Hiroshima Happy New Ear VIII

[2010年12月9日/広島市アステールプラザオーケストラ等練習場]

音楽の深み、それは音楽が最初に湧き出てくる場所へ通じていよう。ただし、それはどこか遠くに、生きることから離れた場所にあることはないはずだ。もしかすると、この源泉は案外身近なところ、いや自分自身のうちにあるのかもしれない。世界に触れ、世界と共振する身体。その息遣いから音楽は最初に響いてくるのではないか。そして、そのとき音楽は歌として響き出るのではないだろうか。「音楽の深みへ」というテーマの下、ヴィオラの今井信子とピアノの伊藤恵を迎えて行なわれたHiroshima Happy New Earの第8回演奏会は、シューマン、ブラームス、武満徹、細川俊夫という、時代も様式も異にする作曲家たちの音楽が、同じ深みから、湧き上がる感情ととともに震え、響く身体の息遣いから歌として生まれいるという点で通底していることを、ヴィオラとピアノの親密にして緊密な響き合いのなかに示していたように思う。

最初に演奏されたのは、シューマンの幻想小曲集(作品73)。本来クラリネットのために書かれたパートをヴィオラのそれに編曲したヴァージョンでの演奏だった。今井信子のヴィオラは、シューマンの愁いを帯びた独特の旋律が抑えがたく湧き上がるのを、そのまま解放する──若い演奏者なら、あるいは彼女ももっと若かった頃はそうしていたかもしれない──というよりは、旋律を愛おしむかのように、そしてそのなかに込められた思いを慈しむかのように、大事に歌っていた。かといって音楽がけっして停滞することがなく、自然な息遣いで連綿と旋律が歌い継がれていくのは、今井の音楽の成熟を物語るものだろう。また、「生き生きと、軽やかに」という指示のある中間の楽章でも、音楽が収まるべきところに収まる感じがするのは、シューマンの音楽に通じた伊藤恵のピアノに因るところも大きいのかもしれない。伊藤のピアノで聴くと、シューマンが何気なく書いたに思える二つ、三つの音の連鎖も実に意味深く響く。最終楽章は、心の奥底から燃え立つ「炎をもって」演奏されたが、これはヴィオラで演奏してこそ可能なように思われた。

続いて、武満徹の二つのヴィオラのための作品が演奏された。まず、ヴィオラとピアノのための「鳥が道に降りてきた」。独特の静けさと風景の広がりが、武満の晩年様式とでも言うべきものを感じさせる。武満がこの曲について語っているところによれば、それが開くのは白日の庭の風景。そこに鳥たちが降りてきてさざめく。なかでも印象的なのが、ピアノの奏でる鳥の声であるが、それはメシアンのそれとも、バルトークのそれとも異なっている。日の差し込むなかにささやく武満の鳥の声は、生命のアウラに包まれているかのようだ。伊藤恵のピアノで聴くと、それは本当に神秘的に響いた。それに耳を傾けるかのように、ヴィオラが奏でるもう一羽の鳥は、風景のなかをたゆたうかのように、ゆったりと羽ばたく。その運動がまさに歌として、自然な息遣いで演奏されたのは、武満に相応しいし、その音楽に通暁した今井であればこそ可能なことだったのではないか。伊藤恵とのアンサンブルの親密さもここでは生きていた。

次に演奏されたのは、ヴィオラ協奏曲「ア・ストリング・アラウンド・オータム」。今回は細川俊夫がピアノとヴィオラのために編曲したヴァージョンで演奏された。今井はこの曲に並々ならぬ思い入れがあるようで、しばし虚空を見つめて心を曲に集中させた後、ほぼ暗譜で演奏した。最初に伊藤恵のピアノが、苦悩する魂の深淵を開くかのように低音に力を込め、その重く、深い響きのなかから、すぐに後期の武満のそれと判る旋律線が、静かに浮かび上がる。それに乗ってヴィオラが歌い始めるのだが、その歌はまさに「秋を巡るひとすじの弦」の表題に相応しく、秋の豊穣さと共鳴するかのように豊かだ。しかしその豊かさが、ある種のヴィルトゥオジティを誇る演奏家の音にありがちなように、飽和して押しつけがましくなることがないのは、今井の音楽の懐の深さを示すものだろう。今井のヴィオラの音は、基本的にはとても豊かで、その点が武満のこの作品とよく調和するのだが、同時に自然な息遣いのなかから響いて、楽器の音を楽音の響きで埋めてしまわないので、ふっと何気なく歌い出される武満の歌の本質的なところとも、響き合うように思われる。ひと筋の旋律線が無限の光彩を放つかのようなこの作品が、今井のために書かれたことを、あらためて実感させられた。もしかすると、今回細川俊夫によるピアノ伴奏への編曲版で聴いたからこそ、微細な音色の変化が聴き取られて──オーケストラの豊かな響きが実際に空間を埋めているなかでは、それは少し難しい──、そう思ったのかもしれない。

さて、休憩後に演奏されたのは、まず細川俊夫の「リートII」。もとはフルートとピアノのために書かれた「リート」の編曲版である。彼がシューベルトのリート(歌曲)を思いながら、今音楽において歌がどのように可能か、という根源的な問いに、音楽をもって向き合った作品と言えよう。そのことは細川にとって、歌そのものが湧き上がる源泉に立ち返ることを意味していたようだ。ヴィオラは空間に声を響かせる行為そのものを表現するかのように、すっとひと筋の音を響かせ、ピアノは声が歌となる源となる情動の深みに迫ろうとするかのように、強く深い響きを打ち込んでいく。そして、ヴィオラのパートの流動性とピアノのそれの垂直性とが絡み合うかたちで音楽が展開していくのだが、ここでは伊藤恵のピアノの豊かで深い響きが、音楽の基調を決定していたように思えた。そしてその響きのなかから、身をよじらせるように激しい感情を歌にしようとする今井のヴィオラとの関係は非常に緊密で、そのため作品に相応しい緊張感を最後まで持続していた。

次いで、ヘンデルの歌劇『リナルド』のなかの代表的なアリア「私を泣かせてください」を、細川俊夫がヴィオラ独奏に編曲した一曲が演奏された。ヴィオラ演奏の実に多様な技法を駆使して、アリアの有名な旋律が奏でられるが、それをつうじて歌が息遣いそのものであることを感じ取ることができる。歌を形作るのは音声だけではない。それ自体としては響かない気息のなかから声は響く。そのことを思い起こさせる編曲であった。それよりも印象的だったのが、アリアに先立つレチタティーヴォの部分。ヴィオラは、ヴァイオリンともチェロともちがい、歌うだけでなく、語ることもできるのだ。

最後に演奏されたのは、ブラームスのヴィオラ・ソナタ第2番変ホ長調(作品120の2)だった。ほの暗い情熱を感じさせる第1番と異なって、優美かつ滋味深い旋律に満ちたこの作品は、現在の今井の成熟した音で聴きたい曲である。冒頭の旋律からして、伸びやかでありながら、愛おしむような温かみに満ちている。そして、晩年のブラームスならではのたゆたうような動きも、非常に味わい深い。今回の演奏でとくに印象的だったのは中間の楽章。情熱的な主旋律と、中間部のコントラストをくっきりと際立たせながら、全体の構成感を保っているあたり、ライヴならではの音楽の広がりと、音楽そのものの成熟を同時に感じさせる。とりわけ、最後に主部に戻る直前に現われる、悲哀に満ちたヴィオラの旋律が切々と歌われたのには心を打たれた。変奏曲形式の終楽章では、ヴィオラとピアノの親密なアンサンブルが印象的。柔らかな平静さが支配するなか、温かみに満ちた旋律や、熱を内に秘めた動機が紡ぎ出されてくるあたり、ブラームスが最後にたどり着いた境地も垣間見る思いだ。

曲の終わり近く、コーダへ向けて音楽が高まっていく契機となるピアノの動機が、本当に深いところから、じわっと熱を帯びて響き始めたとき、ブラームスを、しかもシューマンと親交があった頃から音楽の根本は変わらないブラームスを聴いているのだ、という思いを強くした。今回の演奏で、ブラームスのこのソナタがこれほどの奥行きをもって響いたのは、伊藤恵のピアノがあったからこそであろう。豊かで、成熟した慈愛に満ちた名演奏だった。

アンコールに演奏されたのは、細川俊夫がヴィオラとピアノのために編曲したバッハのコラール「人よ、汝の罪の大きさを嘆け」だった。静かに切々と歌われるコラールを、今井が語ったところによれば、哲学者の森有正が生涯愛好していたという。森は、直接的で反射的な体験ではなく、遭遇した物事を深くみずからの内面で捉え返す経験の重要性を繰り返し説いたのだが、そんな森の思想が、この演奏会を聴くことについても当てはまることを暗示するかのような選曲と言えよう。今井信子と伊藤恵の親密にして緊密なアンサンブルは、音楽を、耳と心を響かせ合いながら深く聴くことを迫る。そうして音楽をまさに経験しながら、音楽が最初に歌として湧き出てくる深み、シューマンも、ブラームスも、武満も、細川もそこに立ち返ろうとしていた深みに近づくことへ、この演奏会は全体として聴き手を誘うものであったのではないだろうか。そして、その深みに、歌が息遣いとともに響き始めるところに、最も近いところにある楽器の一つがヴィオラであることを、今回あらためて実感させられた。だからこそ、音楽とは何かという問いに真摯に向き合う現代の作曲家が、ヴィオラのために作品を書くのだろう。

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