フランクフルトでのヨーロッパ室内管弦楽団演奏会

■トレヴァー・ピノック指揮ヨーロッパ室内管弦楽団演奏会

[2010年9月30日/アルテ・オーパー・フランクフルト]

フランクフルトのアルテ・オーパーにて、トレヴァー・ピノックが指揮するヨーロッパ室内管弦楽団の演奏会を聴いた。最初に演奏されたのは、メンデルスゾーンの「美しきメルジーネの娘」序曲。初めのうちオーケストラが鳴っていないために、そよ風に水面がさざめくような動機が今ひとつ判然としないが、騎士の動機が現われるあたりからだんだんと響きが生気を帯びてきた。この動機がフォルティッシモに高まるあたりなど、若いメンバーの多いオーケストラの優れたアンサンブルと相まって、推進力に富んだ音楽が生まれていたように思う。ピリオド楽器演奏出身のピノックの指揮は、音楽のきびきびとした流れを重視していて、音楽が少しも停滞するところがない。この作品でとくに重要と言える管楽器どうしの動機の受け渡しも上手くいっていて、そのおかげで一貫した流れが作られたのではないだろうか。

しかし、ピノックの作る音楽は、水平的な流れが流麗である一方で、垂直的な奥行きに欠ける。そのために、メルジーネの娘の動機と騎士の動機が葛藤を繰り広げる展開に、あまり緊張感が感じられないのだ。それに、ナチュラル・トランペットを導入しているにもかかわらず、ピリオド楽器演奏のアプローチで曲の新たな姿を浮き彫りにしようとするのか、それとも従来の演奏習慣に従いながらロマン主義的な美に迫ろうとするのか、ピノックの態度は今ひとつはっきりしない。

同様の問題は、休憩後に演奏されたシューベルトのロ短調の交響曲、いわゆる「未完成」でいっそう浮き彫りになった。たしかに第1楽章では、展開部の頂点などで清新な響きが聴かれたものの、それ以外のところでは、フレージングにしても、ダイナミクスの作り方──最後の和音をディミヌエンドで終えるところまで──従来の習慣に従って、どちらかというと無難に組み立てられた音楽が平板に流れてしまって、この曲の命とも言える深い奥行きが感じられない。ピノックにこのような音楽を求めるべくもないのかもしれないが、深淵の上で震えるような歌が響いてこないのだ。当然ながら、演奏の技術的な完成度は申し分なく、表面的な流麗さと若々しい躍動感は保たれていただけに、第1楽章では曲に入っていけないもどかしさを強く感じた。

第2楽章のアンダンテ・コン・モートでは、ピノックは速めのテンポを基調としながら、弦楽器のノン・ヴィブラートの弱音をなかなか効果的に使いつつ、第1楽章よりも振幅の大きい音楽を作っていたように思う。ダイナミクスの幅をもう少し取ってもよいのでは、と思う箇所はあったものの、繊細な歌と、激しい感情の爆発との対比が、新鮮な響きのなかで浮き彫りになっていたのではないだろうか。

アンコールに、シューベルトの交響曲第3番のフィナーレが演奏されたが、その演奏が沸き立つような躍動感と愉悦に満ちたもので、聴衆から大喝采を浴びていた。これを聴くと、ピノックがなぜシューベルトの後期の交響曲やメンデルスゾーンの序曲をプログラムに組み込んだのか、ますます分からなくなる。

ピノックの音楽性は、やはり古典的な形式とコンパクトさを兼ね備えた作品でこそ生きるはずだ。そう確信させられたのは、休憩前に演奏されたモーツァルトの変ロ長調のピアノ協奏曲の演奏においてである。冒頭からオーケストラの響きが、水を得た魚のように生き生きとしている。しかし、このモーツァルト最後のピアノ協奏曲で聴くべきだったのは、やはりマリア・ジョアン・ピレシュのピアノであった。今夜の彼女の独奏は、彼女の新たな境地を垣間見せるものですらあったのではないだろうか。

第1楽章でピレシュは、比較的速めのテンポのなかで、冒頭から澄んだ歌を、全身から沸き上がる歌として聴かせてくれるが、それが伴奏と相まって非常に若々しい。この協奏曲はたしかにモーツァルト晩年の作品であるが、その時彼がまだ若かったことを強く感じさせる春の息吹に満ちた音楽を、ピレシュは聴かせようとしていたのではないだろうか。実際、十六分音符の動機がだんだんと高まっていくパッセージで、彼女は左手のリズムをかなり──もしかすると自分を奮い立たせるように──強調していた。それが伴奏の響きと調和して、若々しい生気に溢れた響きが生まれていたのだ。それ以外のパッセージも、天衣無縫と言ってよいくらい自在に聴かせるが、歌心に満ちていて、一音たりとも無駄がない。そして、演奏全体に若々しさと同時に、どこか落ち着きを感じたが、それが音楽全体に奥行きをもたらしていたのではないだろうか。

第2楽章のアンダンテは、ピアノの独奏で始まるが、ピレシュが弾き始めると、ざわついていた客席が水を打ったかのように静まった。研ぎ澄まされた音で、細やかな歌が静かに紡がれ始めたのだ。それとともに、深い奥行きのある空間がさっと開かれた。この楽章におけるピレシュの音楽は、地上のものとは思えないほどの透明感に満ちていた。しかし、けっして若々しい生命を失うことがなく、停滞することがない。時に再び左手のリズムを強調しながら、喜びに満ちたフレーズを飛翔させる。また、短調に転じる箇所の劇性も見事で、はっとさせられた。そして何よりも、音楽が繊細で澄み切っていながら、けっして神経質にならないのが素晴らしい。何の衒いもなく、ピレシュの全身から率直に歌が紡ぎ出されていたように思うのだ。さらにそこに、音楽を包む優しさのようなものを、今回感じることができた。そのようなことは、今まで──最近神戸でショパンを聴いたり、ロンドンでベートーヴェンを聴いたりしたときも──なかったのではないだろうか。

第3楽章は、歌曲「春への憧れ」と同じメロディを主題とするが、それを弾くピレシュのピアノは、繊細でありながら優しさに満ちている。躍動感溢れる伴奏と相まって、春を求める生命の息吹が、愉悦に満ちたかたちで歌に結実していることと、それを包む優しさが同時に感じられる演奏で、香気が立ち上るようですらあった。全曲を通して、伴奏の響きに若々しさとともに温かみがあって、ピレシュの独奏とよく調和していたように思う。とくに木管の響きは素晴らしかった。これほど自然な喜びに満ちた、それでいて落ち着きのある、モーツァルトの変ロ長調協奏曲の演奏は、これまであっただろうか。澄み切った歌と音楽を包む優しさがどこまでも率直に涌き出るピレシュの境地を、完成度の高い伴奏で聴くことができたのも心から嬉しかった。

協奏曲のアンコールに、この日はピアノ演奏も達者なピノックとの連弾で、モーツァルトの四手のための作品が二曲演奏された。ピノックがテンポに乗れずにやり直すハプニングもあったが、親密な雰囲気から対話の愉しさが溢れてくる演奏で、聴衆も喜んでいた。最も喜んでいたのはピノックのような気もするけれども。

この日はもう一曲、シューベルトの「未完成」交響曲の前に、モーツァルトのヴァイオリンと管弦楽のためのロンドが演奏された。独奏を担当したのは、ヨーロッパ室内管弦楽団のコンサート・ミストレスであるロレンツァ・ボッラーニ。ややくすんだ感じの音色ながら、歌心豊かな音楽を聴かせるし、確かな技術も感じさせる。演奏の即興性にも欠けておらず、このロンドの演奏は、率直に楽しむことができた。

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