モーツァルト週間2006の演奏会より

■カペラ・アンドレア・バルカ演奏会

[1月22日/モーツァルテウム大ホール]

モーツァルテウムの大ホールで、ピアニストのアンドラーシュ・シフが率いるカペラ・アンドレア・バルカの演奏会を聴く。このグループ、シフが1999年から2005年にかけてのモーツァルト週間においてモーツァルトのピアノ協奏曲を全曲演奏するために編成されたもので、シフ自身が選んだ音楽家によって構成されているとのこと。ちなみにアンドレア・バルカというのは、1770年4月2日にフィレンツェ近郊のヴィラ・ポッジォ・インペリアーレで行なわれたモーツァルトの私的な演奏会でピアノを弾くモーツァルトの譜めくりをして以来、モーツァルトのピアノ作品の演奏に生涯を捧げようと決意した人物のようである。

モーツァルトの作品ばかりが3曲演奏されたが、どの作品の演奏を聴いても、シフと演奏することに対するメンバーの喜びがストレートに伝わってくる。常時一緒に活動しているグループではないので、一つのセクションが一つの楽器に聴こえるようなアンサンブルの精度は求むべくもないが、ピリオド楽器風の素朴な響きを生かしながら洗練された表現を聴かせるあたりがとくに魅力的なグループ。生気に満ちた明るい響きは、モーツァルトにふさわしい晴れやかさを示している。

最初に、第19番に数えられる変ホ長調の交響曲が演奏された。どこかバロック的な雰囲気を残す初期の交響曲であるが、とくに緩徐楽章など、バロック的な強弱の対比のなかから一貫した音楽の流れが産み出されようとしているあたり、蝶が蛹から出てくるのを見るようで面白い。シフとカペラ・アンドレア・バルカは、そのような曲の若さとでも言うべきところをストレートに表現していた。メヌエットで字余り的にヴァイオリンが残るところも変に取り繕ったりしないので、かえって諧謔が増す。少し後に書かれる3曲のディヴェルティメントを予感させるようなフィナーレの快活さが、とりわけ印象的。

シフとカペラ・アンドレア・バルカの魅力が最もよく生かされていたのは、シフの弾き振りによるト長調のピアノ協奏曲(KV. 453)の演奏においてであったと思われる。管弦楽がやや素朴さを残した響きで愉悦を表現した後に登場したシフのソロには当初こそ硬さを感じたものの、やがてベーゼンドルファーで弾くシフの独特のやや硬質のタッチが、音楽の和声的な構造と旋律的な輪郭を元気のよいオーケストラの響きのなかから際立たせるのに実に有効であることが理解されてくる。それらを浮き立たせることでシフはまさしく「弾き振り」していたのだ。第1楽章では、木管楽器の着飾ることのない響きもチャーミング。緩徐楽章は、モーツァルトを聴いていることを実感させてくれる温かで晴れやかな響きで始まった。ピアノが短調の旋律を奏でる一節も、妙に深刻ぶったところは微塵もないが、切々と胸に迫ってくる。オペラのように喜怒哀楽が目眩く速さで入れ替わるフィナーレの演奏は、個々の局面の表情を明確につけながら一気に聴かせる。ここではシフのピアノが冴えを見せていた。全体として、モーツァルトのピアノ協奏曲のなかでもとくにチャーミングなこの曲の新たな魅力を照らし出す演奏だったのではないだろうか。聴衆のアンコールに応えて、フィナーレの最後のプレストの部分が再度演奏された。

休憩後にはハ長調の「ジュピター」交響曲が演奏された。その演奏は、モーツァルトが笑みを浮かべながら大きな杖で木の床を突いてみせたかのような響きで始まった。素朴でありながら一点に凝集した響き。シフの指揮は一貫して内声部の動きを強調していたが、そのために響きがけっして弱々しくならないし、また音楽に推進力をもたらすリズムの躍動感も生まれている。晴朗な響きで音楽が流れてゆくなかに打ち込まれるティンパニとバスのリズムは、作品のアポロン的な造形にも眼を開かせよう。弦楽器が弱音器を着けて演奏する緩徐楽章でも、けっして響きが弱々しくなることはない。むしろ力強く、晴れやかな響きで感興の高まりがストレートに表現されていたように思う。ため息をつくようなトゥッティのフォルテは、次のフレーズに生命を吹き込むかのよう。続くメヌエットでは、内声部の動きがとくに強調されていたが、その躍動が実に小気味よい。速めのテンポによるフィナーレの演奏のところどころで響きのバランスが悪くなったり、合奏の綻びが見られたりしたのは残念だったが、そのコーダでヴァイオリンの晴れやかなピアノの響きが張りつめるなかにフーガの主題が回帰してきたときには、胸に熱いものがこみ上げてきた。そうした感動にうち震えることなしにこの交響曲を聴くことができるだろうか。

 

■ニコラウス・アーノンクール指揮:ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

[1月22日/祝祭大劇場]

祝祭大劇場でニコラウス・アーノンクールが指揮するヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。ハイドンとモーツァルトの作品が2曲ずつ演奏されたが、全体としてアーノンクールの、とくにモーツァルトへの辛口のアプローチが際立つ。モーツァルトの喜びを率直に打ち出したシフとカペラ・アンドレア・バルカとは対照的に、練り上げられた響きと表現によってモーツァルトの音楽に内在するドラマを抉り出そうとする演奏と言えようか。

最初に演奏されたのは、「火事」という綽名の付いたハイドンのイ長調の交響曲(第50番)。火事騒動を扱った戯曲にハイドンが付けた音楽から借用した動機が用いられているとのこと。たしかに沸き立つリズムはドタバタ騒ぎのようだし、とくにフィナーレで噴出するフォルテは火事を思わせなくもないけれども、どちらかというとむしろ素朴さを残すピアノの響きが印象的で、アーノンクールもそれと騒々しいフォルテとの対比を強調していた。曲自体はちょっととりとめがない感じ。

前半にはもう1曲、モーツァルトの第14番に数えられる変ホ長調のピアノ協奏曲(KV. 449)が演奏されたが、通常甘美に響く緩徐楽章冒頭の旋律も、アーノンクールの手にかかると、フレーズの襞を際立たせながら、きりっと引き締まった表情を呈する。フィナーレの演奏は、鋭いアクセントで辛口のユーモアを示していた。このように明確な方向性を打ち出すアーノンクールの指揮に対して、この曲で独奏を務めたレイフ・オヴェ・アンスネスのピアノはまったく冴えない。必要以上に軽いタッチでさらさらと弾き進めるが、ひとつひとつの音からまったく必然性が感じられないのだ。休憩を挟んで演奏されたハイドンのト長調のピアノ協奏曲には、ほとほと退屈させられた。アンスネスは、独奏として楽譜に記されているパートばかりでなく、オーケストラの通奏低音も、即興的な装飾を交えながら弾くべきではなかったか。彼のピアノは、最初から最後まで存在感を示せないまま、オーケストラの響きのなかに埋もれていた。

最後にモーツァルトのト短調の交響曲(KV. 550)が演奏されたが、アーノンクールとヴィーン・フィルの今回の演奏は、この作品のデモーニッシュな劇性を最大限に強調したものと言えよう。かなり速めのテンポで音楽が運ばれるなかに、鋭いアクセントが容赦なく打ち込まれてゆく。両端楽章の展開部や再現部に見られる目まぐるしい転調は、苦しみ悶えるさまを呈しているかのようだった。とはいえ、オーケストラがヴィーン・フィルなので、全体としてニュアンスが豊か。とりわけ、アンダンテの最後の和音は夢のように美しかった。また、第1楽章の提示部から展開部へ移行する際や全曲の締めくくりなどで、アーノンクールはアコードとアコードのあいだを思いきって開けていた。そうして、それまで本流のように流れてきた音楽を塞き止めるとともに舞台上に深淵を開いたのである。

それが代表するように、アーノンクールの音楽は以前にも増してスケールの大きなものになってきているのかもしれない。デモーニッシュな劇性を強調しているあたりはかつて聴いたディスクの演奏と同様だが、それよりも奥行きが深くなっているように思われる。全体として激しいなかにどこか静けさを感じさせる演奏だった。ところどころらしからぬ合奏の乱れが聴かれたのは実に残念。もしかしたらまだ練習不足で、アーノンクールの意図がよく浸透していなかったのかもしれない。研ぎ澄まされた美しさとそれがもたらす感銘の深さという点では、10年前にこの会場で聴いたシャーンドル・ヴェーグとカメラータ・アカデミカの演奏に軍配を上げざるをえない。

 

■内田光子&ハーゲン弦楽四重奏団演奏会

[1月23日/モーツァルテウム大ホール]

モーツァルテウムの大ホールで内田光子とハーゲン弦楽四重奏団の演奏会を聴く。そこでのモーツァルトのト短調のピアノ四重奏曲(KV. 478)の演奏は、これを聴けただけでもザルツブルクまでやって来た甲斐があった、とさえ思われるほどの素晴らしいものであった。

何よりも内田光子のピアノの存在感が際立つ。一つひとつのフレーズが、いやそれどころか一つひとつの音が、音楽的な必然性で漲っている。冒頭のトゥッティに続くピアノ独奏によるパッセージからして、聴き手の胸をぐっとつかむ魅力に満ちているのだ。内田はひとつひとつのパッセージを、控えめにペダルを用いつつ、澄んだ音で、また十分に考えられたフレージングで細やかに歌い込んでゆくが、それでいて音楽が停滞したりすることはない。第一楽章は、モーツァルトの「歌うアレグロ」のなかに、厳しさと優美さを、ニュアンスの無限の変化を湛えながら交錯させつつ駆け抜けてゆく。第二楽章の歌は、この演奏の白眉を示すもの。澄みきった音で切々と歌われる主題を聴いて涙せずにいられようか。ピアノを支えるハーゲン兄弟の清澄な響きも耳を惹く。フィナーレでは、泣きながらの微笑みとデモーニッシュな情熱が交錯するさまが見事に表現されていた。内田光子のピアノとハーゲン兄弟の掛け合いが、目眩く表情の変化を描き出していたように思われる。

ハーゲン弦楽四重奏団の演奏においては、前回倉敷で聴いたときも、ヴィブラートを控えた音による澄んだ響きと研ぎ澄まされた表現が心に残ったが、今回はそうしたこの四重奏団の特徴が、モーツァルトにふさわしいどこか密やかな親密さと、表現の冴えに結びついていたのではないだろうか。最初に演奏された「プロシア王」セットの第1番に数えられる弦楽四重奏曲(KV. 575)は、澄んだ響きで軽やかに音楽が運ばれるなかに、きらりと光る表現を随所に示していた。チェロの活躍するこの曲では、クレメンス・ハーゲンの堂々とした歌も印象的。彼の演奏は以前に較べて風格を増しているように思われる。とはいえ、彼のチェロはけっして居丈高になることはない。ルーカス・ハーゲンのヴァイオリンとバランスよく応えあっていた。ライナー・シュミットの第二ヴァイオリンとヴェロニカ・ハーゲンのヴィオラがしっかりと内声部を支えながら軽やかに音楽を運んでいたのも好ましい。また、どのフレーズの終わりも抜けるような響きで丁寧に処理されている。そのことが、表現の研ぎ澄まされた美しさとともに響きの晴れやかさをもたらしていたのではないだろうか。

休憩を挟んでシューマンのピアノ五重奏曲が演奏されたが、こちらは起伏の激しいドラマティックな演奏に仕上がっていた。内田光子も、モーツァルトとは弾き方を変えて、ロマンティックなスケールの大きさを表現していた。とりわけ第2楽章における、両端の密やかさと中間部の激しさの対照がそうした印象をもたらしていたように思う。ここではヴェロニカ・ハーゲンのヴィオラの真摯な表現が際立っていた。第1楽章では、華やかなトゥッティの後にさっと雰囲気が変わって、ピアノに始まる優しい歌が連綿と続いてゆくのが実に魅力的。スケルツォにおけるリズムの躍動も激しいが、どこか軽やかで、響きも澄んでいる。中間部の親密な歌も胸を打つ。爽やかな華やかさを放ちながら高まってゆくフィナーレの高揚感も耳を惹きつける。このように全体的に、ドラマティックな起伏の激しさを示すと同時に、澄んだ軽やかさにも貫かれた鮮やかな演奏だった。どこか冬のザルツブルクの晴れた日の空の澄んだ晴れやかさを思わせる。

 

■アンドラーシュ・シフと仲間たち

[1月24日/モーツァルテウム大ホール]

モーツァルテウムの大ホールで、アンドラーシュ・シフのピアノを中心とした室内楽の演奏会を聴く。冒頭に彼の独奏で、モーツァルトがグルックのオペラのアリアの主題を用いて作曲した変奏曲(KV. 455)が演奏されたが、これが実に楽しい。しっかりした音で各変奏の表情を明確に描き出しながら、やや即興的に諧謔も加えつつ弾き進めてゆく。これまで聴いてきたのとはひと味ちがったモーツァルトの顔を見せてくれた。

続いて、第41番に数えられる変ホ長調のヴァイオリン・ソナタ(KV. 481)とト長調のピアノ・トリオ(KV. 496)が演奏されたが、シフのピアノの音が少し強すぎる気もしなくはない。この2曲では、エーリヒ・ヘブラートの手堅いヴァイオリンの演奏も光る。芯のある音で丁寧なフレージングを示しながら弾き進めてゆく。考え抜かれた真摯な表現も耳を惹く。ピアノ・トリオでは、クリストフ・リヒターのチェロが、ところどころに繊細な表現をちりばめながら軽やかに音楽を運んでいた。全体としてはやや渋いが、緊密なアンサンブルのなかに伸びやかな歌が連なってゆく演奏。安心して身をまかせられる感じがする。

休憩後には、クラリネットとヴィオラとピアノのための「ケーゲルシュタット・トリオ」(KV. 498)が演奏された。ここではイェルク・ヴィドマンの伸び伸びしたクラリネットが印象的。それに対して塩川悠子のヴィオラの音は、ヴィオラを本職としないせいか、少し弱い。シフが二人をニュアンス豊かな音でサポートしていたが、前半の3曲に較べて演奏のインパクトは乏しい。耳を惹くような表現の冴えは聴けなかった。とはいえ聴衆には受けていて、最終楽章がアンコールされた。

全体としては、とりわけ日本ではなかなか接することのできない、親密な雰囲気に満ちた室内楽の演奏会であった。

 

■マーク・ウィグルスワース指揮カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク演奏会

[1月24日/モーツァルテウム大ホール]

モーツァルテウムの大ホールで、マーク・ウィグルスワースの指揮するカメラータ・アカデミカの演奏会を聴く。最初に演奏されたのはモーツァルトの最初の交響曲変ホ長調(KV. 16)。通奏低音のチェンバロとともに、ナチュラル・ホルンが加わっていたが、全体としてはどちらかと言うとモダン楽器の切れ味を生かした手堅い演奏。フィナーレの爽やかな躍動は、この室内オーケストラのメンバーの若さと上手さを感じさせる。

続いてショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番をルドルフ・バルシャイが編曲した室内交響曲が演奏されたが、これが凄かった。澄みきったピアニッシモの音が折り重なってゆくラルゴに続いては、凄まじい音で疾走する激烈なアレグロが続く。ヴァイオリンが6人とはとても思えない音だ。しかもけっして響きが混濁することはない。若いメンバーが多いうえ、アンサンブルがしっかりしているので、澄んだ響きの切れ味鋭いフォルテが聴かれる。アレグレットのワルツにはもう少しアイロニーがあってもよかったかもしれない。冴えた表現で鮮やかに聴かせる演奏。続くラルゴでは、鋭いフォルテが容赦なく打ち込まれてゆく。研ぎ澄まされた厳しい音楽。ウィグルスワースの音楽の運びも実に手堅い。最後のピアニッシモが消え入った後には会場全体が静寂に包まれた。

前半にはもう1曲、アーロン・ジェイ・カーニスという現代の作曲家の「ムジカ・チェレスティス」(「天上の音楽」とでも訳すべきか)が演奏された。カーニスは、ジョン・アダムスに師事したアメリカの作曲家とのこと。静かに各声部が折り重なってくる瞑想的な音楽が一段落すると、やがて速度を速めて神の世界の崇高さを演出するかのような激しい中間部が始まり、それが終わるとまた最初の静けさが回帰する。美しくて聴きやすいが、どこか俗受けするヒーリング・ミュージックのような感じもなくはない。オーケストラのメンバーも、それほど共感して弾いていないように見受けられた。

休憩後にはモーツァルト晩年の変ホ長調の交響曲(KV. 543)が演奏された。ピリオド楽器の響き(実際ナチュラル・ホルンとナチュラル・トランペットが用いられていた)を生かしながら手堅く組み立てられた、見事な演奏だったと思う。ウィグルスワースが、音楽自体のダイナミズムを生かすかたちで音楽を運んでいたのがとりわけ好ましい。第1楽章と第2楽章の主題は、晴れやかな響きで柔らかに演奏されていた。第2楽章の響きにもう少し奥行きがあればとも思ったが、木管楽器のメロディがたゆたいながら折り重なってゆくあたりは充分に美しい。第3楽章と第4楽章のリズムも実に生き生きとしている。フィナーレにおける弦楽器の各奏者の力演も光る。全体として、カメラータ・アカデミカの演奏は、一昨日のヴィーン・フィルの演奏よりもはるかにすぐれた出来を示していたのではないだろうか。

 

■ユベール・スダーン指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団演奏会

[1月25日/モーツァルテウム大ホール]

モーツァルテウムの大ホールでユベール・スダーンが指揮するモーツァルテウム管弦楽団の演奏会を聴く。最初にモーツァルトの初期の交響曲が1曲演奏された。イ長調の交響曲(KV. 134)。この曲も、少し後の有名なディヴェルティメントをどこか予感させる。緩徐楽章の澄んだ美しさが印象的。この演奏でも通奏低音のチェンバロが加えられていた。

続いてジャンルカ・カシオーリの独奏でモーツァルトのヘ長調のピアノ協奏曲(KV. 459)が演奏された。彼の演奏は、きわめて繊細で、細かな表情の変化を示す。とりわけ転調に対してきわめて敏感に反応する。しかし、例えばクララ・ハスキルの演奏のように、不健康に胸を締めつけられるような感じを抱かせることはない。健康的な細やかさを示すピアノの演奏と言えようか。それがこの曲に実によくマッチしている。カシオーリの演奏は、両端楽章では天衣無縫の飛翔を聴かせるし、緩徐楽章では晴れやかな音で香気を漂わせるような歌を聴かせてくれる。独奏が非常に細かなルバートを多用するために伴奏がついて行けていない箇所があったのは残念だが、モーツァルトを聴く喜びを素直に味わわせてくれる演奏だったのではないだろうか。今回の旅行中に聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏のなかでは、最もすぐれたものだったと思う。

休憩後のメンデルスゾーンのイタリア交響曲の演奏は取りたてて強い印象を与えるものではなかったが、たとえばおよそ1年前に京都で聴いたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏に較べれば、はるかに明るく、晴れやかな演奏に仕上がっていたのではないだろうか。リズムの切れ味が鋭いが、ところどころ楽節の処理が粗くなってしまったところがあったのは残念。全体としては、引き締まった、どちらかというとザルツブルク的な晴れやかさを示す演奏だった。

■州立劇場におけるモーツァルトの歌劇「偽の女庭師」公演

[1月25日/州立劇場]

州立劇場でモーツァルトの初期のオペラ・ブッファ「偽の女庭師」を見る。指揮はアイヴァー・ボルトンで、演出は、ベルリンで「コジ・ファン・トゥッテ」や「トゥーランドット」の演出を見たことのあるドリス・デリエ。嫉妬に駆られたある伯爵によって、その伯爵が死んだと思うほどに重傷を負った別の伯爵の令嬢が、庭師になりすましてある代官の許に身を寄せるところからモーツァルト最初のオペラ・ブッファの物語が始まるのだが、彼女の演出ではその庭が、郊外によくあるホーム・センターのガーデニングのコーナー。この令嬢は、そこの店員として働くことになった、というわけである。それだけでも、古典的な演出を期待した金持ちの年寄りの神経を逆撫でするには十分であろう。

ストーリーは王侯貴族の込み入った色恋沙汰なのだけれども、冷めた目で見ればソープ・ドラマにおける男女の絡みと何ら変わるところはない。そう考えれば、デリエの設定は、この若きモーツァルトのオペラを現代に行かすうえではまことに適切だったと思われるが、同じ手が他の作品にも同様に通用するか、と言われれば、首をかしげざるをえない。とはいえ、登場人物を血だらけにしてしまう食虫植物をはじめ、若い観客を喜ばせる装置は事欠かないし、それに全部値段が付いているあたりも、どれもネット上で売りに出せるものに囲まれている現代の生活を鋭く照らし出していよう。まずは成功した演出なのではないか。

歌手のなかでは、ヴィオランテを歌ったアレクサンドラ・ラインプレヒトが出色の出来を示していた。ラミーロを歌ったルクサンドラ・ドノーゼの表現も胸を打つ。ヴォオランテに惚れるドン・アンキーゼを歌ったジョン・グラハム=ホールとその小間使いセルペッタを歌ったアドリアンナ・クツェローヴァは実に巧みだが、ベルフィオーレ伯爵を歌ったジョン・マーク・エンスリーとアルミンダを歌ったヴェロニク・ジェンスはやや弱い感じ。アイヴァー・ボルトンの指揮するモーツァルテウム管弦楽団は、午前中に聴いたのと同じオーケストラか、と思うくらい魅力的(実際ほとんど別のメンバー)。とくに弦楽器が、初期のモーツァルトにふさわしい切れ味鋭い表現を聴かせていた。管楽器も実に巧みだが、とくにナチュラル・ホルンとナチュラル・トランペットがミスなく吹いていたのには驚嘆させられる。全体として、初期のモーツァルトの魅力を現代に甦らせる演奏にに仕上がっていたのでないだろうか。

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