最近入手した二枚のディスクなど

早いもので、1月も半ばを過ぎました。2012年度後期の講義や演習も徐々に終わりに近づきつつあり、昨日は木曜の講義と演習の最終回でした。今学期、木曜は講義1コマに演習が3コマの合計4コマの授業を抱えていたため、毎週なかなか大変で、とくに昨日は2年生向けの演習で、前日までに添削しておいた論文を、10名ほどの受講者全員に個人指導しながら返却しなければならず(そうでもしないと学生は、論文、ひいては文章を個別に指導してもらったうえで書き直す機会を持てないのです)、骨が折れましたが、それからはひとまず解放されることになります。来年度はもう少しスケジュールが緩くなってほしいものです。

2年生向けの演習と言えば、それを受講している学生の一人が、「ヒロシマ/広島/廣島と出会い直す」ことをテーマとするこの演習の研究の報告の一環として、NHKのアナウンサーとして活躍されている出山知樹さんが、NHK広島時代の2009年にみずから監督された映画『運命の背中』の学内での上映会を催してくれました。その実現に全面的にご協力くださった出山さんには、心から感謝申し上げたいと思います。おかげで私もこの映画を見ることができました。作品は、「原爆一号」としても知られ、広島の原爆被害者の運動にも長く取り組まれていた吉川清さんと妻の生美さんの、被爆を大きな転機とした半生を、吉川清さんの「背中」を焦点にドラマ化した40分の短編で、ケロイドに覆われた背中を取材のカメラの前に曝すまでの葛藤がそのクライマックスをなしています。短い時間では描ききれなかったところもあったかと思いますが、出山さんの温かい眼差しが貫かれていることには好感が持てましたし、完全な自主制作で、かつ非常に限られたロケの時間で、ここまでの完成度に持って来られていることには敬意を表わしたいと思います。英語の字幕も付いていますから、海外から広島を訪れた学生などに見せる機会を設けられたらとも考えました。

さて、こうして慌ただしくしてるあいだに、二枚の素晴らしいディスクに出会うことができました。いずれもかなりマイナーなレーベルから出ているライヴ録音なので、ここでご紹介しておきたいと思います。一枚は、ヴァイオリニストとして、また晩年はとくにザルツブルクのカメラータ・アカデミカの指揮者としても活躍したシャーンドル・ヴェーグ(1912〜97年)が、最晩年にカメラータ・アカデミカを率いて行なった、ブダペストでの演奏会(1993、95年)の録音(BMC CD 194)です。ヴェーグの生誕百周年を記念してリリースされたディスクのようです。ベートーヴェンの「コリオラン」序曲(作品62)、モーツァルトの交響曲第35番ト長調「ハフナー」(K. 385)、ハイドンの交響曲第103番変ホ長調「太鼓連打」(Hob. I: 103)、それにシューベルトの交響曲第8番ハ長調「グレート」(D. 944)の録音が二枚にわたって収められています。

ヴェーグの故郷であるハンガリーでの演奏ということもあってでしょうか、演奏が全体的に、ザルツブルクの演奏には見られない熱気を帯びている感じがしますが、最初の「コリオラン」序曲からして、響きの求心力が際立ちます。厳しく刻まれるリズムが躍動し、それが儚い歌と交錯するなか、コリオランの最期へ向けて音楽が凝縮していくさまには心奪われるほかありません。けっしてスケールの大きさを誇る演奏ではありませんが、ベートーヴェンの音楽そのものの悲劇性をここまで表現しえた演奏は希有でしょう。また、モーツァルトの「ハフナー」交響曲の演奏において特筆されるべきは、緩徐楽章の高雅な愉悦ではないでしょうか。全体的に晴れやかなこの楽章に特徴的な、歌が花開くとでも言えるような瞬間に、外面的な美しさが際立つのではなく、歌うことの喜びが聴き手の心に染み透ってくるのは、ヴェーグの演奏ならではのことと思われます。そして、ハイドンの「太鼓連打」の演奏は非常に厳しいもので、緩徐楽章など葬送行進曲を思わせるような雰囲気で始まりますが、だからこそハイドンの諧謔が音楽として生きてくるのでしょう。二つの交響曲のいずれにおいても、アレグロの楽章で、引き締まったリズムが、音楽の内的必然性に従って躍動し、自然な推進力を産んでいることは、古典的な様式をもった音楽を聴く喜びを存分に味わわせてくれます。

とはいえ、このディスクにおいて何よりも素晴らしいのは、シューベルトの「大ハ長調」交響曲の演奏です。ぐっと引き締まった付点音符の主題のリズムが躍動するなかから、三連符のモティーフが無尽蔵のように次々に湧き立ってくることの愉悦といい、喜びと悲しみのあいだを目まぐるしく往還する、少し鄙びた木管の歌の細やかな節回しといい、第一楽章の主部の演奏は、シューベルトの音楽の充実を表現しきったものと言えるでしょう。第二楽章では、冒頭のバスによる主題の提示からして、歌が生きています。「さすらい人」の歩みを感じさせる歌が徐々に色合いを変えながら高まっていくのと、それを包むような弦楽器の優しい歌が流れていくのとが、ごく自然に入れ替わっていくなかで、伴奏の音形を含めたすべての音が生きているのです。だからこそ、凄まじいクライマックスの後に開かれる静かな空間の奥行きが、恐ろしいまでに深いのでしょう。そのなかから静かに歌い出される旋律の美しいこと。後半の二楽章の演奏も、リズムの躍動のなかから湧き立ち、その上を漂う歌の魅力に溢れていますが、その歌が自然に流れながら色合いを変えていくので、とくにフィナーレでは、反復がやがて期待を呼び起こすようになります。そのようななかで、音楽がクライマックスへ向けて徐々に熱を帯びて高まっていくわけですが、そこにある感興の豊かさは、もしかするとライヴならではのものかもしれません。すでにドイツのカプリッチョ・レーベルから出ている精妙なセッション録音(私はこれがシューベルトの「大ハ長調」交響曲の最高の録音と、今も思っています)と並ぶ、またそれとは異なった魅力に満ちた、ヴェーグのシューベルトの演奏の足跡を刻むライヴ録音と言えるでしょう。できるだけ多くの方に聴いていただきたいと思います。

もう一枚ご紹介したいのは、昨年Hiroshima Happy New Earにも来演したアメリカのジャック弦楽四重奏団のロンドンのウィグモア・ホールにおける演奏会(2011年7月30日)の録音のディスク(WHLive0053)。ジェルジー・リゲティの弦楽四重奏曲第2番、マティアス・ピンチャーの「ヴェールの探求のための習作IV」、ジョン・ケージの弦楽四重奏曲、そしてイアニス・クセナキスの「テトラス」が収められています。現代の弦楽四重奏を代表する曲が収められていて、それだけでも魅力的ですが、演奏の素晴らしさは、それ以上に強調されるべきことでしょう。広島で実演を聴いた際にも思ったことですが、何という演奏の完成度でしょうか。一度限りのライヴとはとても思えないほどです。最初のリゲティの弦楽四重奏曲から、響きに対する鋭敏な感性をもって、絶妙なアンサンブルを繰り広げています。

明らかにバルトークの弦楽四重奏曲第4番を意識して書かれたリゲティの弦楽四重奏曲の演奏において、とくに夜の音楽の静けさは非常に魅力的です、静謐さが支配するなかで、微妙に音色の異なるモティーフが精妙に絡み合っていくさまが完璧に表現されています。だからこそ、野蛮な響きの狂奔が鋭く際立ってくるのです。全体的に、音楽の自然さや野性味よりも響きの洗練が勝った演奏と言えるでしょうが、それはそれで非常に魅力的だと思いました。ピンチャーの作品では、実にさまざまな特殊奏法が駆使されていますが、ジャック弦楽四重奏団は、そのすべての音色を描き分けながらこなして、特殊奏法によって発せられる細かなモティーフを、これも静けさが支配するなかで、非常に多彩に応え合わせていました。そのおかげで、この作品も面白く聴くことができました。

しかし、このディスクにおいて圧巻だったのは、クセナキスの「テトラス」の演奏です。蠕動するようなモティーフが凄まじい速度で疾走するまでに高まったのが、駒の向こう側を強く擦る特殊奏法によって中断され、その中断そのものが新たな音楽の高まりを産み出していく、目眩くような音楽の展開が、これも完璧に表現されています。全体の響きに対する鋭敏な感受性を保ちながら、緊密なアンサンブルを繰り広げるなかからこそ生まれるリズムのディオニュソス的とも言える躍動感や、音楽の速度感には、目を見張るものがあります。ケージの演奏に関しては、もしかしたら好みが分かれるかもしれませんが、チャンス・オペレーションに頼ることなく書かれた彼の弦楽四重奏曲には、ジャック弦楽四重奏団がしたように、楽譜に描かれているものを鋭敏に描ききることによって聴こえてくる魅力があるのも確かだと感じました。総じて、このディスクにおけるジャック弦楽四重奏団の演奏は、現代の弦楽四重奏曲の魅力を、最高度に洗練された演奏で伝えるもので、現代音楽に関心のある方すべてに、そしてこれから現代音楽に初めて触れるという方にもお薦めできると思います。

もう一つ、私自身の活動としてご報告しておきたいことがあります。昨年12月1日と2日に広島市のアステールプラザで行なわれたひろしまオペラルネッサンスのモーツァルト『魔笛』の公演の報告記事を、公演の写真付きで『音楽現代』誌の最新号(2013年2月号)に掲載していただきました。葛藤を抱えた人間そのものへの透徹した眼差しに貫かれたオペラとして『魔笛』を照らし出し、音楽に寄り添いながら人物像を深く掘り下げた舞台として、ご紹介させていただきました。紙幅の関係で目配りの利かなかった点が多々あろうかと思いますが、広島の『魔笛』の魅力を少しでも伝えるよう努めたつもりです。ご関心のある方にご一読いただければ幸いです。

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香月泰男美術館を訪れて

 

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あけましておめでとうございます。2013年がみなさんにとって平和で幸せに満ちた年になりますように。今年も変わらぬご指導のほどよろしくお願いいたします。

さて、ここのところ恒例となっている正月休みの家族旅行で、今年は山口県の三隅を訪れました。山あいのとても静かなところで、三隅川沿いを散歩してみたところ、とても気持ちがよかったです。到着した夕方は、幸い寒さはさほどでもありませんでした。

三隅では、以前から一度行ってみたいと思っていた香月泰男美術館を訪れることができました。2005年にひろしま美術館で行なわれた香月泰男の展覧会を見て以来、シベリア抑留から帰還したこの画家に関心があるのです。とくに、抑留時代の強制労働とその苦悩を、切り詰められた色遣いで厳しく抉り出しながら、シベリアの地に斃れた人々に顔を返し与えようとするかのような「シベリア・シリーズ」の絵には、強烈な印象を受けました。このシリーズの主要作品は、山口県立美術館に所蔵されているようですが、香月泰男美術館でも少数ながら、「シベリア・シリーズ」の原画を見ることができました。

なかでも1959年の「運ぶ人」は、強制された労働のなかで人間の身体がどのように変貌するかを、凝縮された表現で物語っていました。「シベリア・シリーズ」の各作品には画家自身による短いテクストが添えられています──この点も、このシリーズについて考察する際に忘れられてはならないでしょう──が、この作品に添えられたテクストには、もはや人が麻袋を運んでいるのではなく、麻袋が人に運ばせているかのようで、このとき人間は限りなく運搬機械に近いという趣旨の文章がありました。土色の地に黒だけのこの絵に描かれた「運ぶ人」の人影は、麻袋と癒合して一個の物と化しているかのようです。それを見るとき、物としての人がただひたすら規則的に運ぶ歩みを刻むことを、その虚しさを思わざるをえません。しかし、たとえそれがいかに虚しいとしても、そのリズムから外れてしまうことは、そのまま死を意味するのです。そのような苛酷な現実も、「運ぶ人」の絵は静かに語りかけています。

今回訪問した際、美術館では、「くらし」展ということで、三隅での生活を愛した画家の画業に光が当てられていました。1950年代、香月は「厨房の画家」と呼ばれるほど、食材などをモティーフとしたキッチンや食卓の絵を数多く手がけていて、それが一つの展示室を占めていました。鰈や蛸など、海の幸の絵が比較的多く、そのモティーフが、愛情をもって幾何学的な要素に還元されつつ、器などの形状と面白いリズムを形づくっています。落ち着きと諧謔の双方を孕んだこれらの静物画は、シベリアの極限状況から帰還した画家が、食べて暮らすことを、それを彩る山海の恵みをいかに愛していたか、とても率直に伝えています。と同時に、そこにはシベリアの記憶を、未だまとまった形にできない画家もいるようにも思えます。

今回見た展示でもう一つ興味深かったのは、香月の戦前の初期作品です。この頃から、事物の形を凝視し、それを最小限の要素に還元しつつ、色を削ることによってみずからの表現を磨き始めていることが伝わってきます。雪に覆われた村にわずかな灯が見える風景を描いた彼の最初の入選作「雪降りの山陰風景」(1934年)のちょうど向かいには、絶筆となった「雪の朝」(1974年)が掲げられていました。ほとんど同じような風景を描いたものですが、ほとんど黒で覆われたなかに最小限の白の筆触がある画面にごくわずかに配された金色が、灯の温かさとありがたさを、痛いほど伝えています。この「雪の朝」をはじめとする最晩年の作品の研ぎ澄まされた表現には、打たれるほかありません。

それから、香月泰男美術館には、画家が「おもちゃ」と呼んでしばしば作っていた小彫刻が数多く、とても魅力的に展示されているのも、特筆されるべきことでしょう。身近な空き缶や瓶の栓などを材料にしたものですが、実に表情と動きが豊かです。ここからも、暮らしと人の営み、そこにある自己表現への愛情が伝わってきます。そのいくつかを象ったモニュメントが、美術館の近くの「香月ロード」に置かれていました。冒頭に掲げたのはその一つの写真で、「PEACE」と書かれた太鼓を一生懸命叩いているように見えます。今年はもしかすると、この人形のように懸命に「PEACE」を語りかけなければならない状況に直面することになるのかもしれません。

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