ヴィーン芸術週間2004の演奏会より

2004年の6月5日から13日にかけての1週間、新婚旅行を兼ねて妻とヴィーンへ旅行した。幸いヴィーンは芸術週間の終盤を迎えたところで、いくつかの演奏会とオペラの公演に接することができた。以下にその印象を記しておく。

 

■ヴィーン国立歌劇場:ヴァーグナー「さまよえるオランダ人」

[6月5日]

ヴィーンに着いてすぐ国立歌劇場におけるヴァーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」の公演を観に行く。今夜の白眉は何といってもゼンタ役を歌ったニーナ・シュテメの歌唱であったろう。幕を追うごとに声が力強さを増してゆき、幕切れ近くで「死に至るまで忠実に」と歌うあたりなど、絶唱と呼ぶにふさわしい歌唱を聴かせていた。オランダ人役を歌ったユーハ・ウィスターロの歌唱も、ところどころ力が入りすぎて声が割れてしまう箇所があったのは惜しかったが、ほぼ満足しうる出来を示していたと言えよう。マッティ・サルミネンによるダーラントは、さすがと思わせる風格を示していたものの、彼のベストの出来とまではいかなかったのかもしれない。エリック役のトルステン・ケールの声がいくぶん弱い気がしたものの、アンサンブル全体を傷つけるほどではなかったのではないか。合唱の力強さも特筆に値しよう。

小澤征爾の指揮は、きびきびとしたテンポで音楽を運んでいた。聴かせどころも心得ていて、間の取りかたも巧みだったように思う。しかし、打楽器などの直接的な効果にしばしば頼りがちで、そのためあまりにも鋭角的に音楽が断ち切られてしまっていた。そうすると、荒れ狂う波のうねりのようなものも、すぐに音の粒に還元されてしまって、大きな塊として音が迫ってこない。ヴァーグナー演奏に伝統的に求められてきた、地の底から沸き上がるスケールの大きな響きをこの指揮者に求めても仕方のないことなのかもしれないけれども。

クリスティーネ・メーリッツの演出にもやや疑問が残る。最後にゼンタが自分で点けた火のなかへ身を投ずるのは、彼女と「指環」のブリュンヒルデのつながりを意識した演出なのだろうが、今ひとつ必然性が理解できないのだ。第3幕の、婚約祝いの場面で水夫たちが陸の女性をレイプするのもなくもがなであろう。舞台装置は比較的簡素で、また照明を巧みに用いて空間の奥行きを表現していたものの、デザインそのものはかなり平凡だったように思われる。

この公演は、全体として豊かな音楽的内容を表現しえていたものの、ヴァーグナー上演の新しい歴史を開くものとは言えなかった。

 

■アダム・フィッシャー指揮ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団

[6月6日/コンツェルトハウス]

コンツェルトハウスで、「アントン・ヴェーベルン・フェスティヴァル」の一環として行なわれたヴィーン・フィルハーモニーの演奏会を聴く。最初に演奏されたヴェーベルンの初期の管弦楽曲「夏風のなかで」においては、まさに夏の空気のように遠くから立ちのぼってくる弱音の響きが実に印象的だった。それぞれの楽器の音がよく溶けあっていて初めて出せる響きであろう。アンサンブル力の確かさをあらためて思い知らされる。続いて演奏された、ヴェーベルンがオーケストレーションを施したシューベルトの6曲のドイツ舞曲では、シューベルトの書いた単純な譜面からヴェーベルンが読み取った多彩なニュアンスが、非常に細やかに表現されていた。それでも人工的に作りすぎた感じがしないのは、ヴィーン・フィルハーモニーとフィッシャー双方のシューベルトの音楽についての深い理解があればこそのことであろう。

さて、前半の締めくくりに演奏されたのは、ベルクの作品1のピアノ・ソナタと同じ年に作曲されたヴェーベルンの、これまた同じ作品1の「パッサカリア」であった。彼が20世紀の初頭に甦らせようとするこの古い変奏曲の形式が、けっしてたんに論理的な作曲技巧の形式であるにとどまるものではなく、単純な主題を構成するひとつひとつの音に、またその連なりのうちに秘められた巨大な力を解放するものであることを、この日の演奏は横の広がりをもった、けっしてきつく迫ってくることのない響きで感じ取らせてくれた。ヴェーベルン特有の切迫感を求める向きにはもの足りない演奏だったかもしれないが、彼の音楽の魅力はそれに尽きるものでもあるまい。

古典派以後の西洋音楽の形式が単純な動機を展開させ、その潜在力を最大限に発揮することを追い求めていたとすれば、その志向を調性の束縛から解放したとき、どのような音の力を、あるいは音響空間の奥行きを表現できるのか。その可能性を切り詰められた時間のなかで追求しようとしたのが、後半の最初に演奏されたヴェーベルンの6つの管弦楽曲だったのかもしれない。この日の演奏は、無調の厳密な論理が、厳密であってこそ自然の響きに近づきうることをまざまざと示していた。風のようなトレモロの動き、強奏された音の風圧。どれも作られた巨大さではなく、むしろ自然の崇高さを示すものであった。

調性音楽の極北にあって、こうした無調の音楽の論理に限りなく近づいていたのが、この日の最後に演奏されたマーラーの第10交響曲のアダージョだったわけだが、その今にも崩れ落ちそうな美を、ヴィーン・フィルは豊かな響きで表現していた。フィッシャーの解釈は、あまりにも穏当で健康的にすぎるところもなくはなかったものの、まずは無理のないものだったと言えるだろう。ヴィーン・フィルも、この日は若い奏者が多かったせいか、細かなアンサンブルの乱れが見られたものの、それを補ってあまりある力演を示していた。とりわけ主題を提示するヴィオラ・セクションのソリは印象深いものだった。

 

■「ドヴォジャークと新世界」

[6月6日/楽友協会ブラームス・ザール]

「ドヴォジャークと新世界」と題された、ヴィーン・フィルのコンサートマスターであるライナー・キュッヒルを中心とする室内楽の演奏会を、楽友協会のブラームス・ザールで聴く。ドヴォジャークの第1番のピアノ三重奏曲とピアノ四重奏曲のあいだに、ホレーショ・パーカーという、アメリカ時代のドヴォジャークに師事したという作曲家の、ピアノ三重奏のための組曲が置かれたプログラムだった。初めて聴くパーカーの作品は、擬古典主義的な構成のなかに後期ロマン派的な甘いメロディの流れるもので、アメリカ臭をまったく感じさせない。愛すべき作品という以上にこれといった個性のない作品ではあるが、もっと広く親しまれてもよいものかもしれない。キュッヒルたちは、作品の魅力を十二分に引き出して飽きさせなかった。

ドヴォジャークの2つの作品について言えば、むろん最初のトリオも魅力的ではあるのだけれども、やはり作品の内容の充実度は、第8交響曲と同時期に書かれたピアノ四重奏曲のほうがはるかにまさっていよう。そう考えたのも、ハインリヒ・コルのヴィオラが加わった後者の演奏が、実に感興に満ちていたからなのだが、とりわけ緩徐楽章が、心の底から歌が沸き上がるかのように演奏されていたのが印象的だった。そのことに大きく貢献していたのは、ヴィオラのコルであろう。素直ながら深みのある柔らかな音色は、ドヴォジャークにとくに相応しいものであった。それにひきかえ、ヴァイオリンのキュッヒルの音は、けれん味の強い立った音で、それはそれで表現力の強いものだったのだけれども、他の奏者とのバランスを明らかに欠いていた。アンコールには、ドヴォジャークのバガテルより3曲目が演奏された。ピアノがハーモニウムに変わったこちらの演奏は、各楽器の音がよく溶け合った、親密感に満ちたものに仕上がっていたように思う。

 

■オロスコ=エストラーダ指揮ヴィーン・トーンキュンストラー管弦楽団

[6月7日/楽友協会大ホール]

楽友協会の大ホールにて、トーンキュンストラー管弦楽団の演奏会を聴く。ハインツ・ヴァルベルクの指揮で聴けるものと期待して行ったのだが、急病のためキャンセル(注記:ほどなくしてヴァルベルクは亡くなってしまった)ということで、アンドレス・オロスコ・エストラーダという、このオーケストラの副指揮者が代役を務めていた。コロンビア出身というこの若い指揮者、将来の大成を予感させる堂々とした手綱さばきを示していて、満場の喝采を浴びていた。

さて、ここの曲目に話を移すと、最初に演奏されたリヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」では、ソプラノのエヴァ・メイという歌手の声があまりにか細くて、生からの別離を世界の美を愛でつつ歌う旋律が伴奏の上にたゆたうさまも途切れがちにしか聴こえない。そのため、歌詞の一語一語が意味深く響かず、何を歌っているのだろうと首をかしげざるをえない。オーケストラは、そんな歌手のことを配慮してか、かなり遠慮がちな伴奏を行なっていたが、それでもシュトラウスに相応しい、柔らかに漂う響きを形成していた。それにしても、死を歌う響きがこれほど潤いに満ちた豊かなものであるとは。

休憩後には、ブルックナーの第4交響曲が演奏された。若い指揮者に相応しく、きびきびとしたテンポで生き生きとした音楽の流れを形成していたが、性急すぎるところはほとんどない。むろん、もう少し思いきって間を取ってほしいところもあったのだけれども、とくに両端楽章では、重心の低い迫力のある響きを聴かせていた。第2楽章では、ヴィオラ・セクションがまとまった、大木の幹を思わせるほどに力強い、しかも柔らかさを兼ね備えた響きで、すばらしいソリを聴かせていた。スケルツォでのテンポの運びかたも、また金管楽器の技量も申し分ない。全体にもう少し深い、森のような奥行きをもった響きがほしかったが、それはこの指揮者がさらに経験を積んで、深い呼吸をもってブルックナーを振るようになれば出てくることだろう。

 

■ルドルフ・ブーフビンダー・リサイタル

[6月8日/楽友協会大ホール]

楽友協会の大ホールにて、ルドルフ・ブーフビンダーのピアノ・リサイタルを聴く。立ち見席までほぼ満員の盛況ぶりは、このヴィーン出身のピアニストへのヴィーン子たちの愛着を示すものだろうか。

最初にシューベルトの後に書かれたほうの即興曲(D. 935)が演奏された。第1曲の第2主題には、即興曲にふさわしく、と言うべきか、かなり大きなルバートがかけられていたが、少しも恣意的に響かない。その伴奏も実によく歌っている。第2曲の親密な響きも、澄んだ音で、今度は質素なアーティキュレーションで弾かれていて、それがかえって印象的。第3曲の「ロザムンデ」の間奏曲から採られた主題による変奏曲は、実に音楽的に紡がれていたし、無窮動的な終曲もけっして無機的になることがない。澄んだ音で貫かれながら、それでいて温かさにも欠けてはいない、歌に満ちたシューベルトだった。

続いてバッハのイギリス組曲第3番が演奏された。モダン・ピアノで表現しうる美のすべてを引き出そうとするかのようなアプローチをブーフビンダーは示していたように思う。厳密な構成を求める向きにはもの足らない演奏だったかもしれないが、スコアに内在する音の煌めきや歌は存分に引き出されていた。サラバンドの深沈とした響きは、このアプローチがけっして表面的なものではなかったことを示していよう。アルマンドも魅力的だったし、ガボットの抑制の効いた表現も印象的だった。

休憩後にはショパンのロ短調のソナタが演奏された。これはどちらかというとソナタとしての様式性を重んじた解釈だったが、この曲自体ブーフビンダーの持ち味に合っていないのでは、という感じは否めない。とりわけ最初の楽章とレントの楽章に消化不良な印象を受ける。この曲ではスケルツォがとくに美しかった。フィナーレの演奏にはもう少し激しさを求めたいところ。アンコールには、まずショパンの幻想曲が演奏された。美しいが、ソナタ同様湧き上がるような熱情には乏しい。続いて、バッハの第1番のパルティータから終曲のジーグが演奏された。モーツァルトのあの小さなジーグを思わせるような、水銀の滴のように転がる美しさ。最後に演奏されたのは、シューベルトの先に書かれたほうの即興曲(D. 899)のなかの1曲。こちらは文句なしに素晴らしい。今のブーフビンダーにはシューベルトがいちばん合っているのかもしれない。とすれば、即興曲ばかりでなく、いくつかソナタも聴いてみたいものである。

 

■ニコラウス・アーノンクール指揮ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団

[6月10日/楽友協会大ホール]

楽友協会大ホールにて、アーノンクールの指揮するヴィーン・フィルハーモニーの演奏会を聴く。曲はブルックナーの第5交響曲の1曲のみ(注記:その演奏はBMGよりCDとなって発売されている)。冒頭の低弦のピツィカートは、聴こえるか聴こえないかというくらいのピアニッシモで始められた。それに重なってくるヴィオラ以上の弦楽器の和音は、ほとんどノン・ヴィブラートのままで弾かれ、そのため今までに聴いたことのない澄んだポリフォニーが形成されていた。それに続く全オーケストラのユニゾンにも、まっすぐに天へ伸びてゆくかのような晴朗さがある。序奏が終わって主部に入ると、たいていの指揮者は主題ごとにテンポを変えるのだが、アーノンクールはほとんど当初のアラ・ブレーヴェのテンポを維持していた。そのため、第2主題が提示された後の経過部は、響きの広がりに欠ける印象を受けたが、テンポが速い分かえって展開部の途中に序奏のアダージョが回帰してくる際の感動は大きい。そのアダージョで、木管が拍を刻むのに弦楽器の和音が絡むあたり、オーケストラの響きの潤いもあって、実に美しい。その後の複雑な主題の展開も実に見通しがよく、それが快活なテンポで運ばれてゆくさまは、爽快ですらあった。むろんこの曲に求められる豪壮さにも欠けてはいない。コーダではティンパニ奏者をもう一人加えて、壮大なクライマックスが形づくられていた。

第2楽章は、おそらく今まで聴いたなかで最も速いテンポで始められた。音楽がさらさらと淀みなく流れてゆくが、正直なところ速すぎる感じは否めない。アダージョというより、ほとんどアレグレットに近い感じ。それでもしっかり歌いきって充実感を残すあたりは、さすがと言うべきか。スケルツォはまたかなり速いテンポで始められたが、「はっきりと遅く」と指示された部分以外に、ヴァイオリンとヴィオラがヘミオラふうのリズムで対位法的に動く部分を遅くし、第2ヴァイオリンがピツィカートで入ってくるところからア・テンポにするあたりは、個人的には面白く聴いたものの、賛否が分かれようか。嵐のように駆け抜けながらも、対位法的な構造をはっきり示すところにこのスケルツォの演奏の美質を認めることができよう。

さて、アーノンクールの第5交響曲の解釈の力点は、はっきりとフィナーレに置かれていた。それに応えてか、第1主題に入る際の各奏者の気合いは尋常ではなかった。第2主題は、これまた相当に速いテンポで提示されたが、伴奏のピツィカートの粒立ちがはっきりとしているのには驚かされる。アーノンクールは、この主題を舞曲のメロディと捉えているのかもしれない。続くコラール主題の提示は、澄んだ美しさに満ちていた。そして、アーノンクールの真骨頂が発揮されていたのは、二重フーガのように2つの主題が複雑に絡みあって展開する展開部においてであったろう。その対位法的な構造を、均整のとれたかたちで、しかも生き生きと聴かせるあたり、古楽器演奏の経験が生きていようか。全楽器のユニゾンへ流れ込む流れのつくり方も見事だった。コーダのコラールは、圧倒的な充実感をもって演奏された。最後までイン・テンポを崩さないあたり、解釈の首尾一貫性を示していよう。アーノンクールによる第5交響曲の解釈は、演奏習慣によってもたらされた贅肉をスコアから削ぎ落としたうえで、そこに内在する美質を独自のアプローチで見事に引き出した演奏と評価できると思われる。

 

■クリスティアン・ツィメルマン・リサイタル

[6月10日/楽友協会大ホール]
楽友協会大ホールへクリスティアン・ツィメルマンのリサイタルを聴きに行く。プログラムは、当初の予定と異なり、オール・ショパン。前半に4つのマズルカと変ロ短調の葬送行進曲付きのソナタが演奏され、休憩の後ヘ短調のバラードとロ短調のソナタが演奏された。全体として、このピアニストのショパンへの深い共感とスコアの緻密な解釈、そしてピアニストとしての音楽的な充実が一体となって示された、見事なリサイタルになっていた。個々の曲の演奏についてとやかく述べるのはよそう。一音たりとも無駄に聴こえず、かつそれぞれの音の連なりには深い必然性がある。おそらくはそのことが示されうる曲をツィメルマンは今回選んだにちがいないけれども。また、華やかでありながら深く、かつかすかな温かみのある響きも、ショパンの音楽の奥行きを示すうえで実に似つかわしい。2曲のソナタのこれ以上の演奏を聴くことは、おそらく当分あるまい。

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