モーツァルト週間2008より

2008年1月30日から2月1日にかけてザルツブルクに滞在し、モーツァルト週間2008の4つの演奏会を聴いた。聴いたのは順に、イヴァン・フィッシャー指揮のヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会、マルク・ミンコフスキ指揮のレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの演奏会、ジョナサン・ノット指揮のカメラータ・ザルツブルクの演奏会、そしてギドン・クレーメル率いるクルメラータ・バルティカの演奏会。

■イヴァン・フィッシャー指揮ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

[1月30日/祝祭大劇場]

祝祭大劇場で行なわれたイヴァン・フィッシャー指揮のヴィーン・フィルハーモニーの演奏会は、モーツァルトの第34番として知られるハ長調の交響曲で幕を開けた。その一つ前の変ロ長調の交響曲と並んでどこかイタリア的な雰囲気を醸すこの三楽章の交響曲においては、ハ長調という調性ならではの祝典的な明るさが特徴的だが、それをフィッシャーは大きなスケールで表現していた。モダン楽器の特性を生かすオーソドックスなアプローチによって、フィッシャーはこの曲の魅力を存分に引き出していたと言ってよい。充分な間合いを取って広大な空間を表現しながら、けっして推進力を失うことのない第一楽章。旋回しながら上昇するカンタービレが聴き手の心をも引き上げていく第二楽章、そして三連音の乱舞するなかに主題がチャーミングに浮かび上がるフィナーレ。なかでも第二楽章の主題は、ヴィーン・フィルハーモニーの弦楽セクションの魅力と相まって、実に瑞々しく、また絹のような柔らかさをもって歌われていた。また、フィナーレの連続する三連音がどれも有機的に歌われ、それが音楽の躍動と結びついていたのも印象的だった。

交響曲に続いては、メゾ・ソプラノ歌手のヴェッセリーナ・カサロヴァを独唱に迎え、モーツァルトの初期のオペラとオラトリオから3曲が演奏された。演奏されたのは、「救われたベトゥーリア」よりジュディッタのアリア「私は武器を持たず、そして恐れずに行く」、「アルバのアスカニオ」よりアスカニオのアリア「ああ、この気高い心から」、そして「ルーチョ・シッラ」よりチェチーリオのレチタティーヴォとアリア「この優しいひと時を」(表題はプログラムのドイツ語訳を参考に訳出した)。いずれもコロラトゥーラの難しい技巧を聴かせるパッセージが盛り込まれているが、カサロヴァはそれを実に鮮やかに歌い切っていた。どの声域でも安定した声量で細かい動きを歌えるあたりは見事である。輝かしい高音も魅力的ではあるが、どこか男性的で深々とした低音の魅力は、この歌手ならではのものであろう。そのせいか、本来カストラートのために書かれた後の2曲のほうが、カサロヴァの声に合っているように思われた。ヴィーン・フィルハーモニーが生き生きと伴奏していたこともあって、声を聴く楽しみを満喫することができた。

休憩後に演奏されたのはバルトークの管弦楽のための協奏曲。ブダペスト祝祭管弦楽団とすでにこの作品を録音しているフィッシャーは、曲を完全に自家薬籠中のものとしている様子で、暗譜での指揮ぶりには自信が漲っていた。歌わせるところは歌わせ、リズミカルな箇所はしっかりと引き締めるメリハリの利いた曲の運びも澱みがない。とくに両端楽章は輝かしく雄大な音楽に仕上がっていて、晩年のバルトークが生への希求をもって書いた音楽の力強さがよく表われていたように思われる。また、ヴィーン・フィルハーモニーの特質のせいか、鄙びた味わいも残っていて、それが過度に華やかになるのを押しとどめているのも、曲にふさわしい。とくに第二楽章の「対の遊び」ではそうした味わいが、音楽の原風景を表現するのに生かされていた。第四楽章「中断された間奏曲」での歌の魅力も、ヴィーン・フィルハーモニーならではのものであろう。

このように、全体としては見事な演奏なのだけれども、音楽が今ひとつ胸に迫ってこない。果たしてフィッシャーは、ヴィーン・フィルの楽員一人ひとりからバルトークへの共感を引き出すことに成功していたのだろうか。彼らの技量をもってすれば管弦楽のための協奏曲の譜面はそれほど困難ではないはずで、それを軽々と弾きこなす姿はそれはそれで見事なのだが、逆に一つひとつの音に音楽への共感がこもっていたとは言いがたい。そのことが、とくに第三楽章の響きを奥行きに欠けたものにしてしまっていたのではないだろうか。この「悲歌」の音楽からは、彼方からの呼び声を、死者たちの囁きを聴きたかった。

 

■マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル演奏会

[1月31日/モーツァルテウム大ホール]

次いで聴いたのは、最近活躍目覚ましいマルク・ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの演奏会。ミンコフスキは、リュリ以来の伝統を意識してなのだろうか、金色の飾りの入った黒塗りの太い棒を振って、ピリオド楽器のアンサンブルをリードしていた。それによってハイドンの音楽から、これまで耳にしたことのないエネルギーが引き出されてくる。胸のすくほどに締まった音が徐々に高揚し、華々しいクライマックスを築くティンパニの即興演奏──どこか小ぶりの和太鼓の演奏のようでもあった──とともに始まったハイドンの第103番の交響曲「太鼓連打」の演奏は、晩年を迎えようとするハイドンの円熟ではなく、そのハイドンがスコアに書き込んだリズムの若々しい躍動を最大限に強調するものであった。

そのようなアプローチにピリオド楽器が向いていることは言うまでもないが、何よりも感心させられたのは、輝かしい響きとともに音楽そのものに内在する起伏が実に自然に表現されていたこと。そこにピリオド楽器独特の、モダン楽器に慣れた耳には物質的にも思える乾いた響きが、スパイスのように加わるのだ。かなり思い切ったアゴーギグも見せるが、けっして無理がない。このあたりがミンコフスキという指揮者の並々ならぬ力量を物語っていよう。

第一楽章の主題提示部におけるフルート・トラヴェルソ、それから第二楽章におけるヴァイオリン独奏の瑞々しさもさることながら、チェロとコントラバスが、ある時には音楽の躍動の原動力となり、またある時には澄んだ響きの基盤を形成していたのが実に印象的であった。レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの個々の奏者の技量にも眼を見張るものがある。全体として、円熟期のハイドンによる交響曲の完成したフォルムを求める向きには弾けすぎた演奏だったかもしれないが、ピリオド楽器の特性を生かしたハイドン演奏の魅力を存分に発揮したスリリングな演奏であった。

ハイドンの交響曲に続いては、アンドレアス・シュタイアーを独奏に迎えて、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番が演奏された。シュタイアーは、モーツァルトが使っていたというハンマークラヴィーアで、独奏パートとオーケストラの通奏低音の両方を弾いていた。このハンマークラヴィーア、見た目にも小さな楽器で、ややチェンバロを思わせる音色が残る。そのためどうしても大きな音量は望めず、オーケストラの和音を増強する際には音がうまくそのなかに溶け込む反面、オーケストラの伴奏に乗って独奏が繰り広げるときに、どうしても音がオーケストラの響きに埋もれがちになってしまう。しかし、シュタイアーはそのような楽器の特性を生かして、実に細やかな表情づけを行なっていた。ペダルを駆使し、転調するごとに、あるいは一つのパッセージのなかでも微妙に音の色合いを変え、またそれをしっかりとした様式性をもったフレージングと調和させている。従来のモダン・ピアノのモーツァルト弾きたちの演奏とはちがった意味で、よく歌った、そしてモーツァルトがスコアに書き込んだ音楽をよく掘り下げた演奏であった。そして、これが若いオーケストラの激しさと好対照で、とくに両端楽章においては、繊細なピアノの歌の後にオーケストラのトゥッティが感情を噴出させ、このハ短調の協奏曲に内在する劇性がいかんなく表出されていた。

他方で、この協奏曲においては、独奏ピアノと木管楽器群との対話も聴き逃せない。今回の演奏においては、管楽器が独奏ピアノの真正面、ハイドンの演奏では第二ヴァイオリンが座っていた舞台上手側に配され、視覚的にもこの対話が重視されていた。とくに緩徐楽章での対話は、たしかにモダン楽器による演奏のように、豊潤な木管の響きが広がるなかに艶やかな音で独奏が繰り広げられる、というわけにはいかないけれども、そうした演奏よりも親密さを感じさせる対話だったように思う。フィナーレの、どこか同じモーツァルトのト短調の交響曲のフィナーレの第二主題を思わせる主題も、どこか手仕事の味わいを残しながら実に美しく歌われていた。ピリオド楽器ならではの繊細さと激しさの対照のなかにこのハ短調の協奏曲の潜在力を見事に引き出した、そして歌の喜びにも満ちた演奏だった。

休憩の後に演奏されたのは、まさに先に触れた、モーツァルトの第40番として知られるト短調の交響曲。ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルはすでにこの作品の演奏を録音しており、ミンコフスキの解釈の基本線もその録音の演奏と変わっていないが、そこに即興的な要素が加わって、ライヴならではの高揚感をもたらしていた。なかでも印象的だったのは、第一楽章の提示部を反復する際に、二パートに分けられたヴィオラ・セクションが奏する分散和音の動きがいっそう強調されていたこと。この動きがこれほどまでに表情豊かに歌われた演奏は、これまでになかったのではないだろうか。それによって、この楽章を貫く細かな転調の数々が実に意味深く聴こえてくる。

全体として非常に速いテンポなのだが、演奏は陰影に富み、けっして急ぎすぎる印象を与えない。むしろピリオド楽器の鋭さを生かした演奏の劇性とマッチしている。第一楽章では、そしてフィナーレでもそうであったが、鋭いアクセントを交えながら突き進んできた音楽の動きがトゥッティのアコードとともに静止すると、ミンコフスキは充分な間を取って、さらにややテンポを落として、美しい第二主題を引き出していた。その歌が実に優美で、ピリオド楽器の演奏やそれを意識した演奏にありがちなように、ざらついたところがない。弦楽器がほとんどヴィブラートをかけないなかで演奏された両端楽章の第二主題は、紡ぎ出されたばかりの一本の糸のように瑞々しい美しさを示していた。一本の糸にまとまるレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルのアンサンブルも特筆すべきであろう。

このト短調の交響曲の緩徐楽章は、ともすれば拍子感のない演奏になってしまいがちなのだけれども、ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルは、やや早めのテンポで、しっかりとした拍子感をもって音楽を運んでいた。それはどこかシチリアーノのような、夕暮れ時に踊られるゆったりとした八分の六拍子の舞曲を聴くよう。日が落ちようとするなかに一人二人と人が集まって、歌と踊りの輪が静かに広がってゆく、そんな情景を思い浮かぶような演奏であった。とはいえ、ここで描かれたのはそうした穏やかな情景ばかりでなく、短調に変わった中間部の激しさは、両端楽章に劣らず凄まじいものであった。続くメヌエットは、音楽そのものの躍動を生かした演奏。情熱的に弾む主部もさることながら、早めのテンポのなかに次々と歌が湧き上がるトリオの味わいも印象的であった。フィナーレは、感情を抉り出すように転調を続けながら突き進んでゆく。それが高陽の頂点に達したところで曲が結ばれた。

なお、今回の演奏は、ミンコフスキとレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの長いツアー──たしか6種類のプログラムで12回の公演をこなしたとのこと──の最後の演奏会と、ミンコフスキ自身が聴衆へ向かって述べていた。演奏会を繰り返して、アンサンブルが洗練されてきていたのかもしれない。このコンビの成熟を感じさせる演奏会であった。アンコールにハイドンの「時計」交響曲の緩徐楽章が演奏された。奇妙な形容かもしれないが、子どもが喜々として時計を分解するようなアプローチが音楽自体の感興と実によくマッチした、新鮮な諧謔に満ちた演奏であった。

 

■ジョナサン・ノット指揮カメラータ・ザルツブルク演奏会

[1月31日/モーツァルテウム大ホール]

同じ日の夜には、ジョナサン・ノットが指揮するカメラータ・ザルツブルクの演奏会を聴いた。冒頭には、最近幅広い活躍を見せる現代を代表するピアニストの一人ピエール・ローラン・エマールと若手のタマラ・ステファノヴィチを独奏者に、モーツァルトの二台のピアノのための協奏曲が演奏された。この曲のもつ壮麗さをきびきびとした音楽の運びで表現していたのは心地よいし、また二人の独奏者のあいだのフレーズの受け渡しなどもうまく行っていたのだけれども、全体的に今ひとつ面白みに欠ける。一瞬一瞬の煌めきや陰影に乏しいように思えたのだ。お互いがお互いの特徴を消しあってしまったところがあるのかもしれない。もともと音楽性を共有する姉弟のために書かれた曲だけに、独奏者が二人並ぶことの難しさが表われたようにも見える。ノットが指揮するカメラータ・ザルツブルクは、見通しのよい響きで独奏をサポートしていた。様式感と躍動感を兼ね備えたその演奏はすがすがしく、また聴き応えもあった。

モーツァルトの協奏曲の演奏に続いては、ヨハネス・マリア・シュタウドという新進気鋭の作曲家が、今回のモーツァルト週間のために新たに書いた、二台のピアノと管弦楽のための音楽「光のなかで」の世界初演が行なわれた。ちなみに「光のなかに」という表題は、ニーチェの最晩年の著作『この人を見よ』のなかの「すべての事物は光のなかに何と安らいでいることか!」という一節にもとづいているという。ガラス窓をふんだんに取り入れた現代の建築を思わせる硬質の輝かしい響きによって貫かれた、15分ほどの単一楽章の作品。二台のピアノと大きく二つに分けられたオーケストラのそれぞれが対話するなかにきらびやかな響きが次々と立ち現われ、たしかに重苦しさはなく、むしろ聴いていて心地よく思った聴衆もいたにちがいない。実際、作品は喝采をもって迎えられていた。しかし、それは裏を返せば、個々の楽節に重みが乏しいことを意味していたように思えてならない。たしかにこのシュタウドという作曲家は、現代の無調の作曲技法を自分のものにしているが、それを今ここで用いることの重みが、彼の音楽から伝わってこないのだ。スライド付きホイッスルの人工的な音がけたたましい冒頭からして、違和感を抱いてしまった。

休憩の後、最初に演奏されたのは、ヴェーベルンの管弦楽のための五曲。マンドリンやギターが加わる、どちらかというと夜の音楽と思わせるこの作品が実に爽やかに響いた。重苦しさを強調するのではなく、どこか物質的なところを含んだ各セクションの響きそれ自体に語らせるアプローチによって、自然な流れと鮮やかさをもった音楽に仕上がっていたのが印象的。ただ各曲間の移行にもたつく場面があったのは惜しかった。ここに限らず、この演奏会はどうも間が悪い。シュタウドの作品の初演のテレビ収録があったこともあって、前半のモーツァルトから新作の初演のあいだのセット替えにも時間がかかったし、ヴェーベルンを演奏した後もセット替えに手間取って、聴衆の感興が殺がれてしまったのは残念である。

演奏者の側のモティヴェーションも下がってしまったのではと心配したが、カメラータ・ザルツブルクは、最後にモーツァルトの見事な演奏を聴かせてくれた。演奏されたのは、フォン・アントレッターというザルツブルクの参事官の息子の結婚式のために書かれたとされるモーツァルト初期のニ長調のセレナード。この室内オーケストラの伝統とも言うべき切れ味の鋭いリズムの刻みと伸びやかなフレージングで、若きモーツァルトの音楽が清新かつ感興豊かに奏でられていた。ノットの指揮も、自然な音楽の流れをけっして邪魔することがない。音楽のきびきびとした運びのなかで盛り上げるべきところをしっかりと押さえる巧みさを示していた。第二楽章から随所に聴かれるヴァイオリン独奏(コンサート・ミストレスのナタリー・チェが担当)とともに安心して身を委せられるが、もう少し遊びがあってもと思う箇所もなくはない。とはいえ、フィナーレの盛り上がりなど高揚感に満ちていたし、歌うべきところは充分に歌っていた。リズムの躍動も若々しい。モーツァルトのこの「アントレッター」セレナードのように演奏機会の少ない作品を、このように高い水準の演奏で聴けるのも、モーツァルト週間ならではのことであろう。

 

■ギドン・クレーメル&クルメラータ・バルティカ演奏会

[2月1日/モーツァルテウム大ホール]

今回のザルツブルク滞在中、最後に聴いたのは、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルがバルト三国の若手演奏家を集めて結成したクルメラータ・バルティカの演奏会。曲目が当初の発表から大幅に変更され、冒頭のモーツァルトのピアノ協奏曲第12番以外はまったく別の曲に差し替えられていた。

このイ長調のピアノ協奏曲は、ピアニストのアレクサンダー・ロンクヴィヒの弾き振りで演奏されたが、これが素晴らしい。この素朴さとチャーミングな表情をあわせもつ作品の魅力が、実に感興豊かに表出されていた。ロンクヴィヒのピアノは、現代音楽を得意とするピアニストらしく、どちらかというと硬質の音を基調としながら、そこに振幅の広い表情が付け加わってゆく。色彩豊かな音色を誇るわけではないが、それぞれのフレーズの処理は、調性に応じたニュアンスと歌心、そして感興に満ちている。また、ロンクヴィヒが情熱的な身振りでリードするクルメラータ・バルティカともども、音楽の運びが全体的にきびきびとしているのも、この曲にふさわしい。クルメラータ・バルティカの響きが基本的に重心が重いので、子どもが笑いさざめくような軽やかさには欠けるものの、しっかりとした聴き応えをもたらしながら、清新さと繊細さを感じさせる演奏であった。モーツァルトのこのイ長調の協奏曲がもつ、もう一つの魅力的な顔を目の当たりにさせられた。

続いては、当初予定されていたメンデルスゾーンの弦楽八重奏曲の弦楽合奏版の代わりであろうか、バルトークの弦楽合奏のためのディヴェルティメントが指揮者なしで演奏された。冒頭から、深みと重みを兼ねそなえたリズムが、けっして鈍重になることなく刻まれてゆき、それに乗って豊潤な響きでメロディが歌われる。クルメラータ・バルティカの響きに深みがあるのも、とくにこの曲にふさわしい。第二楽章のオスティナート風に繰り返されるうねるような動きは、何か巨大なものがひたひたとこちらに迫ってくるようであった。何よりも印象的だったのは、クルメラータ・バルティカのメンバーひとりひとりがバルトークの音楽に心から共感し、みずからが感じ取った音楽に技量のすべてを傾注しようとしていたこと。それによって音楽が極限まで突きつめられるが、だからといってアンサンブルは一糸も乱れないのには驚嘆させられる。たしかに、若い演奏家たちの表現意欲がまさって、響きの奥行きが損なわれてしまった瞬間もなくはなかったのだけれども、若々しい情熱をもって極限まで弾き込まれた演奏を聴くのはスリリングであり、また爽快ですらある。

全体的に合奏協奏曲のように演奏されるこの曲で随所に聴かれる各セクションのソロは、確かな技巧と豊かな歌心に裏打ちされた見事なものであった。とくにヴァイオリン独奏を担当したコンサート・マスターの技量は相当なものであろう。また、両端楽章のリズムの躍動は、アンサンブルが整っているだけに、圧倒的な力強さをもってこちらに迫ってくる。フィナーレの終わり近くに聴かれる、意識的に俗っぽいフレーズは、深い響きのなかで奏でられるだけに、これ以上ないほど苦い皮肉をもって響いていたが、それが消え入った後、熱く燃えたぎる響きの塊が駆け登って曲が結ばれた。若々しさと崇高さを兼ねそなえた、力強いバルトークの演奏であった。

休憩の後、当初の予定にあったヒンデミットの葬送音楽に代わるものであろうか、まずアルヴォ・ペルトのヴァイオリン、ヴィブラフォンと弦楽合奏のためのパッサカリアが演奏された。ヴァイオリン独奏をクレーメルが担当し、非常に完成度の高い演奏に仕上がっていたように思う。深沈とした弦楽合奏の響きの上で、クレーメルのヴァイオリンが鋭く時を刻み、音楽を運んでゆく。ヴィブラフォンも効果的に対話に加わって、奥行きの深いモノトーンの空間にニュアンスの変化をもたらしていた。反復によって満ちてゆく時があることを思い起こさせられる濃密な5分間であった。

クレーメルのヴァイオリンは、こうした一つひとつの音が研ぎ澄まされた現代の音楽、あるいはバッハのように個々の音の構成上の意味が厳然とある音楽には絶大の力を発揮するのだろうが、モーツァルトの音楽のように歌うことを基調とする音楽には、どちらかというと向いていないのかもしれない。最後にモーツァルトの二つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネが演奏されたのだが、クレーメルの演奏はすみずみまで考え抜かれているとはいえ、どこか息苦しい。歌が軽やかに飛翔せず、失速して詰まってしまうのだ。もう一人の独奏者であるアリーナ・イブラギモヴァの演奏がどちらかというと控えめだっただけにそうした印象が強められてしまう。伴奏とともに、全体的に感興に乏しく、また曲そのものにも繰り返しが多い──そこに豊かな差異を織り込むのが演奏家の仕事ではないか──せいか、少し退屈させられた。

アンコールに、「きらきら星変奏曲」として知られるモーツァルトの「ああ、ママに言うわ」の主題による変奏曲を、二つのヴァイオリンと管弦楽のために編曲したもの──誰の編曲によるものだろうか──が演奏された。ここではクレーメルの肩の力が抜けたようで、彼のヴァイオリンの鋭さが諧謔の表現に見事に生きていた。

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