2012年の演奏会などを振り返って

広島は雪の大晦日となりました。今年も数多くの魂を揺さぶる、そして音楽や舞台芸術そのものの可能性を考えさせる素晴らしい演奏会やオペラなどの公演に接することができ、本当に嬉しかったです。さらに、そのお手伝いをさせていただく機会もいただいて、非常に勉強になりました。別の記事にも書きましたように、今年は何かと忙しく、私なりに演奏をどのように受け止めたかを、落ち着いて文章にまとめる時間をなかなか取れませんでしたので、批評と呼べるようなものは、実はほとんど書けなかったのですが、かろうじてFacebookの私のウォールに、比較的──あくまで比較的ですが──まとまったかたちで記すことのできた演奏会などの印象を、必要最小限の修正を加えたうえで以下に再掲しておきます。

それ以外でも、とくに10月27日にサントリーホールで行なわれた読売日本交響楽団の第519回定期演奏会における細川俊夫さんの「ヒロシマ・声なき声」の演奏は、本当に素晴らしいものでした。指揮のシルヴァン・カンブルランの音楽の運びも、響きの設計も完璧だったと思います。舞台上のオーケストラと合唱、そして客席のバンダとが一体になって、聴き手を出来事の渦中に巻き込み、そして海の底に沈んだ死者たちの記憶が甦る瞬間に立ち会わせていたように感じました。出来事のただなかから証言することは不可能だとしばしば言われますが、この現実には不可能なことの音楽における可能性を垣間見せる瞬間が、何度か訪れたように思います。それから、とくに最終楽章でのクライマックスの構築には、心打たれるほかありませんでした。広島の犠牲者や震災の犠牲者のことが、ぐっと込み上げてくる思いでした。藤井美雪さんの独唱も素晴らしかったです。生命への強い意志を感じる歌でした。ひろしまオペラルネッサンス合唱団の集中力も特筆されるべきでしょう。メンバーが若返った読響が共感をもって音楽に取り組んでいたのも印象的でした。この演奏会を、今年のベストに挙げている音楽評論家もいるようです。

それから、11月8日に広島市のアステールプラザ・オーケストラ等練習場で行なわれたHiroshima Happy New Earの第13回目の演奏会では、ジャック弦楽四重奏団の演奏の精密度と音楽性目を見張らされました。ヘルムート・ラッヘンマンの弦楽四重奏曲第2番「精霊の舞い」では、あらゆる特殊奏法の音色や響きの違いが明確に分節されるなかから、無数のモティーフが提示され、それが有機的に発展していくさまに、完全に引き込まれました。そして、その末にやって来るパウゼの強度も凄まじいものがあったと思います。サルヴァトーレ・シャリーノの弦楽四重奏曲第7番に吹き渡る独特の風も、三浦則子さんの作品「みみをすます」で貫かれる、一つの音のなかから無限に開かれていく耳も、細川俊夫さんの「開花」における、土中の蠢きのなかから月下に咲く花も、きわめて精細に、かつ音楽的に表現されていたと思います。何よりも驚かされたのは、この四重奏団の音色に対する非常に繊細な感覚です。緊密なアンサンブルをもって作品に献身する姿勢も素晴らしいと思いました。今後が非常に楽しみな弦楽四重奏団に出会うことができました。

もう一つ特筆しなければならないのは、12月1日と2日に同じアステールプラザの大ホールで行なわれた、ひろしまオペラルネッサンスのモーツァルト『魔笛』の公演のことです。松下京介さんの指揮と岩田達宗さんの演出の下、モーツァルトとシカネーダーが書いたもののありのままの姿(日本語で語られた台詞もシカネーダーの台本に内容的に非常に忠実でした)に真正面から取り組み、そこに込められた、人間がまさに「人間」として人と人のあいだに生きることの苦しみと喜びを、とても温かい音楽として響かせる舞台となりました。『魔笛』のスコアに結晶しているモーツァルトの音楽と同様に、一切の無駄を排した、引き締まった造形美をもった舞台の上に、しばしば平板になりがちな登場人物たちが、奥行きのある、そして血の通った「人間」として、しっかりとした存在感をもって浮き彫りになっていたように思います。そのなかから、簡素でありながら無限の機微を湛えた晩年のモーツァルトの歌が響いてきたのには、感動しないわけにはいきませんでした。課題も含めて今回の公演で得たことを糧に、今舞台に載せられるべき新しいオペラを広島から創っていくのに、これからも微力を尽くしていければとあらためて思いました。

 

■Hiroshima Happy New Ear Opera I 細川俊夫『班女』(2日目)

[2012年1月22日/広島市アステールプラザ中ホール]

1月22日、細川俊夫さんのオペラ『班女』の二日目の公演がアステールプラザ中ホールの能舞台を使って行なわれました。400名を越える来場者があったようで、満席に近い印象だったのが嬉しかったです。20日の初日にも増して素晴らしい舞台となったのも、多くがアフター・トークまで参加されるほど熱心な聴衆あってのことでしょう。

さて、その日の公演の印象を申しますと、初日の緊張からいくぶん解放されて、歌手の声に伸びと表現の幅が付け加わるとともに、オーケストラがよく鳴るようになってきたので、細川さんが書いた音楽の細かなテクスチュアがいっそう明瞭に浮き立つとともに、それが舞台上の登場人物の微妙な表情の変化、またそこに凝縮される激しい情動と緊密に絡み合っていたと思いました。とくに歌とオーケストラの各楽器がよく響き合っていて、声が楽器の響きによって、陰影に富んだ仕方で増幅されていたのが心に残ります。そればかりでなく、自然な意味深さを増した動きから、音楽と言葉の力がまっすぐに伝わってきました。

とくに、世の男の骸のような顔を見透かすまでに研ぎ澄まされた花子の美しさ、そして待ち焦がれるなかで現実の男を超越するまでに深まったその愛の強さには、胸を打たれるほかありませんでした。とくにそれが恐ろしいまでの表現の振幅をもった歌として表われていたのは、忘れることができません。そこに、今年5月に日本初演を迎えるオラトリオ「星のない夜」の天使の叫びを予兆させるものも聴く思いがしたところです。

また、「宝石」のように純化された美を追求する実子が、花子を奪われるかもしれないと感じた瞬間の動揺の深さも、今日の舞台では実に印象深かったです。それと対照的な微笑みの深さが声の深さと結びつく最後の場面の歌唱にも胸を揺さぶる力がありました。そんな実子と吉雄の争いにも奥行きがあったように思います。実子の弱みを握ったかに思った吉雄の声と表情には、ぎらりとした凄みがありました。

このように、『班女』という作品の美質がいかんなく発揮される上演に立ち会えたことを幸福に思っています。そこには、演劇と音楽の協働によるオペラの新たな可能性が示されていたのではないでしょうか。平田オリザさんと細川さん、それに半田美和子さん、藤井美雪さん、小島克正さんという三人の素晴らしい歌手による、初めての日本からのプロダクションによる上演が、これから日本各地で、いや世界各地で実現することを心から願っているところです。

 

■Hiroshima Happy New Ear XI

[2012年5月13日/広島市アステールプラザ・オーケストラ等練習場]

「竪琴の造形、未知の小宇宙」をテーマに行なわれたHiroshima Happy New Earの第11回目の演奏会、何と満員札止めの大盛況でした。満場の聴衆で、ハープの吉野直子さんと笙の宮田まゆみさんという素晴らしい音楽家をお迎えし、充実した内容の演奏に耳を傾けられたこと、本当に嬉しいと思います。この日は最初のドビュッシーの「月の光」の最初の音から、香気が立ち上るのに思わず引き込まれました。聴覚のなかで同時に視覚や嗅覚が喚起される共感覚的な知覚に訴えるドビュッシーの音楽の新しさにも、ハープによる演奏をつうじて眼が開かれた気がします。武満徹の「スタンザII」では、彼ならではの歌のなかから生まれる豊饒な響きが、テープから流れるもう一つの世界の響きと呼応し合いながら解き放たれていくのに身を委せることができましたし、ハインツ・ホリガーの「ヨハネ福音書によるセクエンツァ」では、聖書の言葉から喚起される音が緊密に連なるさまを目の当たりにすることができました。

音楽監督の細川俊夫さんの「うつろひ」では、宮田まゆみさんの笙によってひと筋の歩みが貫かれるなか、それとハープが呼応し合うなかに、日の移ろい、そのなかにある「かぎろひ」、あるいは光の揺らめきなどを豊かに感じとることができたところです。同じ細川さんの「恋歌I」では、ハープの伴奏によって燃えるような恋心がいっそう掻き立てられるなか、歌で表現されえないものまでが歌唱のなかで表現されていたように思われましたが、実際ソプラノの平松英子さんは、母音の発声など、陰影が加わるよう新たに工夫されたとのこと。素晴らしい探求心と思います。細川さんの「ゲジーネ」では、沈黙のなかから発せられる一つの深い音のなかから一つの音楽が歌い出される、細川さんの音楽そのものの凝縮された表現を聴く思いでした。

 

■コンポージアム2012「細川俊夫の音楽」

[2012年5月24日/東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル]

5月24日、細川俊夫さんの最近の規模の大きな作品2作の日本初演に笙の曲を組み合わせた、コンポージアム2012の「細川俊夫の音楽」を聴かせていただきました。前半に管弦楽のための「夢を織る」の前に演奏された「光に満ちた息のように」、また後半に「星のない夜」の前に演奏された「さくら」がいずれも、それに続く作品と通底する響きを含んでいるように思われ、良い導入として聴くことができました。とくに響きにそこはかとない翳りがある「さくら」は、ドレスデン空襲と広島への原爆投下の死者たちへの哀悼を用意するかのようにさえ思われました。凛とした存在感を保ちながら静かに立ち上る宮田まゆみさんの笙の音は素晴らしかったです。

前半の「夢を織る」は、ひと筋の息から展開される音楽の可能性を追求する細川さんの作曲理念が、最も豊かに開花した作品の一つとして聴くことができました。生命の豊饒さとその鼓動に包まれることの深い幸福感に満ちた音楽でした。それとはいくぶん対照的に、季節の巡りのなかに人間の手による凄惨な暴力と破壊の記憶を刻み込んだ「星のない夜」は、自然の恐ろしいまでの底知れなさを暗示する「冬に」の楽章から始まります。寒風を表現していた合唱がトラークルの詩句を囁き始めると、眼前に荒野が広がるようでした。東京音楽大学の合唱団は、振幅の大きな表現と緊密なアンサンブルで、作品に相応しい奥行きのある響きを織りなしていたように思います。とくに「夏」の楽章における歌と囁きの対照は見事でした。

「春に」の楽章におけるソプラノとアルトの重唱では、藤村実穂子さんの安定した低声に乗った半田美和子さんの伸びやかな声が、トラークルの詩の夢幻のような色彩感を伝えていました。そして半田さんの声は、この作品で時間が断ち切られる瞬間を現出させる「天使の歌」の楽章で、怒れる天使となって、過去を忘れて過ちを繰り返す人類に対して警告を発することになります。舞台上と客席に配されたトランペットと一体となって屹立する天使の声は、作品が求める強度に見事に応えるもので、胸を衝かれるほかありませんでした。また、広島の子どもの詩を歌う藤村さんの深い声は、言葉を失うまでの悲しみと恐怖を切々と伝えるもので、これも深い感銘を残しました。

「浄められた秋」の楽章で、管弦楽と合唱が一体となった豊饒な響きが静寂へ沈みゆく際、それまでの8つの楽章の詩と音楽が反芻されたのは私だけでしょうか。作品を手中に収め、早めのテンポで一つの流れを作った準メルクルの指揮するNHK交響楽団も、その技術を余すところなく発揮して、「星のない夜」という作品が、3度目の演奏にして初めてその全貌を明らかにしたようにさえ思えました。

ドレスデンの空襲が想起される楽章では、自分の翻訳でナレーションが読まれるので少し緊張しましたが、何とか耳で聞いて伝わる印象だったのでほっとしたところです。二人のナレーターも、語りを音楽に見事にシンクロさせていました。ドレスデン空襲の体験者の証言にもとづくナレーションの翻訳とともに、ゲオルク・トラークルとゲルショム・ショーレムの詩による歌詞の翻訳と、ラインハルト・マイヤー=カルクスさんによる作品解説の翻訳とを、今回担当させてもらいましたが、そのようなかたちで、「星のない夜」という、今こそ聴かれるべき重要な作品を日本の聴衆に届けるささやかなお手伝いをさせていただいたことを心から光栄に思います。

 

■Hiroshima Happy New Ear XII

[2012年9月18日/広島市アステールプラザ・オーケストラ等練習場]

Hiroshima Happy New Earの第12回目の演奏会として行なわれたアルディッティ弦楽四重奏団の演奏会は、期待にたがわぬ素晴らしいものでした。クセナキスのテトラスで聴かせた音の凝縮されたエネルギーは、この四重奏団の緊密なアンサンブルでしか出せないものでしょう。アリストテレスに因んで言えばきわめて質料的な音の素材が、おのずから発展し、凄まじい生命力を発揮していました。同時にそれが緻密な論理にもとづいていることを、きわめて解像度の高い響きで聴かせる点も、この四重奏団の凄いところと思います。他方でその合間に聴かせる静けさの深さは恐ろしいほどでした。とくに最初に演奏されたリゲティの弦楽四重奏曲第2番の演奏での静かな響きには、深淵に吸い込まれそうな思いがしたところです。そして、その静けさから湧き上がる音の運動は、リゲティが影響を受けたバルトークの作品(とくに第4番の四重奏曲)以上に、飼い馴らされていない自然の蠢きを感じさせました。

細川俊夫の「沈黙の花」の演奏は、この作品が傑作であることを申し分なく伝える密度の濃い演奏でした。力強く打ち込まれた音が命の花を空間に開きながら、やがて消え去っていくさまが、驚くべき振幅をもって、かつ緻密に表現されていました。垂直的に打ち込まれ、空間に線を描いていく動きがだんだんと静まって消え去っていく、命の儚さを感じさせる曲の推移には、マーラーの交響曲第9番の最終楽章を、ふと思い出したところです。日本初演となった「書」は六つの短い曲から成る作品でしたが、とくに最後の二つの曲における息の長い歌が印象的でした。書においては擦れや滲みをなすような動きが、歌う息遣いと深い感情の共鳴として響いていたように思います。なお、最後の曲は「班女」のなかの花子のアリアを素材にしているとのことです。この四重奏団が、弦楽四重奏の伝統を背景に、弦楽四重奏と新しい音楽の可能性をどのように切り開いていくのか、これからも注視していきたいと思います。

 

■東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第264回定期演奏会

[2012年12月14日/東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル]

12月14日、東京オペラシティのコンサートホールで、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期演奏会を聴きました。このオーケストラの演奏を聴くのは実に久しぶりで、たしか同じ会場でメシアンのトゥーランガリラ交響曲を聴いて以来だと思います。下野竜也さんの指揮で、ハイドンとモーツァルトの、いずれも第28番の交響曲に、シェーンベルクのピアノ協奏曲とベルクの「ルル」組曲という非常に意欲的なプログラム。ヴィーン生まれの音楽が大きく変貌するさまを体感することができます。

なかでも見事だったのが「ルル」組曲(歌劇「ルル」による5つの交響的小品)で、下野さんは、その膨大な情報量をもったスコアから内容豊かな音楽の連関を、かつ非常に振幅の大きな表現とともに引き出していました。甘美で繊細なモティーフの絡み合いがぎらりとした光を放つ響きまで発展するのには惹きつけられます。第3曲では、半田美和子さんが素晴らしい「ルルの歌」を聴かせくれました。静かな声がオーケストラの響きとよく溶け合うなかから歌が徐々に熱を帯び、ルルが「ありのままの」自分を声として剝き出しにするに至るまでの歌の高まりは圧巻で、心からの感動を覚えたところです。声が澄んでいるだけに、言葉とともに歌が翳を帯びるときには、深淵を目の当たりにする思いがします。第5曲のゲシュヴィッツの歌も魅力的でした。

もう一曲、シェーンベルクのピアノ協奏曲も名演奏で、ピアノ独奏を務めた野田清隆さんも下野さんも、曲を完全に自分のものにしているのがとてもよく伝わってくる説得的な演奏でした。オーケストラの表現意欲に満ちた演奏も特筆されるべきでしょう。モーツァルトとハイドンの演奏も、小気味のよい、かといって軽く流れてしまうことのない、魅力的なものだったと思います。全体に今一歩の正確さとモーツァルトの緩徐楽章にもう少し静かで慈しみに満ちた(ブルーノ・ヴァルターの演奏のような)歌があればという気もしましたが、モーツァルトとハイドンに相応しい様式感と活気に満ちていたのではないでしょうか。できればもう少し多くの方に聴いてもらいたかった演奏です。

 

□付記:半田美和子さんのアルバム『Khôra — Niemandslied』(EXTON)の紹介

尊敬するソプラノ歌手の半田美和子さんが最初のアルバムを作られ、それがこのほどEXTONよりリリースされました。バッハのマタイ受難曲からのアリアから細川俊夫さんのオペラ『班女』からのアリアまで、実に多彩な曲が収められていますが、そのなかで半田さんの清澄な声が無限の色合いを放ちながら、ニュアンスに富んだ、そして静かに心を揺さぶる歌となって響いています。バッハやヘンデルのアリアからは研ぎ澄まされた悲しみが聴こえますし、最後に収められた、細川俊夫さんの編曲による五木の子守歌は、まさにこれを歌っていた若い女性の孤独さや嘆きそのものが静かな歌になっているようで、心からの感動を覚えます。

個人的に素晴らしいと思ったのは、シュテファン・ゲオルゲの詩によるヴェーベルンの五つの歌曲。緊張を湛えた沈黙のなかから静かに声が立ち上り、陰影をもって言葉が響いて、象徴的な詩に込められた微妙な感情の揺れが風景とも共鳴するのが、非常に細やかに表現されています。リゲティのオペラ『ル・グラン・マカーブル』からのアリアでは、人間離れした人物像が崩壊していくなかから、人間存在の根底が鋭く照らし出されるようで、これも本当に凄いです。とにかく最初のリュッケルトの詩によるマーラーの歌曲からして引き込まれてしまいます。そこで「私の歌に生きる」ことの澄みきった境地が確かな意志をもって静かに歌われることは、『班女』の花子のアリアで生きること自体が、狂気をも含んだ深みから肯定されることと対をなして、このアルバムにおいて半田さんの歌が放つ静かな、しかし非常に強い美しさを象徴しているのではないでしょうか。

これほど多彩な曲がどれもこれほど細やかに歌われたアルバムを、私は他に知りません。さらに、リゲティの曲と細川さんの曲がここまでの完成度をもって録音されたことは、画期的なことかと思われます。うたを、うたうことを愛する人すべてに聴いていただきたいアルバムです。ちなみに私は、このアルバムのドイツ語の歌詞の曲の歌詞翻訳を担当させていただきました。素晴らしいアルバムを作るお手伝いをさせていただいて光栄に思います。

それから、アルバムのタイトルのKhôraは、プラトンの『ティマイオス』篇で語られる(デリダなども論じています)、それ自体としては何ものでもない存在の母胎のようなものから採られています。これと関係しますが、サブ・タイトルのNiemandsliedは、パウル・ツェランの詩集『誰でもないものの薔薇 Niemandsrose』の表題から着想を得たものです。半田さんの音楽に対する真摯な姿勢が表われたタイトルでもあります。

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