細川俊夫『班女』ルールトリエンナーレ公演

[2011年9月29日/デュイスブルク・ゲブレーゼハレ]

ルール工業地帯の工場跡の建物を会場に、魅力的な演劇やオペラの公演が盛りだくさんのルールトリエンナーレの一環として行なわれる、細川俊夫のオペラ『班女』の公演を見るために、デュッセルドルフから隣町のデュイスブルクへ向かった。デュイスブルク中央駅の地下ホームからトラムに乗り、町外れの停留所で降りて公園のなかをしばらく歩くと、巨大な工場跡が見えてくる。太いパイプや高いクレーン、それに煙突が立ち並び、部分的にライト・アップされていた。そのなかの「送風場」としか訳しようのない建物ゲブレーゼハレを会場に、『班女』の公演は行なわれた。

会場に入ると、客席とほとんど仕切られていない舞台は、煙が立ちこめているようでよく見えない。目を凝らすと、舞台中央を鉄道の線路が貫いていて、それに大きな倒木が倒れ込むかたちになっている。その脇には四つほどの四角い穴が開いていて、なかに水が張られていたり、ビニールが詰められたりしている。奥のほうにも同じような穴がいくつも開けられていて、オーケストラはそのなかにセクションごとに分かれて座っている。メンバーは、それぞれの特徴を隠すためであろうか、顔の上半分を白く塗られている。今回の公演の演出家は、カリスト・ビエイト。毎度物議を醸す演出で評判のスペイン出身の演出家が、このような仕掛けを駆使してどのような舞台を見せてくれるのだろうか。花子を歌ったのは、スウェーデン出身のソプラノ歌手ケルスティン・アヴェノ。ドイツ出身のメッツォ・ソプラノのウルズラ・ヘッセ・フォン・シュタイネンが実子を歌った。吉雄役はヴィーン出身のゲオルク・ニグルだった。

さて、最近の細川の規模の大きな作品でしばしば聴かれるように、息の音が静かに持続するなかに鈴の音が密やかに響き始める。非日常的な独特の空気が醸し出されると同時に、何者かの気配を感じないではいられない。やがて煙った舞台の奥から、線路のレールを伝って花子がふらふらと近づいてくる。いかにも狂女という体の白い衣裳で、よろけながら遠くへ目を凝らし、やがて両手を広げると、衣裳がはだけ、腹部に「愛」の一字が刺青のように書かれているのが見える。その身振りが後で吉雄との再会の場面で繰り返されるとき、観る者はこれが班女の扇を広げる動作であることを知ることになる。ちなみに吉雄のほうは、判読できなかったが、腹部に、それこそ扇のようにいくつもの漢字を書かれていた。

この刺青を扇に見立てた表現は、最初に見たときは、この作品の鍵になるものとしてはあまりにも直接的に感じられ、正直別の表現の仕方があるのではと感じたが、後になると、身体的な表現にこだわるビエイトなりの意図があるように思われてくる。もしかすると刺青は、トラウマのように身体に刻み込まれた恋人の記憶なのかもしれない。それは花子を捨てたかに見える吉雄のほうが深く、幕切れ近くで暴力的に噴出することになる。男性をはっきりと暴力性において際立たせるやり方は、いかにもビエイトらしいが、これによって、それぞれ異なった世界に生きる二人の女性の関係が対照的にくっきりと浮かび上がってくる。

全体的に今回のビエイトの演出は、リブレットと音楽をよく読み込んだうえで、場所の特質を生かす、非常に説得的なものだった。そもそも線路を中心に据えた装置は、花子が井の頭線の駅で吉雄を待ち続けるのと、実子が花子を旅に連れ出そうとすることの両方に対応するし、舞台中程の倒木は敷居に見立てられる。それに、この線路がかつて工場だった空間によくマッチしているのだ。それに、歌手にかなりの無理を強いる──例えば花子がレールの上に立った不安定な状態で歌うことは、狂気の表現としてよく考えられているが、歌手にとっては大変だろう──場面もあるとはいえ、演技と音楽の起伏が非常によく合致しているように思われた。

『班女』における細川の音楽は、夢と現実、狂気と正気のあわいにあるものが凝縮された能の世界に相応しい緊張を一貫させながら、その上に花子の歌を夢幻の世界に浮遊させ、他方で身体の奥底から湧き上がる実子の愛憎の感情を浮き彫りにするものと言えようが、今回上演に接して、花子への愛情と吉雄への嫉妬のあいだで揺れ動く実子の感情の表現がことに印象に残った。井の頭線の駅で吉雄を待ち続ける花子のことを新聞に書かれたときの燃えるような嫉妬──実際舞台上では火が燃やされ、新聞紙の燃えがらが黒い雪として降った──と、その裏返しとしてある花子への妖しいまでの愛情との振幅を、ヘッセ・フォン・シュタイネンの歌唱は、見事に表現していた。とくに、レチタティーヴォのような語りから歌へ移行するときなど、妖艶とも言えるような表情を見せていたし、逆に歌から語りへ移行した瞬間は言葉がよく立っていた。

他方、花子を歌ったアヴェノは、端正な歌唱で別の世界に生きる女を演じきっていた。無駄な表情がそぎ落とされている分、正気の人間の生身の感情との落差が際立つ。この点が、吉雄と再会した場面では非常に効果的だった。お前は吉雄ではなく、毎日駅を行き交う骸骨のような人々──オーケストラはそのような街の群衆に見立てられているのかもしれない──と同じように死んでいるという言葉が、どちらかと言うと淡々と、しかしそうであるがゆえに決定的な宣告として響くのだ。それを聞いた吉雄は、カフカの「判決」の世界を見るかのように、水溜まりに身を投げたのだった。吉雄を演じたニグルも、筋の通った明快な歌唱を聴かせてくれたが、そうであるがゆえに吉雄の暴力性が凝縮されて際立っていた。この点は、ビエイトの意図する吉雄像に合致していたのではないだろうか。

このように、三人の歌手たちはそれぞれの登場人物の特性を見事に浮き彫りにしていたのだが、それ以上に感心させられたのが、ゲリー・ウォーカー指揮するムジークファブリークの演奏だった。舞台の各所に奏者が分散せざるをえない条件下でありながら、緊密なアンサンブルを聴かせ、どの瞬間を取っても間然するところがない。何よりも、各奏者が明確な主張をもってあらゆるパッセージに生気を吹き込んでいるのが好ましく思われた。豊かな空気をはらんだ弦楽器のメロディックなパッセージなど、背筋がぞくっとするほど妖しい美しさを放っていたし、吉雄が登場するときの音楽は凄まじいまでの迫力だった。間奏的なヴィオラのソロは、和楽器演奏で言う障りも取り入れて、細川の音楽に相応しい見事な演奏だったと思う。

『班女』というドラマの解決なき解決──吉雄が去った後、花子と実子はお互いを認めてはいるものの、失った愛を待つ者と、未だ愛されたことのない者との隔たりは埋まることがない──の後、夕闇のなかに花子と実子が静かに歩み去って行く幕切れは、細川の音楽と相俟って、こう言うと失礼かもしれないが、ビエイトの舞台とは思えないほど本当に美しかった。複数の生の静かな、そして確かな肯定がそこにはあった。『班女』という作品のテクスチュアを工場だった空間のなかで見事に生かした演出と、確かに技術に裏打ちされた振幅豊かな音楽の表現が見事に合致した、この場所ならではのきわめて説得的な『班女』の公演だった。

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