Orchestra Concerts in Berlin 2004–2005

■サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

[2004年10月14日:フィルハーモニー]

ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会を聴いた。サイモン・ラトルの指揮で、ベルクのヴァイオリン協奏曲とマーラーの第5交響曲というプログラム。ベルクでヴァイオリンを弾いたのはピンカス・ズーカーマン。彼の演奏はテクニック的には申し分なく、またその音そのものも、大編成のオーケストラと充分に渡りあえるだけの力強さを最後まで保っていたのだけれども、どこかあざとい歌い回しばかりが強調されていた。それを実に豊かな音で聴かせるために、この曲をベルク晩年の、此岸のあらゆる苦しみを見通した果てに──あのバッハの引用が象徴する──彼岸への扉に至る、そんな研ぎ澄まされた世界を開く音楽として聴くことができない。

ラトルの伴奏も、ベルクのスコアのテクスチュアを読みこなし、そこにある表現の可能性を存分に引き出したものだったとはいえ、やはりベルクの音楽の「人間的」な側面ばかりを強調するほうに傾いていて、ベルクの音楽になくてはならない、突き刺すように迫ってくる響きを聴かせてはくれなかった。一般的に言えば、実に豊かな美しさを示した演奏ではあるが、あの「ヴォツェック」を書いたベルクの音楽を聴いたのだろうか、という疑問をどうしても拭い去ることができない。

後半のマーラーの第5交響曲の演奏は、近年のマーラー演奏のありようを代表するものだったと言えるだろう。ラトルは、全体的に早めのテンポで音楽を運びながら、スコアに書かれている表現の可能性を、細部に至るまでくまなく引き出して、マーラーの音楽にふさわしい響きと音の流れを構成していたし、また今までに聴いたことのない新鮮な響きも聴かせていた。とりわけ印象深かったのは、第1楽章と第2楽章の2つ目の主題や、スケルツォのワルツ風のメロディなど、ラトルの鋭い感覚とベルリン・フィル、とりわけその弦楽セクションの隙のない演奏技術とが相俟って、緊張感に満ちた、心臓を上へ攫み上げるかのような歌になっていたあたりである。

スケルツォにおけるホルンのほぼ完璧なソロ(ラデク・バボラクが前に出て吹いていた)をはじめ、オーケストラがその力を存分に発揮していたことも、この日の演奏を感銘深いものにした一つの大きな要素だろう。静かでありながらすべての声部がくっきりと際立って聴こえる澄んだピアニッシモから、時に噴出し、また時にうねりながらもけっして混濁することのないフォルティッシモに至るまで、耳を惹きつけてやまなかった。有名なアダージェットは、たとえばバーンスタインが指揮した演奏のように、歌があふれ出てくるような演奏ではなく、どちらかというと澄んだ安らぎを一つのダブローに収めたという感じの演奏。やや物足りない感じもなくはないが、これはこれで一つの行き方を示していよう。続くフィナーレにおいてラトルは、これが疾走するフーガであることを強調していた。これほど明晰に音楽そのもののダイナミズムが生かされた演奏も稀であろう。速さと強弱のコントラストも、実に好ましい仕方で際立たせられていた。ルフトパウゼの取り方をはじめおおよそ納得できるスコアの読みである。コーダの追い込みにも耳を惹きつけられた。

このように、全体としてはほとんど非の打ちどころのない、稀に見るすぐれた演奏だったことは間違いない。だが、何かが足りない感触をどうしても拭えない。ベルクを聴いた後もそうだったのだが、ほんとうにマーラーを聴いたのか、という問いが頭を離れないのだ。スコアに込められている、心に重い楔のようなものを仮借なく打ちこんでくる力、押しとどめようもなく湧きあがってくる思いといった、説明しがたいものが、あまりにも容易に、明晰な、言わば「純音楽的」な表現に昇華されてしまっているように思うのである。これからは、こうした、どちらかというと「軽い」マーラーの演奏が主流になっていくのだろうか。そう考えると、もう冬のように寒い帰り道、少し寂しい気持ちになった。

 

■ニコラウス・アーノンクール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会

[2004年12月5日/フィルハーモニー]

ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会を聴く。アーノンクールの指揮によるシューベルトばかりのプログラム。最初に演奏された「小さなハ長調」の交響曲においてアーノンクールは、古典的な交響曲の構成が崩壊する寸前のところまで、各主題の提示をはじめとするそれぞれのブロックごとにテンポを変えることで、シューベルトのイタリア・オペラ──むろんそれはロッシーニのことにほかならない──を意識した歌の魅力を存分に、とは言ってもどこまでも洗練されたかたちで引き出していた。両端楽章の第二主題が、これほどまでにその牧歌的な魅力を発揮したことはなかったのではないだろうか。

それに続き、テノールのミヒャエル・シャーデをソリストに迎えて、めったに上演されることのないシューベルトのオペラや宗教劇の音楽からのアリアが四曲演奏された。未完成に終わった初期の「アドラスト」からのレチタティーヴォとアリア、ゲーテのテクストによる、これまた未完成に終わった「美しき村のクラウディーネ」からのアリア、宗教劇「ラザロ」からのアリアに、後期に属する歌劇「フィエラブラス」のアリア。ブラームスやレーガーによる、シューベルトの歌曲の管弦楽への編曲が無用に思われるほど、清新な歌の魅力に満ちている。むろんオーケストレーション自体は実に素朴で、そのことが巧まずしてメロディの美しさを際立たせているのかもしれない。とりわけ初期の作品についてそのことが言えるだろう。テノールのシャーデは、かなり余裕をもって歌っていたが、その澄んだ、過剰にドラマティックになることのない声は、これらの作品にふさわしいものだった。

最後に演奏されたのは、ロ短調の「未完成」交響曲。最初の低弦による主題の提示から、はっとさせられる驚きに満ちているが、驚きをもたらす意匠はどこまでも、スコアに内在するダイナミズムを引き出すものであった。木管のメロディを伴奏するさざめくようなヴァイオリンの動きにも、印刷されていないデュナーミクが加えられているが、それは徹頭徹尾メロディの自然なフレージングに寄り添っている。チェロが歌う第二主題は、これ以上は不可能と思えるような静けさにまで研ぎ澄まされていた。まるで透明な絹糸が張り渡されてゆくかのよう。それに続いてトゥッティで深いため息が奏でられる前にも充分な間がとられているあたりも好ましい。展開部の厳しさも恐ろしいまでに突きつめられている。

第二楽章においてアーノンクールは、一般的な解釈のように、安らぎに満ちた歌を完結させることなく、厳しい打ちこみによって断ち切りながら、天上的な静けさと激情とが交錯するドラマを繰り広げていた。だからこそ、安らぎに満ちた静けさが際立ってくる。ホルンと木管(とくにフルート)に今ひとつの静けさを求めたいところもあったものの、弦楽器のシンコペーションに乗って歌われるメロディの美しさは、稀に見るものだろう。それを静かに歌わせた後、最後の音を、深い渇望を叫ぶかのように鳴り響かせたのは今までに耳にしたことのない解釈。とは言え、それが曲の最後の和音をさらに遠くへ運ぶことにつながっていたように思う。アーノンクールとベルリン・フィルの演奏は、スコア全体をくまなく掌中に収めながら、その美しさも、崇高な厳しさも余すところなく引き出したものと言えるだろう。

 

■爽快な、あまりにも爽快な──サイモン・ラトル指揮によるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のジルヴェスター・コンサート

[2004年12月29日/フィルハーモニー]

フィルハーモニーで、サイモン・ラトルの指揮するベルリン・フィルの演奏会を聴く。ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番に、オルフのカルミナ・ブラーナというプログラム。ベートーヴェンでは、全体的にやや速めのテンポのなかで、小気味よいくらいに細かなスフォルツァンドや掛け合いが強調されていた。ベルリン・フィルの各メンバーの力演もあって、力強さにも欠けていない。アレグロの主部では、若々しい推進力をもって音楽が運ばれるなか、粒のそろったリズムが沸き立って、爽快なまでに見通しのよいクライマックスが形成されていた。他方で、静かな部分の美しさにも、目を見張るべきものがある。とりわけ序奏の途中で澄んだピアニッシモの響きがさっと拡がった瞬間には、思わずはっとさせられた。プレストのコーダでは、粒ぞろいのリズムの躍動が極点に達していた。ラトルの解釈は、現代のオーケストラの機能を最大限に生かしながら、ベートーヴェンの音楽に内在する生命力を引き出そうとするものと言えよう。

たしかに、リズムの躍動という点に関しては、これ以上はないと思われるほど洗練された仕方で再現されていた。スコアに内在するリズミックな呼応関係を見抜くラトルの読みは、この点ではきわめて鋭いと言わなければならない。しかしながら、リズミックな動きに乗って歌い出されるべき、人間の感情や思考が十分に表現されていたかと言うと、この点については疑念を抑えることができない。後に「フィデリオ」となるオペラのために書かれたこの序曲からはやはり、不正義への怒り、囚われた者の苦悩、解放への期待、救済の喜びといったものが、抑えようのない叫びともつかない歌となって響いてこなければならないのではないだろうか。そう考えると、この日の演奏はいささかもの足りないと言わざるをえない。

オルフの作品でも、現代のオーケストラの機能を最大限に生かしつつ、スコアに内在する生命力を引き出そうとするラトルのアプローチが、心を沸き立たせるような音楽のリズミックな躍動に結びついていた。ベルリン放送合唱団とベルリン大聖堂少年合唱団のすぐれた歌唱とも相まって、この日のカルミナ・ブラーナは、実に爽快な演奏に仕上がっていたと言えよう。ラトルはこの作品を暗譜で指揮していたが、曲を完全に手中に収めているようで、テンポの動きも実に自在。そのため同じリズムの動きが執拗に繰り返されても飽きることがない。とりわけ、「Temps est iocundum」で何度も繰り返されるアッチェレランドは、変化に富んでいて面白かった。また、「O fortuna」をはじめとして、フォルティッシモのトゥッティの迫力も凄まじい。それでも響きが割れることがないのは、オーケストラのアンサンブル力とラトルの統率力の相乗効果によるものだろう。オーケストラの音量が大きすぎて、合唱がかき消される瞬間があったのはいささか残念。

歌手陣のなかでは、バリトンのクリスティアン・ゲルハーエルが瞠目すべき出来。裏声も駆使して、中世の若者の恋心を表情豊かに、また確かな説得力をもって歌い上げていた。ソプラノのサリー・マシューズも美しい高音を聴かせてくれたが、テノールのローレンス・ブラウンリーはやや苦しい感じ。それにしても、この日のカルミナ・ブラーナの演奏、躍動感に満ち、各曲のクライマックスもぴたりと決まって実に爽快だったのだけれども、あまりにも爽快すぎたのではないだろうか。オルフは、中世の世俗の歌のうちに起源の生命とでも言うべきものを見て取り、それを同時代のオーケストレーションで甦らせようとした。オルフが取り上げなかった「カルミナ・ブラーナ」の詩を見ればわかるように、この世俗の歌のうちには、猥雑な歌ともなって現われる暗い欲動がうごめいている。それをナチスが支配する1930年代という時代に、集団的な生命の原風景を映し出すものとして甦らせることの問題性もまた、徹底されたかたちで再び突きつけられなければならなかったのではないだろうか。ラトルの解釈は、音楽的にあまりにも洗練されているために、聴き手を、一切の思考を奪う多幸症に陥らせかないように思われる。

東南アジアの地震と津波の犠牲者を悼むラトルのメッセージがあった後、平和で幸せに満ちた新年を願って、ヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」がアンコールとして、大編成オーケストラ版(ユージン・グーセンス版)で演奏された。このあまりにも爽快で、やや多幸症的な演奏会にふさわしい締めくくりだったかもしれない。

 

■エリアフ・インバル指揮ベルリン交響楽団演奏会

[2005年2月11日/コンツェルトハウス]

2月11日の夜、コンツェルトハウスへベルリン交響楽団の演奏会を聴きに行く。エリアフ・インバルの指揮で、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲に、マーラーの第5交響曲というプログラム。メンデルスゾーンでは、川久保賜紀がヴァイオリンを弾いたが、前に広島で聴いたときと同様、音楽性の貧困さが目立つ。音そのものにも魅力が乏しく、聴いていて実に息苦しい。冒頭など、テンポも遅すぎて、鈍重ですらあった。第1楽章のカデンツァや第3楽章の後半は、それなりに聴かせるものがあったが、全体としては、実に窮屈な音楽。テクニック的には、ほとんど申し分がないのだが、その技術をもっていったい何を表現したいのだろう。このファンタジーと情熱の欠片もない独奏に比べて、オーケストラは実に魅力的、重心の低い渋い響きで、深みのある音楽の流れを形成していた。ファゴットとクラリネットのハーモニーなど実に暖かい。

休憩の後のマーラーの第5交響曲の演奏は、これまで実演に接したなかで最高の演奏だったと言えよう。インバルの解釈は、マーラーがスコアに込めた、心象風景とも言うべき風景と共鳴しあう感情のダイナミズムを鋭く抉り出すもので、テンポの動かし方といい、クライマックスへ向けた音楽の運びといい、あるいは響きのバランスの取りかたといい、マーラーの音楽と実によくマッチしている。とりわけアゴーギグは、以前のフランクフルト放送交響楽団との演奏よりもずっと自由になっており、そのぶん音楽全体のスケールもより拡がっていた。そうしたインバルの解釈が、ベルリン交響楽団の重い響きと結びついて、この嬰ハ短調の交響曲にふさわしい、胸を引き裂くような苦い音が引き出されていた。第1楽章の葬送行進曲が、これほど重く、苦く響いたことがあっただろうか。

それに続く、マーラーが「嵐のように運動して」と要求した第2楽章は、舞台上でほんとうに嵐が吹きすさぶようですらあった。第3楽章の長いスケルツォの演奏は、スコアを完全に手中に収めたインバルの解釈の奥行きが示すものと言えようか。自在なテンポの動きをもって、マーラーの心象風景を、苦い思い出として、また深い奥行きをもった光景として次々と繰り広げ、まったく飽きさせない。ワルツの細やかな表現も特筆されよう。第4楽章のアダージェットは、この演奏が、言わば男のマーラーを描き出すものであることを示していた。通常聴かせられる甘いセンチメンタリズムなど微塵も感じさせることなく、緊張感に満ちた静けさのなかから胸を締めつけるように感情が沸き立ち、波打つさまが、途切れることのない一つの音楽として描かれていた。アタッカで始められるロンドのフィナーレでは、各セクションの複雑な動きが、一つの流れに見事に統合されていた。コーダの追い込みの加速は、これ以上はありえないと思われるほど凄まじいものだった。それに最後までついて行ったオーケストラの力演は、これまたほかではなかなか聴けないものだろう。1月にひどいモーツァルトを聴かせたときとは別のオーケストラが演奏しているようだった。

たしかに、ベルリン・フィルのような、弦楽器の各セクションがあたかも1つの楽器で弾いているかのような響きのまとまりはないものの、一人ひとりの奏者が、一つの音楽へ向けて、極端さも怖れることなく一音一音に賭ける態度が、マーラーに相応しい、人間の歴史を蝕んでゆく自然と共鳴しあうような響きに結びついていた。昨年の10月に聴いた、ラトルとベルリン・フィルによる同じ作品の演奏よりもはるかに深い感銘を残す演奏だった。

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