内田光子&ハーゲン弦楽四重奏団演奏会

[2011年10月29日/サントリーホール]

ベートーヴェンの14曲目の弦楽四重奏曲の最終楽章で刻まれる、精神の反抗そのものであるような付点のリズムが容赦なく刻まれるのを聴きながら、ハーゲン弦楽四重奏団はこれほどまで厳しい音楽を聴かせるようになったのか、と感嘆せざるをえなかった。厳しさが貫かれるなかからこそ、この楽章のもの一つの主題が、迸り出るように歌い出される。その歌は、内側から湧き上がる喜びに満ちていた。これら二つの主題の素晴らしい表現は、いずれも純度の高い音楽を追求してきたハーゲン弦楽四重奏団の音楽の必然的な帰結であり、このクァルテットが積み重ねてきた室内楽の探究の精華ではないだろうか。サントリーホールの開場25周年を記念するスペシャルステージの一環として行なわれた、内田光子&ハーゲン・クァルテットの第2夜(2011年10月29日)を聴いたが、その前半で聴いたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調の演奏は、このクァルテットの現時点での到達点を示すものだったように思われた。

作曲家の精神によって極限まで純化された音が内発的に音楽を繰り広げていくような自在さが、戯れと呼ぶべき次元にまで高まり、楽音の限界を突き抜けるに至る──あのプレスト!──が、その流れが強烈な力で突然断ち切られ、否定される。自由そのものと言えるような音楽の展開と、その悲劇的な切断との対照。これが、ほの暗くもどこか覚悟したところのある情念によって貫かれた一つの音楽をなしているところが、第13番と並ぶ異形の弦楽四重奏曲である第14番の魅力と言えようが、今夜の演奏では、その魅力が余すところなく表現されていたのではないだろうか。

第1楽章のフーガは、非常に濃密な音楽に仕上げられていて、深い息とともにはき出される長いフレーズが、一分の隙もなく折り重ねられていた。だからこそ、それに続くアレグロの楽章のリズムの愉悦が際立つわけだが、その表現がけっして外面的にならず、密やかさによって貫かれているのが、後期ベートーヴェンに相応しい。細かいリタルダンドやテンポ・ルバートも自然で、音楽自体のダイナミズムにもとづくものであった。本当に密やかに音がさざめき合う箇所の響きなど、この世のものとは思えないほどだったが、そのような響きをこそ、後期のベートーヴェンは、みずからの脳裏に浮かぶ音を厳しく研ぎ澄ませて目指したのではなかったか。その厳しさが音楽に表われたかのような箇所も、上述のように素晴らしかったのだが、それ以上に強い印象を残したのが、アンダンテの自由な変奏の楽章。この夜の白眉だったのではないだろうか。憧れに満ちた歌が、静かに、それでいて感興豊かに変奏されていく。つい同じ強さで弾き流されがちなフレーズにも、微妙な彩りが添えられ、そこにあるダイナミクスの変化は、息のめぐらしそのものである。そして、それを支える伴奏のリズムがつねに生気とウィットに満ちていた──とくに内声の付点のリズム──のがこの作品に相応しい。

休憩を挟んで、内田光子のピアノが加わり、ブラームスのピアノ五重奏曲ヘ短調が演奏された。この曲も、ベートーヴェンの作品同様にメランコリックな情念の漲る作品ではあるが、この日の演奏は、しばしば見られるように、それが若さとともに迸り出るのを強調するのではなく、どちらかと言うとブラームスの音楽そのものの展開に軸足を置いたものではあったが、けっして情熱や力強さに欠けることはなく、スケルツォやフィナーレの追い込みは嵐のように凄まじかった。こうしたとき、五人の奏者の奏でる音楽が一つのエネルギーに凝縮されるのだが、そのような境地に達するまでに、内田光子とハーゲン弦楽四重奏団とのアンサンブルは緊密である。ザルツブルクをはじめとする場所で、何度も共演してきた成果であろう。そして、弦楽四重奏と共演するとき、内田光子は、例えばマルタ・アルゲリッチのように、自分で音楽全体を引っ張ろうとするのではなく、スコアのなかでの役割をしっかりと把握しながら、あくまで五人で一つの音楽を目指そうとする。そのようななかで、随所に内田ならではの音楽の冴えを示すのである。

そのような内田のアプローチが最も生きていたのがアンダンテの楽章だったかもしれない。ブラームスの内気さを表わすかのように、歩き出しては戻ることを繰り返しながら徐々に高まっていくピアノの主題で音楽を導き、弦楽の歌を引き出すのだが、その過程の豊かなこと。また、第二ヴァイオリンとヴィオラによって歌われる主題──その充実したハーモニーも実に印象的だった──にも彩りを添える。そして、最初の主題が弦楽に移ると、それに微妙に変化し続ける陰影を与えるのである。第一楽章では、ダイナミクスの起伏がテンポの変化と結びつくのを、弦楽と一体となって見事に表現していたし、スケルツォでは、暗い情念が深く沈んだところからだんだんと湧き上がってくるのを、内田光子のピアノが見事に表現していた。そのトリオの部分に入る際のピアノによる主題の提示も非常に美しい。

フィナーレは、メランコリックな序奏で始まるのだが、それは前半のベートーヴェンのアダージョの楽章を思い起こさせた。それに続くアレグロの主題の提示は、チェロとピアノが見事に呼応していて、きわめて充実していた。豊かで陰影にも富んだクレメンス・ハーゲンのチェロも素晴らしい。また、その主題がひとしきり高まった後に続く、深沈とした一節では、はっとさせられるほど密度が高い表現が聴かれた。そして、この楽章を特徴づける情熱の高揚にあっても、一つひとつの音の粒立ちがけっして失われることがない。だからこそ魂が内側から熱くなるのだ。内田光子とハーゲン弦楽四重奏団による今夜のブラームスの演奏は、音楽そのものの運動を表現しきることで、そこに込められた情念をも引き出した演奏だったのではないだろうか。

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