Berlin 2006

■サー・ロジャー・ノリントン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

[2006年10月13日/フィルハーモニー]

10月13日、ベルリンのフィルハーモニーでベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会を聴く。曲はJ・S・バッハのミサ曲ロ短調(BWV. 232)だった。指揮はロジャー・ノリントンで、合唱はRIAS室内合唱団。最近活躍の目覚ましいノリントンがバッハ畢生の大作にどのように挑むのか、楽しみなところである。

客席に入って舞台を眺めると、弦楽器群が馬蹄形に並べられている。指揮台も、指揮者用の譜面台も見あたらない。ではノリントンはどうするのだろう、と思いながら見ていたら、彼は、合唱が入るときには、弦楽器の輪のなかに入って指示を出し、独唱歌手のアリアやデュエットのあいだは、舞台のいちばん手前にヴァイオリン奏者の椅子の余りのように置かれた椅子にちょこんと座って、必要最小限の指示だけを与えていた。彼の譜面台はないので、当然すべて暗譜である。

実際、ノリントンはこの巨大なミサ曲のすべてを手中に収めていた。そして、それとともに彼は、このミサ曲のあまりにも厳密と思われる形式が、生命のダイナミズムをその精髄において表現しているのを見て取っているようだ。基本的に楽天的で、またピリオド楽器の奏法を生かした──実際、弦楽器奏者はほとんどヴィブラートをかけていない──切れ味鋭いノリントンの解釈は、とりわけ生命の躍動を生きることの喜びとともに鮮やかに表現するところで、その美質をいかんなく発揮していたように思われる。グロリアが、キリストの地上への復活が、サンクトゥスが、これほど輝かしく響いたことがあるだろうか。この作品の演奏において、生きていることへの喜びがこれほど屈託なく表現されたことがあっただろうか。ノリントンがバッハのロ短調のミサ曲のうちに見ていたのは、少なくとも居丈高に屹立する巨大な神への捧げ物ではない。彼にとってその作品は、むしろ地上の被造物すべてに捧げられた、この地上に生きていることへの讃歌なのではないだろうか。

したがって、そこにある対位法にしても、彼にとってはけっして抽象的な形式ではなく、絶え間なく躍動する生命が応えあうのと一体となった形式のようである。この曲におけるノリントンの指揮は、各曲の冒頭以外ほとんど拍子を出さない。むしろ、異なった生命が応えあうのを活気づかせるために強調すべき点を全身で表現することに重点を置くものである。少しビッグ・バンドか何かの指揮にも似ていなくはなかったのだけれども。ともあれ、そのような指揮によって、躍動する生命の呼応が、一つの音楽の高まりに結実してゆくのを聴くのは、感動的ですらあった。

逆にキリエや、クレドのなかのイエスの磔刑を描く一節のように、地上の被造物の儚さを嘆きながら神の哀れみを求める深刻な箇所も、音が短く切られ、言葉の区切りが際立たせられることによって、逆に切々と胸に迫る祈りとして響いていたように思う。グロリアやアニュス・デイの最後の平和への祈りには、もう少し内側から湧きあがるものがあっても、とも感じたが、全曲の祈りが注ぎ込まれているとも言ってよいこの音楽が、これほど燦然と響いたのは耳にしたことがない。

このような輝かしく、また鮮やかなバッハのミサ曲の演奏を支えていたのが、ラトル時代の若いベルリン・フィルの機動性であったことは言うまでもないが、それ以上に特筆すべきは、ベルリン・フィルのきびきびとした演奏が、RIAS室内合唱団と透明な響きと一体となっていたことである。時にそれぞれの声部が一人の歌手の声のように聴こえるくらいによく訓練されたこの合唱団の声は、力強く、そしてけっして混濁することなく響きわたる。また、バスによってしっかりと支えられた響きには、安心して身を委せることができる。演奏全体のこれほどの完成度は、この合唱団なくしてはけっして望みえなかっただろう。

独唱歌手のなかでは、テノールのジョン=マーク・エンスリーとバスのデートレフ・ロートが印象的に残る。エンスリーのまっすぐに響きわたる力強い声は、最初から耳を惹いたし、またロートの真摯さも光る。グロリアのなかのバスのアリアは、狩のホルンを担当したラデク・バボラクの巧みな演奏と相まって、アリアのなかでは白眉の出来を示していたように思う。この二人に対して、ソプラノのスザンナ・グリトンとカウンター・テノールのデヴィッド・ダニエルスの歌唱は、今ひとつこちらへ迫ってこない感じ。とりわけダニエルスの声は、カウンター・テノールには珍しくとても自然だっただけに、惜しまれる気がする。もしかすると、歌手の背後で聴いたせいかもしれないけれども。

この日、ベルリンのフィルハーモニーで聴いた、どこまでも澄んだ響きと切れ味鋭いアーティキュレーションで、生命の絶え間ない躍動を表現し、この世に生きることの喜びを力強く歌い上げるバッハの演奏。それはもしかすると、バッハがその晩年の大作に一人の人間として込めたものを、世俗的で普遍的なものとして今に響き出させるものだったのかもしれない。ノリントンとベルリン・フィルによるバッハの演奏が、現代の楽器奏法と歌唱法でバッハの作品にアプローチする一つの可能性を力強く示していたのは間違いない。

 

■コーミッシェ・オーパー・ベルリン:モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』公演

[2006年10月14日/コーミッシェ・オーパー・ベルリン]

10月14日、コーミッシェ・オーパーへモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』の上演を見に行く。今年春のシュトゥットガルト歌劇場の引っ越し公演における同じモーツァルトの『魔笛』の演出でも話題を呼んだ、ピーター・コンヴィチュニーの演出に興味があったのだ。このオペラ・ハウスの恒例として、ドイツ語による上演である。

コンヴィチュニーの演出に興味があったとはいえ、最初にぐっと惹きつけられたのは音楽である。ピリオド楽器による演奏に勝るとも劣らない切れ味のアコードで序曲の序奏が始まると、やがて柔らかな管楽器のハーモニーが、舞台を包む涼やかな空気のように立ちのぼってくる。そして序曲の主部に入ると、弓がよく弾んだ弦楽器の音がリズムを刻み、聴き手の心をいやがうえにもかき立てるのである。

今回の上演を指揮したマルクス・ポシュナーという指揮者、まだずいぶん若いように見受けられるが、かなりの手腕の持ち主と思われた。ピリオド楽器の奏法を生かした鋭さを随所で引き出しながら、オーケストラの各セクションが一体となるようなアンサンブルを統率し、芳醇な、それでいて見とおしのよい響きをコーミッシェオーパーのピットから立ちのぼらせていた。このピットの指揮台にしばしば立つキリル・ペトレンコも、モーツァルト指揮者としてすぐれた手腕を発揮していたけれども、ポシュナーのモーツァルトへの適性は彼以上のものであろう。何といっても響きのバランスの取りかたが素晴らしい。ゆったりとした音楽においては、バスによってしっかりと支えられた響きが香気とともに漂っていた。軍隊に徴集されたと嘘をつくフェランドとグリエルモが二人の恋人に別れを告げる場面では、夜の香気が舞台を包むのである。

歌手たちも、ドン・アルフォンゾを演じたディートリヒ・ヘンシェル以外聞いたことのない名前の歌手たちばかりだったが、いずれもそれぞれに与えられたアリアをほぼ完璧に歌いこなすばかりでなく、このオペラの命ともいうべき重唱でも、息の合ったアンサンブルを聴かせていた。なかでも印象的だったのは、デスピーナを演じたゲルトルート・オッテンタール。この女中の役はたいてい、若い、おきゃんなところのある歌手が演じるのだけれども、オッテンタールは見るからに相当なベテランである。しかし、デスピーナはほんとうは、恋愛の挫折を幾度も経験した人生のベテランのはずなのだ。そして、こと恋に関して年季の入ったところをドン・アルフォンゾと組んで、若い二組の恋人に見せてやらなければならないはずだ。このことをオッテンタールは、見事な声のコントロールで力強く主張していた。

さて、幕切れも間近となったところで、ドン・アルフォンゾが、女の浮気さを自分の手で証明してしまった二人の男を舞台の手前に連れて行くと、緞帳が下りてくる。そして三人で、「みんなそうするものさ!」──ドイツ語の歌詞は「女はみなそうしたものさ」ではなく、「女」にかぎらず「みんなそうするものさ」となっていた──と叫ぶと、どこからか拍手喝采の音が流れてきて、聴衆もそれにつられて拍手してしまう。やがてそこにデスピーナが、二人の女性を連れて割って入り、二人は新しい恋人と結婚する用意ができていると告げる。その光景を見て、これはただでは済むまい、と思っていたら、やはり最後にどんでん返しが待っていた。二人の若い女性の貞節を試す芝居の種明かしが終わると、今度は本来誰と誰が結婚するはずだったのか誰もわからなくなり、ついには台本をもった舞台監督まで舞台に呼び出されると、フェランドが突然結婚式のテーブルの上に立ち上がって、「おれはグリエルモと結婚する!」と叫ぶのである。コンヴィチュニーがプログラムに収められたインタヴューで述べているところによれば、台本には最終的に誰と誰が結ばれるのか、はっきりと書かれていないのだ。だから、二人の男が結ばれることもありうるのである。恋心は、誰に対しても燃え上がる。彼によれば、モーツァルトはそのことを、オペラの音楽で肯定しているのである。

舞台では、フェランドとグリエルモが結婚することになったまま、結婚式の祝宴が再開され、登場人物たちは客席へ降りてくる。すると、合唱がテーブルクロスになっていた紙を広げるのだが、そこには物事を「少しは哲学的にご覧なさい!」──あるいは「お考えなさい!」──と大書してある。その文句は、相手を取り違えた恋人たちが最後には元の鞘に戻るというハッピー・エンドを期待する聴衆ばかりでなく、恋について教訓を与えようとした哲学者ドン・アルフォンゾとデスピーナにも向けられているにちがいない。そう、人間は恋について何も学ぶことはないのである。

実際、四人の若者たちは、結局何も学ばない。コンヴィチュニーの演出では、四人はいつも相手のぬいぐるみの人形をもっていて、ドン・アルフォンゾとデスピーナはそれをことあるごとに取り上げようとする。お前たちが恋をしているのはお人形さんとしての相手なのだと言わんばかりに。しかし四人は、自分たちの浮気さと盲目を突きつけられても、教訓をわが身に刻もうとはしないのである。芝居の種明かしと、それに対する驚愕を、四人は結婚式のテーブルの上で、人形劇のかたちで演じるだけなのだ。その一方で、新しい相手が現われると、四人はいずれも相手に対して何か応えずにはいられない。そのときに新たな恋心が炎のように燃え立つこともありうるのだ。そこにこそ現実があることを、コンヴィチュニーは示していたように思われる。

『コジ・ファン・トゥッテ』のドイツ語の副題は「恋人たちの学校」であるが、コンヴィチュニーはその「学校」を、聴衆を含めて、人間が恋について何も学ばないことを学ぶ場に変えている。この教訓なき教訓劇とも言うべきドラマのために、彼はブレヒト的な、文字による異化効果を、序曲の最中からふんだんに用いて、観客のなかば自嘲的な笑いを誘っていた。「みんなそうするものさ」というプラカードが緞帳のあいだから差し出されると、そこに「女は」ばかりでなく、「男は」とか、「猫は」とか、あるいは「消しゴムは」とか書かれたプラカードが次々と差し出されるのである。そして、文字とならんで異化効果を発揮していたのが、レチタティーヴォの伴奏にチェンバロではなく、ハンマーフリューゲルが用いられたことである。その硬い音色とともに歯切れよく繰り出されるドイツ語の台詞は、聴衆が期待するであろう『コジ・ファン・トゥッテ』の甘ったるいイメージを打ち砕いていた。コンヴィチュニーは、ドイツ語ででしかできない『コジ・ファン・トゥッテ』を、人間の真実を仮借なく突きつけるとともに、それを音楽で救い出すオペラとして、今に甦らせていたのではないだろうか。

 

■サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

[2006年10月19日/フィルハーモニー]

10月19日、フィルハーモニーへベルリン・フィルの演奏会を聴きに行く。指揮はサイモン・ラトルで、シューマンとブルックナーの第4交響曲というプログラム。シューマンの第4交響曲は、1841年の初稿で演奏された。ちなみにブルックナーは、1878/80年のノーヴァク版。シューマンの第4交響曲を、楽章のテンポがイタリア語で記されている初稿で演奏すること自体、ラトルのシューマンへのアプローチのありようを示しているのかもしれない。ラトルは、少なめの弦楽器の編成で見とおしのよい響きをつくりながら、リズムの躍動を強調していたように思う。とりわけ、第1楽章と終楽章の主部における音楽の生命感には瞠目させられたし、第1楽章のコーダへ向かうテンポの運びもスリリングであった。目まぐるしくテンポが変化するなかでも響きを濁らせることのないベルリン・フィルの合奏能力にも、あらためて驚嘆させられる。

とはいえ、リズムの躍動に力点が置かれるぶん、音楽の横の流れは後退し、それとともにこのシューマンの作品全体を貫く、そこはかとなく暗い緊張感も薄れてしまう。ラトルの指揮だと、すべての音が表に出てしまって、シューマンの音楽に必要な響きの奥行きと潤いが失われてしまうのだ。それゆえ、どのフレーズもたしかによく歌われているのだけれど、表情がどこか明るすぎてしまう。第3楽章まで短調で書かれているのを忘れてしまうくらい。また、スケルツォとフィナーレには、音楽の流れに実によくはまったルバートが見られたが、表現として少し表面的な感じも否めない。生命感に満ちた、鮮やかな、しかしあまりにも晴朗なシューマンだった。

ブルックナーでは、ラトルの細やかな音楽づくりが印象に残る。メロディーに応じてトレモロの伴奏にも実に細かくダイナミクスの変化が付けられていたし、転調に応じて響きもさっと表情を変える。それによって、「ロマンティック」と作曲者自身が呼んだこの作品に特徴的なメロディーの美しさが引き立つのである。朗々としたソロを聴かせてくれたホルンをはじめ、管楽器奏者の巧さも光る。いや、管楽器のソロ以上に輝いていたのは、ヴィオラ・セクションのアンサンブルであろう。一本の楽器で弾いているように聴こえるほどのまとまりを見せながら、温かい深みをもった響きで、第2楽章の長いメロディーを見事に歌いきっていた。その心に響く深い余韻も忘れがたい。

ラトルは、シューマン以上にブルックナーを自分のものにしているようで、音楽の運びに余裕がある。基本的にゆったりとしたテンポを取りながらも、音楽の流れが停滞することはないし、逆にテンポが速められても、性急さを感じることはない。間の取り方も実に自然だった。響きは、シューマンのときと同様、晴朗な鮮やかさが支配的である。迫力あるフォルテのトゥッティの響きも、晴れやかで見とおしがよい。各セクションの動きも生き生きとしていて、そのことが音楽の躍動感を高めている。そのことがとりわけプラスにはたらいていると思われたのが、第3楽章のスケルツォ。リズムの躍動と響きの解像度をこれほどの水準で両立させた演奏は耳にしたことがない。第1楽章も、晴れやかな喜びに満ちていて、聴いていて心地がよい。

しかし、第2楽章と第4楽章においては、シューマンのときと同様、響きのあまりの鮮明さが音楽の奥行きを減じてしまっているように聴こえた。フィナーレのコーダを聴いても、奥深いところから湧き上がってくるものにどこか欠けるのである。また、ラトルの響きの鮮明さと音楽づくりの細やかさが、ブルックナーの音楽に特有の素朴さないしは豪放さを奪ってしまっている感じも否めない。フィナーレには、几帳面さが音楽の力強さを損ねてしまっているところもあった。このように、音楽の奥行きやブルックナーらしさがいくぶん欠けていたし、またライヴゆえの惜しいミスもあったとはいえ、音楽の自然な流れ、生命感に満ちた音楽の力強い躍動、細やかな表情、そして響きの鮮明さを、これほどの完成度をもって兼ねそなえた演奏は、ラトルの指揮するベルリン・フィルならではのものであろう。最近のラトルに対しては「伝統的」な「ドイツ音楽」のプログラムへの取り組みに不熱心であるとの批判があるようだが、この日のシューマンとブルックナーの演奏は、ラトルにそのような批判を浴びせる人々にとって、どのような回答と映っただろうか。

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