川崎でのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会

■マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会

[2006年12月2日/ミューザ川崎シンフォニーホール]

12月2日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて、マリス・ヤンソンスが指揮するアムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会を聴く。前半に演奏されたのは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲と交響曲第8番。

最初に演奏された「エグモント」序曲を聴いていても、ヤンソンスのベートーヴェンへのアプローチをうかがい知ることができる。おそらくそれは、作品の脈打つ生命と古典的な様式を新たな視点から捉え直しつつ、両者をモダン楽器の機能を最大限に生かして表現しようという行き方であろう。たしかにそうしてこそ、コンセルトヘボウ管弦楽団の豊潤な響きを、ベートーヴェンの作品の内実を表現するのに生かすことができるにちがいない。たしかに「エグモント」序曲の演奏において、オーケストラはまだ十分に鳴り切っていなかったとはいえ、ヤンソンスとコンセルトヘボウ管弦楽団は、豊かな、それでいてけっして混濁することのない響きで、悲劇性を過剰に強調することなく、この序曲の音楽がもつ躍動感を生き生きと表現していた。それによって何よりも音楽のフォルムが明確に伝わってくるのは、一面で爽快ではあるが、ベートーヴェン中期の音楽から聴かれる、型を破ってしまう叫びのようなものが伝わってこないもどかしさは残る。勝利の音楽に入る前のヴァイオリンのパッセージがディミニュエンドして終わるのは、様式的には正しいと思われるとはいえ、どこか肩透かしを食った感じもする。

こうしたヤンソンスのベートーヴェンへのアプローチが最も生きたのは、第8交響曲の演奏においてであろう。当初このヘ長調の交響曲が取り上げられると知ったときには、今なぜ、という疑問が湧くのを禁じえなかったが、演奏を聴いてみて、ヤンソンスがこの作品を取り上げのはなぜか、理由の一端を理解できた気がした。彼の音楽がその基底にもつ楽天性と、どちらかというと骨太の運動性とが、今このヘ長調の交響曲の音楽に内在する生命と最もよく調和していることが、演奏から伝わってきたのである。

第1楽章冒頭の4小節で主題が提示されるのを聴いただけで、素晴らしい演奏になることが確信されるとともに、音楽そのもののなかへ入っていくことができた。ヤンソンスは、響きを後に引きずらない切れ味をもった明確なフレージングによって、音楽のフォルムをはっきりと見定めながら、そこに内在する生命の躍動をきびきびとしつつ急ぎすぎることのないテンポで、かつベートーヴェンの音楽にふさわしい重厚さをもって引き出していたのである。何よりも、まったく無理のない音楽の運びで、コンセルトヘボウ管弦楽団自体のもつ豊麗な響きにピリオド楽器の奏法の切れ味をうまく加味しながら、それをベートーヴェンの長調の音楽の表現に存分に生かし切っていたのが印象に残る。ピリオド楽器の奏法に全面的に依拠した演奏のように耳を驚かせるところはほとんどなく、どこを取っても自然に響いてくるのだが、けっして音楽がルーティンに流れてゆくことはない。全体の響きが明瞭なためにゴツゴツした動きも浮かびあがってくるのだが、それが喜びに満ちた音楽に推進力をもたらしてゆく。たんにオーケストラの各セクションのバランスが取れているというだけでなく、それがけっして自己目的化することなく、清新で喜びにあふれた音楽像の形成に見事に生かされていたのである。

第2楽章では、メトロノームを模したと言われる音楽の歩み自体が醸す諧謔が、確かな足どりと鋭い切れ味をもって十分に表現されていたが、その間に差し挟まれる木管楽器のハーモニーは、響きそのものに身を委ねる喜びも味わわせてくれた。第3楽章のメヌエットもけっして退屈させることはない。弦楽器の波打つ動きのなかからすっとヴァイオリンのチャーミングなメロディが引き出される瞬間には眼を細めてしまう。トリオのホルンのアンサンブルを伴奏するチェロの動きは2人の奏者だけで弾かれていたが、それによってホルンの響きの美しさがいっそう引き立てられていたように思う。フィナーレは愉悦の極み。第8交響曲の時期以降のベートーヴェンの音楽において特徴的になってゆく断片的なモティーフの動きが、喜びに満ちた音楽の躍動と見事に結びついていた。曲の末尾ではトゥッティのアコードが執拗に反復されるが、ヤンソンスはそれを、むしろそのしつこさを楽しむかのように、そしていつまでも終わりが来ないかのように響かせた末に、短く切り約められた響きで、一抹のユーモアもそこに込めながら曲を閉じた。そうして響きを引きずらないこと。それは清新な明確さと心からの喜びをもって作品に内在する生の躍動を表現したこの演奏を締めくくりにふさわしい。そうであってこそ、音楽の余韻が心の喜びと響きあいながら残るのだから。

さて、休憩の後に演奏されたドヴォジャークの交響曲第9番においても、ヤンソンスの確かな読みにもとづいた音楽運びの巧みさが光った。この作品において彼は、さらに余裕のあるテンポでメロディを歌わせながらも、けっして過度に情緒的になることなく、むしろこのあまりにも有名な作品の新たな姿を響かせようとしていた。例えば、第1楽章の第2主題は、第1主題よりもかなりテンポを落として演奏されていたが、音楽が停滞することはけっしてないし、むしろメロディが十分に歌われるなかに、これまで聴こえてこなかった和音の奥行きが響いてくる。むろんリズムの躍動も欠けてはいない。とりわけ第1楽章のコーダで、重厚な響きの塊が終わりへ向けて突き進む様子はスリリングであったし、また非常に聴き応えがあった。

第2楽章のラルゴの演奏は、非常に広い強弱の幅を取っていたが、ピアニッシモでもけっして響きが痩せないのが印象的。澄んだ、それでいて豊かな響きによって貫かれたラルゴ。コーラングレのソロも確かなフレージングでしっかりと歌われていたし、各セクション二人だけの弦楽器で演奏されるパッセージにおいても響きの豊潤さが損なわれることがなかった。かなりテンポを動かしながら一つの楽節から別の楽節へ移り変わるのもけっしてわざとらしくならない。第3楽章のスケルツォにおいては、ヤンソンスの音楽の運びの巧さがとくに光っていた。リズムの躍動と歌の豊かさが見事に両立しているし、かつすべてが清新に響く。フィナーレにおいては、音の塊が力強く前へ進むさまにまず耳を惹きつけられたが、それ以上に第2主題のメロディに、ふだん聴き逃してしまいがちな対旋律がしっかりと寄り添いながら、歌の豊かさをもたらしていたのが印象に残る。その歌がけっして情緒的になりすぎないのは、未聞の響きをスコアから引き出してゆくうえで必要なことだったのかも知れないが、個人的にはもう少し熱いものが湧き上がってくるのを聴きたかった気もしなくはない。すべてがあまりにも澄んだ響きのなかで、あまりにも流麗に歌われてしまったのが、作品全体の印象を薄めてしまっているのでは、という思いも残る。

ドヴォジャークの第9交響曲の演奏として、これ以上の完成度を望むのは極めて難しいとはいえ、その完成度それ自体が、音楽が自己自身を伝える力を弱めているのでは、という疑念も拭えなかったところである。ヤンソンスのドヴォジャークのスコアの読みが卓越したものであることは十分に感じ取られたのだけれども。その第9交響曲という、感情の振幅が極めて広いなかに、郷愁をはじめさまざまな想念が入り込む作品が相手だっただけに、ヤンソンスの音楽づくりの美質が最大限に生かされているのを感じる一方で、演奏の技術的な完成度と音楽の力がかならずしも一致しえないことをあらためて痛感させられた演奏であった。

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