岡山でのヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

■リッカルド・ムーティ指揮ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

[2005年10月8日:岡山シンフォニーホール]

岡山シンフォニーホールにてリッカルド・ムーティが指揮するヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。冒頭に「ロザムンデ(魔法の竪琴)」序曲、続いてロ短調の「未完成」交響曲、休憩を挟んでハ長調の「ザ・グレート」と呼ばれる交響曲というオール・シューベルトのプログラム。結成当初は、生粋のヴィーン子だったシューベルトを知っていた楽員が何人も含まれていたこのオーケストラにこそ可能な仕方で、シューベルトの魅力がそのエッセンスにおいて、また自然な息づかいとともに発揮されることを期待させるプログラムと言えよう。

「ロザムンデ」の序曲は、荘重な、それでいて重々しくなりすぎることのないトゥッティで始められたが、それに続くアンダンテの序奏部でムーティは、旋律を自由に歌わせながら、伴奏の音形を巧みに生かしていた。すべての音が許された時間のなかで最大限に歌われなければならないかのように。たしかにそうであってこそ、主旋律となる歌が生きてくる。さて、ムーティは、アレグロの主部の快活な第一主題をかなり遅めに始めて、徐々に速度を上げ、フォルテのトゥッティで推進力にあふれるアレグロに達していた。そのあたり、半世紀くらい前の巨匠たちの手つきを思わせなくもないが、時代がかった感じも緩んだ感じも微塵もない。自然な音楽の運びをつうじてアレグロのテンポが決まったところで、音楽がきりっと締まるのである。ちなみに、この第一主題、再現部に戻ってきたときには、相当にゆっくりと始められた。とりわけアウフタクトが長く取られたのには、少しはっとさせられる。この第一主題に続くゆったりとした歌の第二主題も魅力的であったが、それを導く移行句が、自然な即興性を示していたのも印象的であった。自然な息づかいのなかでスリリングな即興性も見せたい、というムーティのこのプログラムへの意欲を象徴する表現のように思われる。コーダでは、彼の演奏らしく堂々としたなかで引き締まったリズムが躍動していた。

続いて演奏された「未完成」交響曲では、こうしたムーティの意欲が、作品に内在する情熱を引き出すことに結びついていたように思われる。最初の楽章で彼は、第二主題が提示された後の深いため息をつくかのようなトゥッティの和音に十分な時間をかけ、そこから感情を高めながらもとのテンポに戻し、またそこからクレッシェンドして情熱を噛みしめるようなフォルティッシモを導き出していた。そうした音楽の運びは、自然であると同時に、聴き手の感情を熱く高揚させるものだったように思われる。

この曲の演奏は、冒頭のチェロとコントラバスが完全に一体となった響きからして聴き手の耳をしっかりと惹きつける。それに続く、オーボエが奏でる第一主題を導くヴァイオリンの音形も、細かいクレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返して、草の葉が風を受けてさざめくかのようであった。その草はまだ青々としている感じもなくはないのだけれども。この楽章では、第一主題もさることながら、チェロとヴァイオリンによって第二主題がとりわけ魅力的に奏でられていた。ムーティも長いフレージングそのままの指揮ぶりで、張りつめた静けさと自然な息遣いの共存する歌を引き出していた。

第二楽章は、中庸のテンポのなかで、息を吐くようなアクセントをうまく生かした演奏。とりわけ木管楽器が歌うのを伴奏する弦楽器のシンコペーションの波打つような動きが強調されていたが、その動きが自然な揺れを示していたのは、このオーケストラならではのことであろう。やや表現に新鮮さが欠ける感じもなくはなかったが、このアンダンテの楽章にあふれる歌の魅力は、ムーティの巧みな音楽の運びと相まって、ある程度は発揮されていたのではないだろうか。しかしそれにしても、もう少しくすんだ静けさがほしかった。第二主題を導くヴァイオリンの音形はもっと細い音のピアニッシモであってほしかったし、またコーダを導く木管の和音は、もっと遠くから聴こえてくるピアニッシモであってほしかったように思う。

さて、この日のメイン・プログラムである「大ハ長調」の交響曲は、重々しくなりすぎることのないアンダンテで始められた。この序奏で繰り返し奏でられるモティーフの末尾にあるピアニッシモをあまり強調しない、自然なフレージングを優先させた演奏。アレグロの主部に入って提示された第一主題の勇壮さは、ムーティによるこの交響曲の演奏の基本的な性格を刻印するものであったようだ。この主題の付点のリズムをはじめ、全体的に男性的なリズムの躍動に力点が置かれている。むろんカンタービレの魅力にも不足しないのだけれども、歌を前へ運ぶリズムがつねに生きているのである。

例えば第三楽章では、素朴な舞曲のメロディが奏でられるなか、第二ヴァイオリンが三拍子の三泊目にアクセントを入れるのが、あざとく思える寸前のところまで強調されていた。そうした行き方は、とりわけフィナーレにおいて、当初密やかであったリズムの躍動がやがて沸き立つように壮大なクライマックスを形成するのを目の当たりにする、スリリングな感興を呼び起こすのに成功していたように思われるが、その一方で響きの奥行きを奪ってしまっていたようだ。とくに第二楽章の最初の主題が回帰するたびに付きまとうリズムは、もう少し遠くから聴こえてほしかった。そうであってこそ、この楽章の風景に奥行きが生まれたはずなのに。

第一楽章に話を戻すと、この楽章におけるムーティの音楽の運びには感嘆させられざるをえない。提示部を繰り返したうえで、全体のフォルムをしっかりと浮き彫りにしていた。テンポの変化も実に自然である。第二楽章では、主題ごとにかなり大胆にテンポが変えられていたが、テンポの異なる楽節のあいだの移行にも不自然なところは見られない。この楽章では、第二ヴァイオリンによってゆったりと歌われる第二主題がとりわけ魅力的。しばしのあいだシューベルトの歌に浸らせてくれる。他方、緊張が極限にまで高まったところで音楽が断ち切られた後の静寂のなかから聴こえてくるチェロのメロディは、もう少し密やかに始めてほしかった。

第三楽章は、スケルツォというよりは舞曲のように演奏されていて、引き締まった三拍子のリズムが躍動するなか、メロディが舞踏の熱狂を体現するかのように生き生きと奏でられていた。ところどころに、はっとさせるようなテンポや強弱の変化も織り込まれている。とくに舞曲らしいメロディの三連符のアウフタクトに溜めがつくられていたのは、なかでも印象的であった。その溜めが、あたかもスプリング・ボードのように、その後の歌の疾走をはじき出すのだ。ただ何度も同じように繰り返されると、このようなテンポの変化も少しあざとく思えてくる。

フィナーレでは、すでに述べたように沸き立つようなリズムの躍動が際立っていたが、リズミックなモティーフの高まりに力点を置いたムーティの音楽の運びが、あまりにも直線的なために、全体的にやや一本調子になってしまった感じがする。もう少し調性の変化が歌に輝きや翳りを添えるのを強調してもよかったのではないか。とはいえ、くっきりと浮かびあがった付点と三連符のリズムの相克が、やがて雄大なクライマックスに流れ込んでゆくさまが、実にスリリングに表現されていたのも確かである。ムーティの手にかかると、たとえばコントラバスのピツィカートの音のひとつひとつも、若々しい生命感に満ちている。シューベルトの交響曲の分野における二つの代表作を並べたこの日のプログラムにおいて、ムーティはシューベルトのスコアに若々しい情熱を吹き込もうとしていたのではないだろうか。そのアプローチは、全面的に成功していたようには思えないが、ライヴならではの即興的な表現とも結びついて、聴き手の心を熱く高揚させるのに成功していたと考えられる。

アンコールとして、「ロザムンデ」のための音楽からアンダンテの間奏曲が──期待どおりに──演奏された。この曲ではムーティもさすがに手綱を少し緩めていたが、そのぶん香りあふれる歌の魅力が前面に出ていたのではないだろうか。しかし、トリオで木管がメロディを奏でるのを伴奏する弦楽器の音形にはムーティの目配りがしっかりと利いていて、それがこの曲の演奏がルーティンなものに堕するのを防いでいた。

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