Tremolo Angelos「ホシハ チカニ オドル──Dialogues in the Dark 2011」公演に触れて

[2011年2月21日/カフェ・テアトロ・アビエルト]

身体表現者大槻オサムとヴァイオリニスト谷本仰が結成したパフォーマンス・ユニットとも言うべきTremolo Angelosの公演「ホシハ チカニ オドル──Dialogues in the Dark 2011」に接することができた。人工の太陽とも言うべき核エネルギーが発する放射能によって命を奪われた死者をはじめとする、理不尽に死に追いやられたばかりか、歴史から消し去られ、忘却の淵へと葬り去れた死者たちの声を聴き出し、響き出させ、闇のなかに輝かせるとともに、その星座から、この死者たちを抹殺していくのとは別の物語を紡ぎ出させようという試みという。二人の戦慄する天使たちの戦きのなかから、小田実の言う「難死」を強いられた者たちの声の谺がどのように響いてくるのか、期待を胸に会場へ赴いた。

会場のカフェ・テアトロ・アビエルトの内部は、あちこちに写真が掲げてあったり、ノートパソコンのディスプレイ上でビデオクリップや写真のスライドショーが流れていたりといった具合に、それ自体が一つのインスタレーションのように構成されている。そこに映し出されているのは、チェルノブイリや旧ユーゴスラヴィア、あるいはイラクやガザで、放射能や軍事力によって理不尽な死を強いられた人たちの記憶であったり、沖縄の高江や山口の祝島で、軍隊と資本の暴力に抗して命をつなぐ闘いを続けている人々の記録であったりする。それらのイメージが発する光が闇に包まれて、公演が始まった。

舞台は、「闇」、「身」、「光」の三つの場で構成されており、最初の「闇」は、一部には「日本の原子力開発の歴史の汚点」とも評される東海村の事故が穿つ「歴史」の闇を見据え、そのなかから事故の犠牲となった死者の声を響き出させるもの。家族に語りかける優しい語り口のなかから、この「歴史」の欺瞞とともに、放射能によって生命体、ないしは有機体としての再生力をもった組成がずたずたにされていくことへの恐怖が抉り出されてくる。その犠牲者が幻視する天使のような白い形姿──人工の太陽を直視した際に網膜に焼き付いたのだろうか──のたゆたうような舞いも胸を締めつける。

「身」と題された次の場には、ニガヨモギ、すなわちチェルノブイリの森の精が登場する。「身」という文字は、命を抱く身体、とくに妊娠した女性の身体を象徴しているとのことであるが、この森の精の最初の身振りは、死者たちの命の痕跡をかき集めようとするかのようだ。そのような、これまた一人の天使のような精が、分厚いコンクリートの「石棺」のなかに封じ込められた、チェルノブイリ原子力発電所の事故の犠牲者と対話を繰り広げる。その傍らに、化石化した人の顔のような仮面が置かれているのが印象的。その顔に森の精が親しみを込めて語りかける。すると死者の声が聞こえてくるのだ。死者が目覚め、語り残したことを、顔を通して森に響かせる──「人格」を意味するpersonという英語の語は、仮面劇の仮面を意味するラテン語のpersonaを語源としており、その語はさらに「それを通して (per) 」あるものが「響く (sonare) 」ことを意味する──のである。その死者の言葉の一つに、森と一つになりたいという希望を表明するものがあった。森の精によると、その可能性は、劣化したコンクリートの亀裂としてすでに開かれているという。そのひび割れから骨片の一つでも土に落ち、そこから草が生えるなら、その希望は成就するのである。

事故後のチェルノブイリで植物が自生し、森をなすまでになっていること自体に希望を見る向きがあるようだが、私はそれは違うと思う。そこにあるのは、コンクリートの棺が皮肉な仕方で象徴するように、不朽であろうとする人間の歴史的な営為に、仮借なく腐敗と衰滅をもたらす、自然の生命の営みにほかならない。それが穿つ歴史の亀裂から、核という人工の太陽を生み出し、生命を破壊するのとはまったく別の仕方で、自然と関わり合う可能性の光が漏れ出てくるのである。

最後の「光」の場は、エピローグのような短い場だが、非常に強い印象を残す。「大地がぼくらに閉じていく」と始まるマフムード・ダルウィーシュの詩が、谷本と大槻のあいだで応唱のように朗読されたのには、心を打たれた。「大地がぼくらに閉じていく」というのは、東海村の犠牲者が夢に見た閉じていく闇に通じるだろうし、「ぼくらの血がオリーヴを植えるのだ」という詩句は、チェルノブイリの死者の森になりたいという希望に連なる。これまで舞台に蘇った死者の記憶が今、イスラエルの圧倒的な軍事的暴力によって「難死」を強いられたパレスチナ人の記憶と応え合うのだ。やがて、大槻は一人の天使のような姿になって、化石の仮面を慈しむように白い布で包んだ後、羽ばたくように舞台上方へ、名残り惜しげに去っていく。すると、生者と死者の記憶を映す会場の展示の光が少しずつ点っていった。その様子はまさに、闇のなかに星たちが光るかのようであった。そのあいだに一つの星座を見て取るなら、今も無数の「難死」者を生み出し続けている歴史とは別の物語を、紡ぎ出せるかもしれない。「光」という文字は、松明を掲げる人の姿を表わすそうだが、そのような文字を冠した最後の場面は、もう一つの物語の可能性を観る者に語りかけるものだったのかもしれない。

全体を通して、大槻の一つひとつの命への暖かい共感に満ちた身体表現が印象的だった。なかでも、包んだり、かき抱いたりする行為に、慈しみと同時に、遭遇した個としての命を、どこまでも引き受けて生きようとする身振りを見て取ったとき、感動を覚えずにはいられなかった。そこに、イトー・ターリが2009年の冬に広島の原爆ドームの前で見せた身体表現に通じるものを感じたのは、おそらく私だけではなかっただろう。さらに、最後に登場する天使の羽には、星たちが抱かれている。ヴァルター・ベンヤミンが語る「歴史の天使」の羽根が進歩の強風に煽られて、未来へと後ずさりさせられるのに対して、ここに降り立った天使は、無数の命をかき抱いて未来を開こうとするのだ。そのような天使を現出させるに至る大槻の身体表現に呼応する谷本のヴァイオリンも、表現の振幅が大きく、舞台上の世界に奥行きをもたらしていた。電気的な効果を駆使して、激しいリズムや放射能の威力を表現する凄まじいノイズを音にするところも印象的だったが、何よりも心を打ったのは、やや抑えた表現で切々と歌われた哀切な歌である。大槻と谷本の二人の戦慄する天使は、それ自体が応唱によって構成された一つの歌のような舞台に結実する身体的表現の振動のなかから、死者たちの声の谺を歴史の闇のなかに響き出させ、星座のように応え合わせる可能性を、力強く示していたように思う。「ホシハ チカニ オドル」の舞台は、ベンヤミンが述べるように、「敵は勝つことを止めていない」、また「死者たちまでもが安全ではない」今ここの状況において、「難死」した死者たちの一人ひとりと応え合うなかから、「難死」の歴史とは別の物語を紡ぎ、もう一つの世界を想像し、創造する糸口が、歴史の闇のなかに萌していることを、暗示していたのではないだろうか。

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