広島でのハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー演奏会

■大植英次指揮ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー演奏会

[2006年6月2日/広島厚生年金会館]

広島厚生年金会館へ大植英次が指揮するハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの演奏会を聴きに行く。一度かぎりとはいえ、バイロイト音楽祭の指揮台に立ち、「トリスタンとイゾルデ」を振った大植が、いったいどのようなヴァーグナーを聴かせてくれるのか、少し興味があったのだった。前半に歌劇「リエンツィ」序曲と「ジークフリートの牧歌」を配し、後半に「ニーベルンクの指環」四部作のなかでも単独で上演される機会の多い楽劇「ヴァルキューレ」から第一幕を演奏会形式で上演するというなかなか意欲的なプログラム。

この日の演奏は全体として、なぜ大植がバイロイトへ招聘されたのか、という問いと、またなぜその招聘が一年で終わってしまったのか、という問いの両方に対して答える要素を含んでいたように思われる。まず、その上部組織にあたるハンブルクの北ドイツ放送交響楽団に比べるなら超一流の実力を最初から約束されているとはやはり言い難いハノーファーの北ドイツ放送フィルハーモニーをしっかりとまとめあげ、随所で聴き手を陶然とさせるようなクライマックスを築いていた点は評価しておかなければならない。大植の八年間にわたるオーケストラ・ビルディングの成果が、一つの塊として迫ってくるヴァーグナーの響きに結実していたことは認めておくべきだろう。そのような現場での実力が評価されてバイロイトへ呼ばれたことは想像に難くない。しかしながら、大植の音楽そのものが、はたしてヴァーグナーにふさわしいものなのだろうか、という疑問も拭えないところもあったのは確かである。

まず大植の音楽は、全体的に落ち着きなく上滑りしてしまっている。どこかせかせかしていて、音楽にゆったりと身を委せることができないのだ。全体的に呼吸が浅いせいもあるだろうが、何よりもリズムのとらえ方に問題があるのではないか。アウフタクトをしっかり摑んで歌いきったうえで強拍を踏みしめるようなリズム感を感じ取ることができないために、地に足がついていない音楽を聴いているような感じがするうえ、音楽の構造もぼやけて聴こえる。また、大植の指揮ぶりを見ていると、作品全体を貫く音楽の大きな流れを巨視的にとらえる視点を失って、細かい楽節の処理に心を奪われているようだ。そうすると、個々の楽節はそれらしく聴こえても、作品全体が一本の筋によって貫かれていることが見えなくなり、音楽から緊張感が失われてしまう。実際「リエンツィ」の序曲と「ヴァルキューレ」第一幕には、間然としてしまった箇所がいくつかあった。

こうした大植の落ち着きのなさと視野の狭さは、ヴァーグナーを聴かせる場合には、やはり致命的な欠点となろう。大植にバイロイトでの二度目のシーズンが訪れなかったのはそのせいではと思うのは、うがった想像だろうか。

そう考えると、全体としての完成度が最も高かったのは、オーケストラの自主的なアンサンブルに音楽の運びを委せた「ジークフリートの牧歌」だったのではないかと思われてくる。少人数の編成の弦楽器と管楽器が呼吸を合わせて、ヴァーグナーが妻のために自宅の室内で初演したこの曲にふさわしい親密なアンサンブルを繰り広げていた。もう少しゆったりと歌ってほしいと思う箇所もなくはなかったが、全体としてはオーケストラが自分で音楽の自然な流れを形成していた。指揮者がいなくてもよかったのでは、と思わせるくらい。また、他の作品では、奏者のあいだに演奏能力の差があるせいか、静かなところで弦楽の響きがややざらついてしまっていたのに対して、「ジークフリートの牧歌」では少人数の編成が功を奏して、弦楽器の各セクションの響きが艶やかにまとまっていた。弦楽器の広がりのあるハーモニーの上に管楽器のソロが突出することなく浮かびあがっていたのも、この曲の空間的な広がりのある牧歌的雰囲気を表現するうえでは好ましい。

「リエンツィ」序曲での大植の指揮も、どちらかというとオーケストラの自主性を重視していたが、そこではそうした行き方が裏目に出ていた。金管楽器の力強い響きはそれなりに印象的だったものの、音楽の運びに緊張感が欠けてしまっている。ゆったりとした歌から徐々にテンポを速めてクライマックスに至る流れに緊迫感がないし、最後のマーチもやや安っぽく響いてしまっていた。

「ヴァルキューレ」第一幕では、大植は前半とは打って変わって、オーケストラをしっかりとコントロールしながら、双子の兄妹とその宿敵が少しずつその素性を明かしつつ運命的な出会いを遂げるドラマの緊迫感を響き出させようとしていた。その結果、個々の場面はしっかりと描き出されていたし、この第一幕をクライマックスへ導く剣のモティーフをはじめ、個々のライトモティーフ(示導動機)も印象的に浮かびあがらせられていた。しかし、先にも述べたように、全体を貫くひと筋の流れのようなものを感じ取ることができないために、ジークムントが父によって約束された剣を手に入れるクライマックスへ向けてひたひたと進む流れに身を委せることができない。そうしてこそヴァーグナーに酔うことができるはずなのに。それから、冒頭と幕切れでは、嵐のような烈しさを表現しようとする大植の気合いがやや空回りしてしまっていたように見受けられた。音楽が滑ってしまって、冒頭ではジークムントを襲った苦難の烈しさが、幕切れではジークムントとジークリンデの心中に湧きあがる喜びの烈しさが、今ひとつこちらに迫ってこないのだ。

歌手のなかでは、フンディングを歌ったクリストフ・シュテフィンガーが圧倒的な力強さを示していた。明くる日の決闘を宣告するドスの利いた声は、フンディングの一族の怨念の深さを物語って余りある。それに比べると、ジークムントを歌ったロバート・ディーン・スミスとジークリンデを歌ったリオバ・ブラウンの声は少し弱い印象を受ける。ジークムントがこれまでの苦難を切々と物語り、約束された剣を切望する歌の真摯さにも、またジークリンデが不意の客人を気遣ったり、生き別れた双子の兄に出会えた喜びに打ち震えたりするさまを描く表現の細やかさも、心に訴えるものがあったが、オーケストラの響きに声が負けてしまっている箇所が散見された。

オーケストラは、木管楽器を中心に健闘していたように思われる。とりわけオーボエとイングリッシュ・ホルンのソロは印象的だった。金管楽器も十分に力強かったが、それに比べると弦楽器の響きはやや弱い。ホールのこもった音響も影響しているのかもしれないが、ドイツのオーケストラに特徴的な分厚いバスの響きにのった深い音がこちらに迫ってこないのだ。最大の原因はやはり、すべての弦楽器奏者が同じように弾けていないことだろう。とはいえ、オーケストラの各奏者のエネルギーには恐れ入るほかはない。これだけヴァーグナーを演奏した後に、さらにもう二曲アンコールとしてヴァーグナーを演奏したのである。演奏されたのは、「ヴァルキューレの騎行」の名で知られる「ヴァルキューレ」第三幕への前奏曲と楽劇「神々の黄昏」のクライマックスを形成する「ジークフリートの葬送行進曲」。演奏会の後半を「ニーベルングの指環」の世界として完結させるという意味で見識ある妥当な選曲ではあるが、どちらもオーケストラへの苛酷な要求を含んだ曲である。それらを最後まで力強く演奏しきったのだ。

最後に、演奏会の運営についてひと言述べておかなければならない。「ヴァルキューレ」第一幕の上演にあたっては、日本語の字幕を舞台の上か両端に表示すべきだったと思われる。古語と韻文を駆使したヴァーグナーの台本は、ドイツ語を知っていても追うのは相当難しい。まして照明が暗いなかでは、プログラムをもっていても、歌詞対訳の日本語を読むことすらままならないはずだ。そして、言葉を追うことに気を取られると、舞台を見ることができないばかりでなく、音楽への集中力も途切れてしまう。かといって舞台に集中すれば、演奏会形式での上演の場合、よほど曲を知っていないかぎりどんな場面なのか想像がつかず、もどかしい思いをするだけである。とりわけ、ヴァーグナーの実演がまれにしか行なわれてこなかった広島での演奏であることを考えるなら、日本語の字幕は必要ではなかったか。それにしても客席に空席が目立つのは寂しい。大植は広島の出身と聞く。バイロイトで日本人として初めて指揮したヴァーグナーを引っ提げての里帰り公演となれば、もう少し話題を呼んでもよさそうなものだ。広島の人びとは、広島の外で活躍する広島出身の芸術家に対してどこか冷淡な感じがする。裏を返せば、それだけ内向きだということだろうか。

大植英次とハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの日本ツアーの初日を飾る広島公演は、大植の故郷とヴァーグナーへの愛に満ちた、実に力のこもった演奏会だった。しかし、その愛が音楽と一体化して聴衆に届いたかどうかには、疑問を呈さないわけにはいかない。そして、その疑問の原因は、演奏する側とそれを受け容れる側の両方にあったと考えられる。

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