響きの根源へ──「細川俊夫と仲間たち」を聴いて

[2003年1月12日/広島市南区民文化センター]

細川俊夫にとって作曲とは、空間と時間の書であるという。書道においては、書家の筆の動きが、たんに線を描くだけでなく、余白をも、一つの書がそこに浮かび上がる空間として切り開いてゆく。同じように細川の作曲も、一つの音楽を書きながら、同時にそれが聴こえてくる空間と時間を開くものなのだろう。それは、一つの音が余白の沈黙のなかからのみ響き出ることを思い起こさせてくれる。それゆえ彼の音楽は、饒舌に聴こえる音を連ね、たとえば音の連なりや重なり合いの一個の形式を誇示するかのように音を響かせるものではない。この日「細川俊夫と仲間たち」の場で演奏された彼の作品は、どれも静けさに貫かれた音楽を聴かせていた。そして、演奏会の前半に演奏された彼の初期作品においては、彼自身が語っていたように、音の線にも、それを浮かび上がらせる余白の静寂にも、どこか張りつめたところがあった。

最初に演奏された無伴奏ヴァイオリンのための「ウィンター・バード」の冒頭で繰り返されるコル・レーニョは、鳥籠か狭い部屋に閉じこめられた小鳥が外の世界へ向かおうとして壁にぶつかり、羽毛を散らすさまを思わせる。獄中から鳥のように飛び立ちたいという願いをうたう金芝河の詩と、当時ベルリンの壁の圧迫のもとで暮らしていた細川の自由への憧れとが共鳴するなかで生まれたというこの作品は、閉ざされた現実への省察が、細く張りつめた高音によって表わされる真の自由への憧れに収束してゆく過程を描き出そうとしているように聴こえた。漆原朝子の演奏は、その過程を一本の線としてたどろうとするかのように、誠実に作品に寄り添うものだったと言えよう。

細川の音楽と書道との近さを最も強く印象づけていたのが、次に、この日はテノール・リコーダーで演奏された、フルートのための「線I」であった。この「線」自体、毛筆によって描かれる線を意識したものであるという。一個の音符として表わされる楽音だけでなく、息や唸り声など、伝統的な西洋音楽ではノイズとして処理される音をも含んだ音楽は、書の線が身体的な運動によって描き出されることを思い起こさせる。一本の線は、起筆の一点が置かれ、紙の繊維の抵抗を受けながら筆が縦横に運ばれ、そして紙から筆が離れることによって描かれる。「線I」の音楽は、その過程を生身の呼吸する身体の動きとして表現しているのではないか。また、舌のスタッカートやフラッターは、墨が紙に滴るさまや、紙の抵抗を受けて線が擦れてゆくさまをも思わせる。「線I」は、一本の線が余白のなかに立ち現われてくる過程を、それに参与する人間の身体的な動きから浮かび上がらせていると聴こえた。空間のなかに一本の線を描くこの動きは、細川にとって、作曲すること自体とも重なり合うものであろう。この作品は実際、「1984年から展開していく、様々な音楽思考の原点であり、出発点である作品」なのだと彼は述べている。

前半の最後に演奏された、ヴァイオリンとピアノのための「マニフェステーション」もまた、人間とそれを取り囲む宇宙とのかかわりのなかで、見えるもの、あるいは聴こえるものが顕現してくるさまを表現しているという。この作品では、細川が「ミクロコスモス」と呼ぶモティーフが最初に提示され、それが他の「ミクロコスモス」を産み出してゆく展開の緊密さと豊かさが耳を惹く。わずかな音の連なりに内在する可能性を最大限に引き出すことによって、見えるものや聴こえるものの顕現ばかりでなく、この「マニフェステーション」の場である深い奥行きをもった空間をも現出させているように聴こえた。もしかすると、中川賢一の力強いピアノがなければ、そうした印象を受けることはなかったかもしれない。中川の演奏は、人間にとってはときに抵抗であり、脅威である自然の力を、土台のしっかりした見事な響きの造形によって表現していた。漆原のヴァイオリンは、それに拮抗したり、呼応したりしながら何かを産み出そうとする「人間の魂」の動きを、ピアノとある意味で好対照であるような繊細さをもって響かせていた。

さて、前半に演奏された初期の諸作品に張りつめたところがあったとすれば、それは作曲する自分自身の探究によって音楽が貫かれていたからではないか。その意味でもこれらは「青春の自画像」なのだろう。後半に演奏された近年の作品においては、細川は、自己の探究から解き放たれて、響きの世界に、沈黙のなかから音が響き出てくる時空間に没入しているように聴こえる。とりわけ後半の最初に演奏されたピアノ独奏のための「夜の響き」は、そうした彼の境位をはっきりと示す作品と言えよう。ヴェーベルンの歌曲の音列を、六つの「短い俳句のような部分」へと展開したとされる音楽は、一つの響きへ沈潜することで、そこにもうひとつの響きの胎動を聴き取ることへ聴き手をいざなう。倍音や共鳴音によって、あるいはピアノの弦を押さえたり弾いたりといった特殊奏法を交えたりすることによって紡ぎ出される濃密な夜の世界、そこに開かれるのは、遠くへ響き伝わる音がそこに生まれ出てくる静寂である。一つの時の間において、一つの響きが沈黙のなかから聴こえてきて、やがて再び沈黙のなかへ消え入ってゆくさまを、さらにその響きが別の響きと応えあっていることを、細川は、やはりヴェーベルンを思わせる緊張度をもって描き出しているように聴こえた。中川賢一の演奏は、ここでも作品にふさわしい、決然としたものであった。

静けさのなかに音を響かせる行為が、息づく身体のそれであることを思い起こさせるのが、次いで演奏された、バス・フルートのための「息の歌」である。この作品においてもまた、吸気音や唸り声、重音といった特殊奏法が至るところで用いられているが、それらは、人間の身体が吐き出す息の振動と、風の振動とが共鳴するさまを表現するものであるという。一つの声音はこの共鳴から生まれる。細川はこの作品において、人間が歌うこと、語ること、さらには生きることの原初的な場を、その時空間を切り開こうとしているかのようだ。この日「息の歌」は鈴木俊哉のバス・リコーダーによって演奏されたが、鈴木は「線I」のときと同様、音楽の根源に迫るために細川が譜面に書き込んだ高度な技術的要求に、十二分に応えていた。

最後に演奏された、ヴァイオリンとピアノのための「古代の舞い」は、人間の息づかいが身体の動きをともなっていて、それが時空間内に一本の線を描いてゆく過程を浮かび上がらせるものと言えよう。細川にとっては、舞いの始まりにあるのも、いたずらに重力に逆らうことのない、むしろ宇宙のゆっくりとした移ろいに呼応する、緩やかな動き出しである。作品の標題にある「古代」とは、この始まりにほかならない。それを表現しようとする音楽は、ゆったりとした身体運動に寄り添おうとするあまり、これまで演奏されてきた作品にあった緊張を減じてしまっていることは否めない。緩やかさのなかにこそ聴くことのできる響きの透明さがあることもたしかなのだけれども。また細川は、舞う身体の動きをあまりにも直接的に宇宙そのものの動きと一体化させようとはしていないか。舞いはやはり、重力と風に抵抗することを通じて初めて一本の線を描くのではないだろうか。ヴァイオリンとピアノがあまりにも美しく応えあうのを聴くとき、そうした問いが浮かぶことも禁じえない。とはいえ、この作品に聴かれる響きの透明さは、細川の音楽の、最近の新たな境位を示すものであろう。それはこれからどこへ向かうのか。「古代の舞い」を聴くかぎり、彼の音楽は、生命の根源へさらに迫ろうとしているように思われる。

この日「細川俊夫と仲間たち」の場で演奏された作品はどれも、「仲間たち」との緊密な関係のなかから生まれたものと言えよう。細川のそばにいるすぐれた演奏家たちは、彼に新たな書法の可能性を示唆し、またその新たな書法が紡ぐ音楽を響かせ、聴き手に送り届ける。この演奏会は、そのような演奏家との共同作業のなかから細川の音楽が産み出されていることも思い至らせるものであった。とはいえ、こうして生まれてくる新しい音楽も、その世界に立ち会う聴き手がいなければけっして生き続けることはできない。同時代の音楽の世界のありようを語り、そこに内在する美を、あるいは俗悪さを聴き分けることのできる批評的な耳をもった聴衆がとりわけ日本に欠けていることを、細川は指摘していた。批評する聴衆がいないままならば、現在活動している作曲家たちの作品が演奏される機会はますます減るだろうし、そうして聴き手が新たな音楽創造の現場に立ち会うことをやめることは、音楽すべての死につながることだろう。新たな音楽の創造に聴衆が参与することができる──それができなければ音楽そのものがありえないはずだ──ために、音楽が響く場のあり方を──演奏会のプログラミングやその批評も含め──これから根本的に変えなければならないのではないか。この日の演奏会は、そのような深刻な問いを投げかけるものでもあった。

※引用はすべてプログラム・ノートに記された細川俊夫の言葉より。
(2003年1月14日)

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