄まされた響きは、ときに背筋に寒気をはしらせた。恐るべき深淵が四人のあいだの狭い空間のなかに口を開けるような響きの透明さが聴かれたのである。不倫の愛を暗示するモティーフのどろっとした肉感的な魅力には欠けていたかもしれない。しかし、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」を思い起こさせるスル・ポンティチェロには、胸を締めつけることを越えて、それぞれの音がガラスの破片のように胸に突き刺さってくるような厳しさがあった。

アンコールに、ベートーヴェンの二番目の「ラズモフスキー」四重奏曲から第二楽章が演奏されたが、その演奏は、ヤナーチェクやショスタコーヴィチの演奏において張りつめた静けさを表現するまでに研ぎ澄まされているのが、四人のあいだの親密さにほかならないことを、あらためて思い出させてくれた。この親密さのなかから今度はどのような世界が開けてくるのか楽しみにしたい。

(2003年2月28日)

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