エル・グレコ展と東京の二つのオーケストラの演奏会

先日、東京都美術館で開催されているエル・グレコ展を見ることができました。揺らめく炎のように天へ立ち上る身体が、聖なるものに触れた魂のエクスタシーを伝えるとともに、それに対する激しい憧れを感じさせるエル・グレコ(本名はドメニコス・テオトコプーロス)の絵画。それに、倉敷の大原美術館に展示されている「受胎告知」や、上野の国立西洋美術館に展示されている「十字架のキリスト」などをつうじて、以前から強い魅力を感じていましたが、今回そんなエル・グレコの絵画を、ギリシア時代からトレドでの晩年に至るまで、まとまったかたちで見ることができて、非常に興味深かったです。

「受胎告知」にしても、「十字架のキリスト」にしても、エル・グレコが繰り返し描き続けてきた画題で、今回の展覧会では、同一主題における画風の変遷も辿ることもできます。後者の主題で描かれたものとして、国立西洋美術館所蔵の作品以外に、ロス・アンジェルスのゲッティ美術館所蔵の作品も展示されていて、これが非常に精緻な画風を示していました。十字架上のイエス、そしてその死に対する思いの強さをうかがわせます。もしかすると、誰か近しい人の死をきっかけにして描かれたのかもしれません。

受胎告知の主題で描かれた作品は、かなりの数が展示されていましたが、とくに印象的だったのは1600年頃のティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵の大きな作品です。天から舞い降りて、マリアに神の子の受胎を伝える天使、それをじっと見つめるマリア、その受胎を祝福する天使の奏楽──スピネットのような鍵盤楽器をはじめ、いくつもの楽器が見られます──のあいだに垂直的に広がる空間が見る者の眼差しを引き込みます。おそらく、これが教会の祭壇に置かれているときに下から仰ぎ見たときの印象は圧倒的だったことでしょう。

どうやら、この「受胎告知」をはじめとして、教会の祭壇を飾るために制作されたエル・グレコの作品は、画家であるだけにとどまらない、空間造形家としての彼の側面を示すものでもあるようです。彼は信仰の空間を演出するためにさまざまな工夫を凝らしていたことにも、今回の展覧会では光が当てられていました。一見デフォルメに映る彼の絵の引き伸ばされた身体は、実は見上げたときの錯覚を計算しつつ、プロポーションを保つ工夫でもあるとのこと。とはいえ、そのことを冷静に考慮したとしても、エル・グレコ晩年の大作「無原罪の御宿り」は強烈な印象を残します。肖像画、風景画などの表現技法の粋を集めながら、創造のロゴスの分有としての受胎への祝福を、螺旋を描きながら天へ昇っていく空間のうちに表現しきっているように思えます。何と豊饒な求心性でしょう。

今回の展覧会では、感覚的には不可視である聖なるものを見えるものに変える、エル・グレコの“Visual Poetics”も焦点の一つでしたが、私にとってはそうした象徴的表現以上に、聖なるものを幻視する魂の動きが、人物の眼差しや所作に浮かび上がっているところが魅力的でした。エル・グレコは、そうした人物像の表現を、肖像画をつうじて磨き上げたに違いありません。その点では、パウロや聖フランチェスコに共感を示した作品も印象的でしたが、晩年の「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」は、肖像画として大変な傑作だと思います。こうしたことを考え合わせると、エル・グレコはもしかすると、それ自体としては目に見えない魂の内的なドラマを描き出しながら、それを空間のドラマと結びつけようとしたのかもしれません。

ところで、今回の東京滞在中、エル・グレコ展を訪れた以外に、二つの演奏会を聴くことができました。遅くなりましたが、その印象も少し記しておこうと思います。まず、1月19日(土)の午後には、インゴ・メッツマッハーが指揮する新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を、サントリーホールで聴きました。メッツマッハーの指揮は、彼のハンブルク時代──そのときは、国立歌劇場でプーランクの『カルメル会修道女の対話』の公演を指揮するのと、その翌日に国立フィルハーモニーの演奏会でブラームスの交響曲第2番などを指揮するのとを聴いて、彼のタフさに驚嘆したものでした──とベルリン・ドイツ交響楽団時代──非常に気合いのこもった、壮大なマーラーの第3交響曲の演奏が印象に残っています──に一度ずつ聴いていますが、彼が新日本フィルハーモニーを振るのを聴くのは今回が初めてでした。9月より彼はこのオーケストラのコンダクター・イン・レジデンスに就任して、これまで以上に多くの定期演奏会を指揮することになっているようですが、それが今から楽しみになってくるほど、彼とオーケストラの相性の良さが、響きから伝わってきます。

とくに印象的だったのは、チェロとコントラバスが、メッツマッハーの指揮に敏感に反応しながら積極的にオーケストラを主導していて、それによって重心の低い、かつスケールの大きな響きが構築されていたことです。最初に演奏されたシューベルトの「未完成」交響曲の冒頭で、チェロとコントラバスの音が開く深淵の上をヴァイオリンがさざめき始め、さらにそれに乗って木管が憂いを帯びた旋律を柔らかく歌い始めると、全体の響きが低音からしっかりと積み上げられていることがすぐに伝わってきましたし、同時に転調なども明瞭に伝わってきたのには目を見張らされます。しかも、ピラミッド状に構築された響きは、高い解像度を保ちながら柔軟な運動性も示していて、そのことは、この日の休憩後に演奏されたブルックナーの第9交響曲の構造を、とても新鮮なかたちで浮かび上がらせていたように思います。全体的に、ピアニッシモに対して過剰に神経質になることなく、ピアニッシモが求められる箇所でも、ある程度楽器を鳴らしながら、シューベルトの柔らかな歌が湧き上がったり、あるいはブルックナーの永遠を指し示すかのように清澄な響きが続いたりするのを表現していたことが、好方向に働いていたように感じました。

とはいえ、特筆すべきは、この日の演奏でメッツマッハーが、彼ならではのアプローチで、シューベルトとブルックナーの交響曲の崇高さを、厳しく、かつ清新な作品像を浮き彫りにするような仕方で抉り出していたことです。まず、シューベルトの「未完成」交響曲の演奏では、この曲に内在する悲劇性を、あらためて思い知らされました。とくに第1楽章の展開部では、地の底から這い上がってきた音が崩れ落ちていくかのようでしたし、そのような頂点に至るまで、テンポを上げながら響きが凝縮度を増していく音楽の進行には、息を呑みました。また第2楽章では、冒頭の淡い夕映えのようにたゆたう主題が変奏されて、形相を変えて屹立するのに、圧倒される思いでした。今回の演奏は、この交響曲の、もしかすると作曲者自身の手に余るほどの大きさを、モダン楽器のオーケストラにこそ可能な仕方で描ききった演奏と言えるのではないでしょうか。

このような厳しい表現があるからこそ、柔らかな響きの美しさが際立ちます。「未完成」交響曲の末尾近くの木管楽器のハーモニーは、これまでに聴いたどの実演よりも美しかったです。また、第1楽章の美しい第2主題に関して言えば、提示部が繰り返され、それがもう一度歌われた際に瞠目させられました。旋律の襞がふっと消え入るように響いて、言いようのない儚さを感じさせたのです。メッツマッハーの響きに対する鋭敏な感覚が、旋律の細やかな表現に生きた瞬間でした。

他方で、この日のブルックナーの第9交響曲の演奏は、敢えて喩えるなら、クレンペラーの演奏の峻厳さと、フルトヴェングラーの演奏の雄渾なダイナミズムを兼ね備えた演奏と言えるでしょうか。シューベルトの演奏でも見られたように、メッツマッハーはかなり振幅の大きいアゴーギグを示していましたが、それがけっして不自然ではなく、音楽そのものから発しているように聴こえましたし、また音楽の流動性と、ブルックナーに特徴的なブロックごとの垂直的な構造体の表現とが、見事に両立していたように思います。すべての楽器がなだれ込むようにして奏される第1楽章冒頭のユニゾンの一節をはじめ、巨大な響きの柱が現出する瞬間が何度も訪れましたし、憧れに満ちた歌が連綿と続いていくのも、停滞することなく表現されていたのではないでしょうか。とくに、アダージョの楽章の第2主題は非常に美しかったです。

それから、第1楽章の第2主題から第3主題への移行句が、非常に遅いテンポで演奏されているのを聴きながら、何か異次元に迷い込んだかのような気持ちになったのは私だけでしょうか。今回の演奏においてその一節は、メッツマッハーが容赦なく、恐ろしいまでに引き延ばした不協和音とともに、ブルックナー自身をも超えた世界を指し示していたのかもしれません。ブルックナーの最後の交響曲であると同時に、彼以後の音楽を暗示する作品として、メッツマッハーは、この第9交響曲をきわめて説得的に提示していたと思います。そこには、メッツマッハーの現代音楽の世界での経験──彼はアンサンブル・アンテルコンタンポランのピアニストとして活動を開始しています──と指揮者としての手腕が見事に生きていました。あらためて、メッツマッハーと新日本フィルハーモニーの今後の演奏に注目しなければと思いました。

1月20日(日)には、東京芸術劇場でエリアフ・インバルが指揮する東京都交響楽団の演奏会も聴きました。全席完売で、このコンビの人気の高さがうかがわれます。前半は上野由恵の独奏で、モーツァルトのフルート協奏曲第2番が演奏されました。フルートの澄んだ音色を心地良く聴きました。後半はマーラーの交響曲第5番嬰ハ短調。推進力に富んだ、またインバルの自在なアゴーギグが特徴的な演奏だったと思いますが、それが非常に説得的で、スリリングなまでの加速と、じっくりと歌い上げる表現の両方に生きていました。全体的に彼のさらに自由度と深みを増した解釈の下、振幅の大きい表現で歌い上げられた雄渾な演奏で、たしかに聴き応えがあったのですが、何か物足りないものもないではありません。聴き終えての感銘の大きさは、以前にベルリンのコンツェルトハウスでインバルが指揮するこの曲の演奏を聴いたときのほうが勝ります。

インバルの指揮に機敏に応える東京都交響楽団の演奏が巧みで、明晰なのは良いのですが、その分陰翳に乏しく、第5交響曲の時期のマーラーの響きにとりわけ必要な苦みが足りないように思いました。この組み合わせによるマーラー演奏の特質なのかもしれませんが、葬送行進曲をはじめ、とくに前半の楽章で、響きがほとんど物質的になるまでに苦味を噛みしめるような表現を掘り下げないと、コラールの輝かしさや、リッケルトの詩による歌曲集の世界にも通じるアダージェットのこの世を超えた美しさが、もう一つ生きてこないのではないでしょうか。インバルと都響の信頼関係の深さとともに、マーラーを演奏することの難しさも少しばかり感じた演奏でした。

IMG_0246

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中