倉敷でのベルギー王立歌劇場管弦楽団演奏会

■大野和士指揮ベルギー王立歌劇場管弦楽団演奏会

[2005年9月29日/倉敷市民会館]

倉敷の市民会館で、音楽監督である大野和士が率いるベルギー王立歌劇場(モネ劇場)管弦楽団の演奏会を聴く。大野の精緻なスコアの読みと、それを表情豊かな響きで音楽的に実現させるオーケストラの柔軟な音楽性が一体となった水準の高い演奏を、とりわけワルツの模倣を示す二つの作品、すなわちラヴェルの「ラ・ヴァルス」とマーラーの第5交響曲のスケルツォ楽章の一部に聴くことができた。

最初に演奏されたのは、モーツァルトの歌劇「魔笛」の序曲。いくぶん渋めの響きのアコードで始まった序奏部の細やかな表現がまず耳を惹く。大野は、ヴァイオリンとファゴットを重ねたモーツァルト晩年の響きを生かしながら、たゆたうような、それでいてみずみずしさを失うことのない音楽の流れを引き出していた。彼の指揮芸術の美点は何よりも、スコアを精密に読み解くことによって、音楽自体のもつダイナミズムや呼吸を生かすことができるところに求められよう。そして、その点で大野は、現在活躍している日本人指揮者のすべてを凌駕しているように思われる。もう一つ、各声部のバランスに対する彼の鋭い感覚も特筆に値しよう。彼の手にかかると、スコアのなかの音符が、一つとして無駄に書かれていないように聴こえてくる。もちろん、声部間のバランスを取ることに過剰に気を遣うなら、音楽の勢いをそいでしまうことにもなりかねないのだけれども。

それはさておき、「魔笛」の序曲であるが、主部に入ると、旅の疲れのせいか、弦楽器の各セクションの響きがまとまりを欠いてしまう箇所が散見されたのは惜しい。とはいえ、大野の指揮によって、この序曲が「ジュピター」交響曲のフィナーレにも匹敵する内容をもったフーガとして書かれていることは伝わってくる。

続いて演奏されたラヴェルの「ラ・ヴァルス」では、オーケストラの持ち味と大野の並外れたバランス感覚が見事にマッチしていた。渦巻く雲を表わすとされる冒頭の低弦のざわめきからして、オーケストラの響きのまとまりが、モーツァルトのときとは別人のようだ。そして、ラヴェルの書いた細かい音符のひとつひとつに楽員たちが感応するさまを見ると、このモネ劇場のオーケストラは、基本的にフランス語を話すのかな、とも思ってしまう。そのようなオーケストラから、大野は、ラヴェルにふさわしい洒落っ気たっぷりのルバートを含んだ歌と、艶やかに輝かしい響きとを引き出していた。オーケストラにワルツのリズムに乗った演奏をさせておきながら、けっしてバランスを崩さない響きを聴かせる彼の手腕にも驚かされる。テンポの動かし方も堂に入ったもので、だんだんとテンポを上げ、最後に手に汗握るような高揚感をもたらすあたりも素晴らしい。この夜の白眉と言うべき演奏であった。

休憩をはさんでマーラーの第5交響曲が演奏されたが、最初に記したように、なかでもとくにワルツ風の楽想を含むスケルツォ楽章を面白く聴くことができた。ともすれば冗長に聴こえかねないこの楽章を、大野とモネ劇場のオーケストラは、起伏に富み、また美しい旋律に満ちた音楽として聴かせてくれた。途中に惜しいミスの連鎖があったけれども、それを忘れさせるくらいに、両者ともマーラーのスコアを魅力的に歌っていたように思う。苦いリズムを踏みしめたり、雄叫びを上げたりするなかから、ふとワルツの優美な、でもどこか翳りを帯びた旋律が浮かぶあたりがとりわけ魅力的であった。何よりもその直前の間の取り方が素晴らしい。そのための呼吸を、大野は劇場経験をつうじて身につけたのであろう。

同様の魅力は、アダージェットの楽章でも生きていたのではないだろうか。大野は、弦楽とハープの響きを絶妙なバランスで組み立てながら、自然な呼吸をもって、天上に静かに漂わせていた。そうしたなかに下から突き上がるかのような情熱的な旋律も十分に歌われている。もう少し爛熟の危うさを感じさせてほしかったが、全体的には、ゆったりと寄せては引いてゆくうねりのような音楽のダイナミズムを、歌と精緻に一体化させた見事な演奏だったと思う。

前半の二つの楽章は、大野とオーケストラ双方の呼吸の浅さが、響きの浅さに直結してしまっていてもの足らなかった。とくに最初の葬送行進曲は、重々しさに欠ける。その途中にはっとさせるようなルバートがあったのだけれども、響きの奥行きが足らないために、だんだんと小手先のものに聴こえてきてしまう。聴く者の胸に杭を打ちこむような苦く、重い響きを聴かせてこそ、途中に挟まる旋律が魅力的に聴こえてくるはずなのに。

フィナーレのロンドでは、推進力に富んだ音楽の運びのなかに、フーガが実に明瞭に聴こえてくるさまがまず耳を惹く。この演奏会のプログラムのテーマは「ワルツとフーガ」なのか、と思わせるくらい。少しゆったりしたロンドの主題から弾き出されたような勢いが、実に明確に表現されていた。とはいえ、こうしたバランス感覚が、フィナーレの終わり近くに至っては音楽の勢いをそいでしまっていたように思う。金管のコラールは十分に輝かしいものの、それ以前の音楽とは一段上の高揚感には不足していたし、またそれに続くコーダも、加速は十分ながらそれに見合うマッシヴな勢いがこちらに迫ってこないのである。ここに至ってはもはや綺麗事は不要なのではないか。フィナーレでは、トゥッティのぎらりとした響きと木管セクションの慎ましい響きの対照も今ひとつであった。

マーラーの演奏で大野とモネ劇場のオーケストラは、精緻なスコアの読みと音楽自体のダイナミズムをかなりの水準で一体化させていたものの、聴き手をマーラーの世界へ一気に拉し去るようなインパクトをもたらすところにまでは達していなかったように思う。しかし、今後の両者の協働によって、両者の演奏がそのような一歩先の完成度に達しうる兆しも、この夜の演奏の随所に感じることができた。何年か先にまた大野とこのオーケストラの演奏に触れられるのが今から楽しみである。

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