細川俊夫「星のない夜」世界初演

[2010年10月2日/バーデン・バーデン祝祭劇場]

四季の移ろいは一般に、年ごとの微妙な違いがあったとしても、基本的にはつねに同じように、人間に恵みをもたらすものとして経験されると考えられている。ヴィヴァルディやハイドンのような作曲家は、そのような季節の変化を、これに対する人間の喜怒哀楽を含めて生き生きと、しかも喜びを基調として歌うことができた。では、今四季の移ろいを、手放しに喜ばしいものとして歌うことができるのだろうか。季節の循環は、人間の取り返しのつかない過ちが繰り返されることと重なり合ってはいないだろうか。細川俊夫の最新作のオラトリオ「星のない夜」は、この問題に正面から向き合うとともに、破局の永劫回帰としての歴史の連続した流れが断ち切られた先に救済を垣間見ようとするものと言えよう。

このオラトリオは当初、ハイドンの没後200年を記念して「天地創造」をテーマとするオラトリオとして構想されたが、やがて世界の創造の場を四季の移ろいのうちに見届けるとともに、自然の循環のなかで人間によって引き起こされる災厄を直視するものとして構成し直された。その災厄として取り上げられるのは、いずれも第二次世界大戦末期のドレスデン空襲と広島への原子爆弾投下である。これらの災厄を見つめるとは、同時にその犠牲者を哀悼することにほかならない。細川は当初「季節の墓標」──「墓標」の語は、作曲されたオラトリオのドレスデンと広島の証言を取り上げた楽章の表題に生かされることになる──という表題も考えていたという。そのような曲折のなかでも一貫して細川の作曲を突き動かしていたのは、彼がベルリンでのクレー展で見た「新しい天使」の絵であった。ベンヤミンがおよそ20年間座右に掲げ、彼に「歴史の天使」の着想を与えたこの天使は、細川のオラトリオのなかでは、地上の出来事を見届けるばかりでなく、怒りに燃えて叫ぶ。人間の世界に突き刺さるような天使の叫び声よって彼は、季節の循環と重なる歴史の連続が断ち切られる可能性を暗示しようとしたのかもしれない。

そのような天使の叫びを含んだオラトリオは、季節のそれぞれを歌うゲオルク・トラークルの詩、クレーの新しい天使に寄せたゲルショム・ショーレムの詩「天使の挨拶」、そしてドレスデンの空襲と広島の被爆を体験した者の証言をテクストとして、「星のない夜」という表題で完成された。その世界初演は、2010年10月2日、バーデン・バーデンの祝祭劇場にて。指揮はケント・ナガノで、二人のソプラノ独唱は、サリー・マシューズと藤村美穂子。管弦楽は、この作品を委嘱したグスタフ・マーラー室内管弦楽団。合唱は、ケルンの西ドイツ放送合唱団。さらに二人のナレーターが加わる。会場が期待感に包まれるなかで初演が始まった。

最初の楽章「冬に」は、冬の空を吹きすさぶ冷たい風の音とともに始まる。それが沈黙のなかから少しずつ聞こえてくるのだ。耳を澄ますと、合唱の各声部が微妙にダイナミクスを変化させながら、息の音で風を表現しているのがわかる。それが折り重なって厚みを増し、凍てついた風景が立ち上がってくると、そこに風鈴の音が、どこか儚さを感じさせる間歇的なリズムで遠くから響いてくる。三連符と五連符の組み合わせからなるこの動機が全曲を貫いていて、さまざまな楽器でダイナミクスを変えながら奏されることになる。やがて管楽器や弦楽器も加わって穏やかならぬ雰囲気が醸されてくると、合唱がトラークルの詩「冬に」を、声を出すことなく歌い始めた。雲が垂れ込め、重く冷たい景色が不気味なほど果てしなく広がるなか、狩りが行なわれ、血を流して倒れた獲物の獣に鴉がばっと群がる、おぞましくさえ感じられる情景を描く詩であるが、その一語一語が含む戦きが合唱からひしひしと伝わってくる。また、その戦きに寄り添うように管弦楽も徐々に高まっていくが、それがテクストの終わりとともに頂点に達するさまは、トラークルの詩がかっと開いた光景を鋭く突きつけるようでもあり、後の破局を予感させるようでもあった。とくにそのような局面において、マーラー室内管弦楽団の表現の鋭敏さには目を見張らされる。

最初の楽章の音楽が静まると、アタッカで「間奏」と題された第2楽章が続く。この楽章はアルト・フルートの独奏のために書かれていて、沈黙のなかから、戦慄に抗うかのような張り詰めた歌が、息を絞り出すようにして響いてくる。震えと擦れを含んだ線でひと筆で書かれた、細川ならではの音楽を、フルート奏者は非常に巧みに演奏していたけれども、どちらかというと楽器の響きで豊かに歌うことに傾斜した演奏で、もう少し鋭さやノイズを強調したほうが、曲に相応しかったように思う。

アルト・フルートの独奏の最後の音にはヴィオラの音が重なって、1945年2月13日のドレスデンに捧げられた第3楽章「ドレスデンの墓標」が始まった。前作のオラトリオとも言える「ヒロシマ、声なき声」の広島の被爆を取り上げた楽章と同様、ナレーターが証言を朗読するなか、音楽の強度が徐々に増し、やがて凄まじい響きのうねりとなる。この曲では、二人のナレーターが舞台の両端に立ってドレスデンの空襲の体験者の証言を朗読し、初めは交互に、はっきりと内容が聞き分けられるように語られる。しかし、後に二つのナレーションが折り重なるようになると、もはや言葉さえ聴き取ることはできない。業火の渦のような圧倒的な響きがうねるなかに、証言の言葉が呑み込まれていくかのようだ。そのように、言葉を聴き取らせることを拒むまでに強い表現を細川が採ったのは、いみじくも証言のなかにあるように、ドレスデンの出来事が「あらゆる想像力の彼方にある」ことを突きつけるためだったように思われる。証言の内容を聞き分けることで理解することをも拒む、表象の限界を越えた出来事。それをそのような出来事のままに、しかも詩的に表現するぎりぎりの試みがここにあるのかもしれない。ただし、この作品においてこうした表現の試みは、「ヒロシマ、声なき声」のときより少し遠くから、出来事を歴史として見つめる、どこか天使的な視点から行なわれているようにも思われてならない。実際、証言と証言のあいだには、時に弦楽器の哀悼の歌が挟まれている。

「けっして忘れられない」という証言の言葉とともに、寒風吹きすさぶ廃墟が現出すると、音楽は第4楽章「春に」に連なっていく。二人のソプラノの重唱のために書かれたこの楽章は、ためらうようにして、まだ寒い初春の風景を開いていく。漂うような弦楽の響きの上で、二人の声が緊密に重なり合いながらトラークルの詩を歌うが、サリー・マシューズと藤村美穂子のアンサンブルは、親密さすら感じさせて美しかった。やがて最初の楽章の鈴の動機が聞こえてくる。それが少し形を変えて、ヴィオラとチェロのソロで歌われるのが、廃墟にスミレが咲き、風景が緑なし始めるというテクストと重なる一節はとくに印象的で、微かな希望さえ感じさせる。

弦楽の響きが消え入るなかから、今度は静かに合唱が響いてきた。トラークルの「夏に」を合唱が歌う第5楽章の始まりである。この楽章で合唱は、管弦楽が間奏のように差し挟まるなか、ほとんど無伴奏で歌うが、それによって西ドイツ放送合唱団の技術の高さがいっそう際立つ。何よりも一つひとつの言葉が豊かな象徴性をもって響くのが曲に相応しい。トラークルの詩は、雷雨がひたひたと迫るなか、鳥の歌も、虫の音も、部屋の灯りも沈黙のなかへ消え入っていくという内容で、いったん、おそらくは詩の語り手の胸の高鳴り──灯りが消える部屋は、どうやら恋人のそれのようだ──とともに高まった音楽は、徐々に静まっていき、「星のない夜」という、作品全体の表題にも採られた最後の一節は、囁くように、息だけで歌われる。「風の止んだ、星のない夜」、それはどこか広島の夏に来る湿度の高い、雷雨を予感させる凪を思わせなくもない。「星のない夜」にあるのは、どうやら不穏な静けさのようだ。あるいは、「星のない」空は神の不在を示しているのかもしれない。

しばらくの沈黙の後、打楽器だけのために書かれた第6楽章の「間奏」が静かに始まった。ブラシや手でつねに細かいリズムを刻む打楽器の響きは遠雷のようでもあるが、どちからというとそれよりも物質的で、速度を感じさせる。それが前打音を交えながら高まっていく緊迫感は、各奏者の素晴らしいリズム感と相俟って凄まじかった。

息を呑むようなクライマックスの後に、打楽器の響きが静まると、音楽は第7楽章「広島の墓標」へ連なっていく。この楽章のテクストに用いられているのは、増西正雄編『原子雲の下で』に収められた、小学校6年生の生徒が書いた被爆証言であるが、それを細川はみずからドイツ語に訳して、一つの静かな鎮魂歌の歌詞にしている。チェロの噛み締めるようなピツィカートに乗って歌い出されるその歌は、虚飾がまったくないだけに強く心を打つ。藤村美穂子が、心からの共感をもって切々と歌っていた。絶唱だったと言っても過言ではない、素晴らしい歌唱だったと思う。

「広島の墓標」の後に、人の営みが破局をもたらす時の流れを中断するかのように、あるいはベンヤミンが「歴史の概念について」で語った「進歩の嵐」を食い止めようとするかのように、第8楽章「天使の歌」が置かれている。テクストに用いられているのは、ベンヤミンが「歴史の概念について」の、まさに「歴史の天使」を語る第9テーゼのエピグラフに一部を掲げる、ゲルショム・ショーレムの詩「天使の挨拶」。ここではその全体がソプラノによって歌われることになる。その歌は、空間を突き抜けるようなトランペットの旋律に先導され、怒りの歌として歌われる。神の懐としての根源へ惹かれながら、一つの街で起きた出来事を、つぶさに眼を満たして見届ける天使の歌。それをトランペットの独奏とともによく聴くと、それが鈴の動機のヴァリアントであることが判る。もしかすると、鈴の動機は、人間の世界で起きる出来事を一つひとつを見ている天使の臨在を象徴しているのかもしれない。さらにトランペットの独奏には、客席の舞台へ向かって左の階上に配された、エコーのトランペットが反響する。それがしっかり決まっていた。これは細川によると、ドレスデンの聖母教会での演奏を想定した工夫とのこと。客席を包む空間の広がりを作って、中空に漂う天使の存在を意識させようとする効果があろうが、もしかすると、ソプラノが高いところから歌ったほうがより効果的だったかもしれない。そして、サリー・マシューズの歌は、もっと強く怒れる天使の歌であったほうが、詩と音楽のテクスチュアに合っていたのではないだろうか。やや美しすぎるような印象を受けたのだ。

最終楽章は、トラークルの詩による「浄められた秋」。木々が実り、静かに満たされた秋の情景が日に映えるさまが合唱によって歌われるなか、さまざまな動機が絡み合い、高まりながら、天上的とも言える安らかで、輝かしい響きへ昇華されていく。何か救いのようなものを感じさせる一瞬が到来するが、それも長くは続かず、美しい想念も「沈黙のなかへ消え去っていく」という詩節とともに、音楽も沈黙へ消え入っていく。鈴の動機が遠ざかっていくなか、最初の楽章の冬の回帰を予感させる風の音が響いてきて、それもだんだんと消え去っていくのだ。そして、すべてが沈黙のなかへ消え入ったところで「星のない夜」の全曲が閉じられる。そのとき、どこかもの悲しい冬の予感を含んだ沈黙によって、会場全体が包み込まれたようだった。

かなり長い沈黙の後、大きな、感動のこもった喝采が起きた。作曲家が、指揮者やソリストたちとともに何度も呼び出されたことは、今回の初演が成功裡に終わったことの証しだろう。そして、その成功に大きく貢献していたのがケント・ナガノの指揮であることは疑いえない。沈黙に始まり、沈黙に終わる作品全体の構造を捉えたうえで、細川が書いた音楽を完全に自分のものにしていたばかりでなく、自分の理解をオーケストラと合唱にしっかりと浸透させて、演奏をまとめ上げていた。音楽の運びにも間然するところがない。ただ、音楽の一貫した流れに重点を置いたために、やや素っ気なく通り過ぎてしまったところや、もう少し間を取ってほしかったところがあったのは惜しまれる。とくに、「広島の墓標」の後には、10秒から15秒の沈黙が指示されているのだが、ケント・ナガノはすぐ次の「天使の歌」に入ってしまっていた。この沈黙は、それまでの時の流れを中断させる重要な沈黙なので、次の演奏の機会からは、この沈黙の指示が守られてほしいと思う。

さて、全体として見ると、細川俊夫の「星なき夜」は、災いの歴史のうちに投げ込まれた人々の痛みを介してドレスデンと広島のあいだに橋を架けるばかりでなく、同じような災厄が今なお繰り返されている世界の深層へ聴衆の目を開かせるとともに、そこからの救済の希望も微かに示すことに成功しているように思われる。そして、そのために細川の作曲芸術が惜しみなく注ぎ込まれているし、それが一つの動機が一貫する堅固な構造のうちに統合されているのも、この作品の特徴と言える。構造的な首尾一貫性の度合いは、前作「ヒロシマ、声なき声」をはるかに上回っていよう。そのような作品が温かく受け容れられたことは、これが繰り返し演奏される道を開いたとも言えよう。次は、およそ1か月後の11月6日に、当初初演の会場に予定されていたドレスデンの聖母教会で演奏される。この歴史的な空間で「星のない夜」がどのように響くのか、非常に楽しみである。

 

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