魂の歩みを辿る迷いのない息遣い──ゲルハルト・ボッセのブルックナー演奏を聴いて

■新日本フィルハーモニー交響楽団第358回定期演奏会

[2003年6月27日/すみだトリフォニーホール]

ブルックナーの交響曲と言うと、厳密な対位法で組み立てられた、壮大な教会建築を目の当たりにするかのようなその響きが思い出されるかもしれない。たしかに「愛する神に」捧げられた彼の作品はどれも緊密な構造をもった建築のようであり、すぐれた演奏のもとでは、その響きは他に類を見ない広がりと奥行きを示すものである。そうすると、楽器編成の点でも、作品のサイズの点でも、彼の11曲を数える交響曲のなかで最大の規模を誇る第8交響曲ともなると、その響きは、ゴシック様式の大伽藍のように天をめがけて屹立することになるのだろうか。

この日、新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会において、ゲルハルト・ボッセの指揮によって演奏された第8交響曲の響きは、実はそうした石造りの大聖堂というより、一本一本の骨組みに生命の息吹と職人たちの手触りを残している木造の聖堂を思わせるものであった。それは、外観の壮大さという点では石造の聖堂にはおよばないかもしれない。しかし、木造建築に特有の建物のたしかな感触、木の温かさがもたらす建物の落ち着き、そして建物の内部にいるときに感じるあの安らぎといったものは、石造建築では代えがたいものだろう。

ボッセの指揮による第8交響曲の演奏を聴いて、なぜそのような木造りの聖堂のありようを思い起こしたかというと、そのスケールが、例えばかつて聴いた朝比奈隆の指揮による同じ新日本フィルの演奏ほどには大きくなかったからというよりも、確かな呼吸がけっして弛緩することのない、それでいてどこにも慌てたところのない音楽の流れを貫いていたからである。スケールの壮大さをもたらす垂直的な高さより、すみずみまで息の通った横の流れのほうが強く感じられたのだ。そして、その有機的な起伏は、聴き手を暖かく包み込みながら、音楽の新たな展開へ運んでゆく。こうしたヒューマンな要素もまた、神の威光を示すかのような荘重さや峻厳さとならんで、純朴だったブルックナーの演奏になくてはならないものであろう。

この日ボッセのブルックナー解釈を特徴づけるものと思われた有機的な音楽の流れ。その起伏は、もしかすると、引き締まったフォルムを新鮮な響きで輝かせる彼のハイドンやモーツァルトの演奏に親しんできた聴衆からすれば、じつに大きな、あるいはきわめて大胆なものにさえ聴こえたかもしれない。たとえば、第1楽章の最初の主題の提示もじっくりと聴かせるものだったのだけれども、3つの主題がひとしきり提示されて展開部が始まり、最初の主題の変奏が管楽器で奏でられるところでかなりテンポが落とされたのには、はっとさせられた。それは地平線が眼の前にさっと開けたかのようだった。音楽が深沈と落ち着いたところから、崇高なものを前にうち震えるかのような三連符の動きとともに高揚が始まる。そして、クライマックスへ向けてだんだんとテンポを上げたのは、自然な緊張感をもたらしていたのではないか。同様の表現はフィナーレの展開部の始まりにも聴かれた。その第3主題の高揚が頂点に達した後の空白からもれ聴こえてくる静かな祈りの歌。それがひとすじの祈りの歌の静けさをもつためにも、聴き手をはっとさせるような音楽の句切りと、テンポの変化が必要だったのかもしれない。スケルツォでは、低弦が提示する最初の主題の反転した形が木管で奏でられるところでテンポが急に落とされたが、それによってもたらされる木管の歌の寂寥感には、それがそのまま楽譜に書いてあるかのような説得力もそなわっていたように思う。

こうした音楽の大きな起伏があったために、この日の演奏は、スケールの大きさも欠いてはいなかった。そして、その大きさをもたらしていたのはまず、安心して音楽の流れに身をまかせることを可能にする、響きのたしかな聴きごたえであったろう。ボッセが指揮するとき、新日本フィルの弦楽器の各パートの音色は一つにまとまり、全体として土台のしっかりした響きをかたちづくる。また、オーケストラ全体の響きもおおむね、どれか一つの楽器が突出することのない、ピラミッド状のバランスを保っていた。むろん、ライヴならではの惜しいところも端々にはあったのだけれども、オーケストラは全体として、ボッセの要求に応えた充実した演奏を繰り広げていたのではないだろうか。

とはいえ、大きな起伏をもった音楽の流れを有機的なものにしていたのは何よりも、ボッセによるブルックナーのスコアのたしかな読みと、それを現実の音楽に結実させる彼の迷いのない呼吸だったのではないか。そして、彼はみずからの息づかいを、演奏のすみずみに行きわたらせることのできる現場の知恵も、長いコンサートマスターとしての経験から得ているのだ。たしかな息づかいが音楽の自然な運びに結びついてゆく。そのようなボッセの解釈の美質が最も強く感じられたのは、やはりアダージョにおいてであった。一つひとつの主題が、いや一つひとつのモティーフが、じっくりと歌い継がれるのだけれども、けっして音楽が弛緩することがない。数分にわたる最初の主題の提示に、大きな一つの呼吸をこれほど強く感じたことがこれまであっただろうか。

シンバルが二度打ち鳴らされた後、コーダの直前にその主題が回帰してくるところに、実はこの日の演奏全体のクライマックスがあったのかもしれない。深沈と歌い出された主題がだんだんと高揚し、そしてハープのアルペッジョがかき鳴らされるなか、すべての弦楽器の音が、おののきをもよおすまでに厳しい、つまりはあらゆる人間的なものを超えた厳しさに満ちた和音に凝集したのだ。ブルックナーの音楽が、人間的な委曲をつくしたところで人間を超えたものの象徴であろうとしているのを示すかのように。やがてそれも静まって、また充実した空白のなかから聴こえてくる細やかな歌が、この楽章の終わりを告げる。その美しさともに、シンバルが最初に打ち鳴らされる直前、木管の六連符とヴァイオリンのトリルの相克が頂点に達したところで訪れる、あの句切りの空白から聴こえる祈りの歌の澄みきった静けさは、けっして忘れることができない。

今しがた述べたように、ブルックナーは、みずからの音楽のすみずみに人間的な委曲を尽くすことで、その音楽を神に捧げた、つまりその音楽を、人間を超えた存在に対して開いたと考えられる。この日示されたボッセの解釈は、こうして音楽が人間を超えたものの象徴となってゆく歩みを、ブルックナーの祈りと響きあう、確かな息づかいをもって、一歩一歩辿り直すものだったと言えよう。ノヴァーク版を用いたこの日の演奏は、ゆうに1時間20分を超えるものだったのだけれども、けっして長さを感じさせることはなかった。聴き終えた後に残ったのは、「人間」の他者へ開かれてゆく人間の魂の歩みをともに歩み終えたという思いであった。

(2003年7月5日)

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