シュトゥットガルトとベルリンへの旅より

IMG_02642月5日から12日にかけて、シュトゥットガルトとベルリンへ出かけました。研究のための調査や、現在進めている翻訳のための打ち合わせが、今回の旅の主な目的でした。その一日を費やして、シュトゥットガルトから電車で半時間ほどのところにあるマールバッハという小さな街を訪れました。フリードリヒ・シラーの生地としても知られるこの街には、シラーと同時代の文学者に関する貴重な資料を収めた文学館のほか、現代文学館も設けられていて、そこでは、フランツ・カフカの『審判』の原稿やアルフレート・デープリンの『ベルリン・アレクサンダー広場』の原稿をはじめとする貴重なマニュスクリプトを見ることができます。現代文学館ではまた、ドイツを代表する出版社の一つであるズーアカンプ社とベンヤミン、その友人であるゲルショム・ショーレムの関係を焦点とした特別展も行なわれていて、それを見ることがマールバッハ訪問の目的の一つでした。ズーアカンプ社の最初の社主ペーター・ズーアカンプとベンヤミンの関係は、ベンヤミンの生前に遡り、彼の著作をナチスの支配下のドイツで偽名で公刊するのにズーアカンプが尽力したことなどが書簡から伝わってきます。それ以外に、戦後にベンヤミンの著作集が刊行される際のドキュメントや、学生運動が盛んだった時期にベンヤミンのハシッシュ吸引の記録を出版する計画をめぐる、ズーアカンプの新しい社主となったジークフリート・ウンゼルトとショーレムのあいだの激しい議論や、その間に起きたアドルノ未亡人の自殺未遂事件のことを生々しく伝える書簡なども展示されていて、とても見応えがありました。一人の思想家にして批評家だった人物の著作を編集して刊行すること自体の歴史的な意味を、あらためて考えさせられたところです。この現代文学館の向かいにはドイツ文学アルヒーフがあり、膨大な文献や資料を所蔵したその図書館では、親切なスタッフの方が文献を探すのを手伝ってくれました。

ベルリンでは、ちょうどベルリン国際映画祭(Berlinale)が始まったところで、その“Forum Expanded”の枠内で上映が行なわれているアンゲラ・メリトプーロスとマウリツィオ・ラッツァラートのヴィデオ・アート作品『素粒子の生命』を見ることができました。フェリックス・ガタリの思想に導かれつつ、沖縄、広島、山口、東京、京都などを巡り、こうした場所で日本のアーティストやアクティヴィストと対話して、沖縄や日本の思想に触れながら、現在における主体性の在り処を問う“Visual Research”と言えましょうか。沖縄の山原や山口の祝島などの自然の生命力を美しい映像で見つめながら、運動の現場にも目を向け、生命を脅かしている軍隊や核開発の暴力の問題を深く掘り下げていました。こうして今回の短い旅のあいだ、自分自身の研究にもつながる刺激を受ける一方で、ほぼ夜ごとにオペラの公演や演奏会に足を運びました。とくにオペラの公演は、いずれも質の高いものであると同時に、現代におけるオペラ上演の可能性を考えさせるものだったように思います。舞台への感情移入を促し、陶酔へ導くスペクタクルを作り出すことを敢えて拒否し、むしろ一抹の違和感を催させながら思考を喚起するような舞台作りのうちに、オペラという芸術の現代における可能性を探ろうとする方向性も垣間見えました。ちなみに、シュトゥットガルトの国立劇場では、„Warum Oper?“(『なぜオペラか?』)という表題の本も手に入れました。この劇場でのヴァーグナーの『神々の黄昏』の公演を演出したペーター・コンヴィチュニーをはじめ、最前線で活躍しているオペラの演出家へのインタヴュー集です。「なぜオペラか」。この問いは、今オペラに関わる者がつねに新たに向き合わなければならない問いであるように思います。以下、今回の旅行中に触れたオペラの公演の印象を、それぞれ短く記しておきます。

■シュトゥットガルト国立劇場:アルバン・ベルク『ヴォツェック』[2013年2月6日]

フランクフルトへ向かう飛行機の機内で読んだゲオルク・ビュヒナーの『ヴォイツェク』の日本語訳(岩淵達治訳、岩波文庫、2006年)の解説によれば、この戯曲の断片の結末に関しては、まださまざまな解釈の余地があるようだ。ヴォイツェクは、マリーの殺害に使ったナイフを池のより深い底に沈めようとして溺れ死ぬのか、それとも死にきれずに裁きの場に引き出されるのかは宙吊りのままである。そのような結末の不確かさが、シュトゥットガルトの国立劇場で上演されたアルバン・ベルクの『ヴォツェック』の公演を演出したアンドレア・モーゼスの脳裡にあったかどうかは定かではないが、彼女の演出ではマリーを殺した後で貯水バケツに飛び込むヴォツェックは、少なくともそのまま死んでしまうとは思えない。しばらくすると、バケツの蓋を少し持ち上げて外を覗く彼の傍らでは、マリーの屍が、ゴミ箱に頭から突っ込んだ格好で、両足を天に突き上げている。このような救いのない光景が象徴するように、モーゼスの演出した『ヴォツェック』は、ほとんど閉ざされた室内で演じられる。回転舞台上の酒保を備えた兵舎が、身体の内部まで物として客体化され、生きる支えとなっていたパートナーさえも奪われるヴォツェックの没落の空間となるのだ。

舞台は、殺風景なロッカー・ルームでの髭剃りの場面から始まったが、やがて回転舞台に設えられた兵舎が、実に精巧に組み立てられていることが判ってくる。娯楽室の巨大な双眼鏡に象徴される可視性のうちに閉じた空間と言うべきだろうか。それをくまなく、また絶妙の移動のタイミングで使い尽くす演技には感嘆させられた。さながらジェレミー・ベンサムのパノプティコンのように、すべてが見えるものとして客体化される空間のなかでは、欲望もまた物質化されるのだろう。娯楽室で兵士たちが手にする猟銃や、鼓手長の大きなバイクに、支配する力──それはヴォツェックの肉体の自然を知によって支配する力でもある──としての男性性が、陳腐化されながら客体化されているようだ。今回の演出では、それを求めるある種の女性の姿もかなり強調されていた。マリーを鼓手長に奪われる──二人のダンスが階上のバルコニーでの密会に置き換えられていたのはなかなか説得的だった──ヴォツェックは、こうした、陳腐でありながら、「真理」となるまでに力を得た異性愛の関係から弾き出されてしまったのだろうか。あたかもその反動のように、ヴォツェックもまた──とくにマリー殺害の後で──性的な欲望を剝き出しにする。そのことは理解できるとしても、こうした衝動的な側面が強調されるあまり、内奥まで客体化される自分を振り返るヴォツェックの姿が見えなくなり、人物の造形から奥行きが失われた点は惜しまれる。ヴォツェックも、アンドレスも、そして大尉さえも、自分自身の底知れなさを怖れるのだ。そのことが掘り下げられなかったのは、人工的な空間で舞台を完結させたことの限界かもしれない。

今回の公演で特筆されるべきは、ティトゥス・エンゲルの指揮。明確な響きを造形するだけでなく、ベルクの音楽に欠かせないうねるような流れもオーケストラから引き出していた。エンゲルの指揮は、テオドール・W・アドルノがベルクの音楽について語る「移行」とともに情景を開く音楽を作っていたように思う。それに応えるオーケストラの力量もなかなかのもの。とくに管楽器の力強さには目を見張る。もう少し弦楽器と管楽器の一体性が生まれればと思う局面もあったけれども、演奏自体の説得力には素晴らしいものがあった。主役を歌った二人の歌手の歌唱も力強く、とくにマリー役を歌ったクリスティアーネ・イヴェンは、強い声を基調としながら苦悩を切々と歌う一方で、繊細な恐怖の表現も示していて、時にはっとさせられる。ヴォツェック役を歌ったクラウディオ・オテッリの声も素晴らしかったのだけれども、もう少しこうした細やかな表現も聴ければと思う瞬間もあった。今ひとつ深みに欠けるヴォツェックの印象は、この点にも起因しているかもしれない。『ヴォイツェク/ヴォツェック』への一つのアプローチを説得的に示すとともに、この作品の可能性がまだまだ汲み尽くされていないことを実感させる舞台であった。

■ベルリン国立歌劇場:ヴィクトール・ウルマン『アトランティスの皇帝──あるいは死の拒絶』[2013年2月7日]

テレジン(ドイツ名:テレージエンシュタット)の強制収容所で1943年から44年にかけて書かれ、リハーサルまで行なわれながら、最終的に上演を許されなかった──作曲家も台本作者も、上演の日を見ないうちに、アウシュヴィッツへ送られて虐殺されることになる──ヴィクトール・ウルマンのオペラ『アトランティスの皇帝──あるいは死の拒絶』は、チャーリー・チャップリンの『独裁者』(1940年)と並ぶ、もう一つの「独裁者」とも言うべき側面をもっている。死神をあざ笑うかのように全面戦争を宣言し、軍司令部からの戦況報告に耳をそばだてるも、やがて死そのものに対するみずからの無能を突きつけられ、憤怒を露わにするアトランティスの皇帝の姿は、チャップリンが描いた総統ヒンケルの姿と、どうしても重なって見える。そのような皇帝オーヴァーオール──皇帝の名overallをドイツ語で言えばüberallで、遍在を意味する──を登場させるウルマンのオペラが、収容所で書かれえたということ自体驚嘆に値するが、それ以上に驚かされるのは、この一時間に満たない短いオペラの表現の密度の濃さである。死神、生そのものを暗示する道化といった寓意的な人物を配しながら、それらの寓意表現の伝統を踏まえた簡素な韻文によって、四つの場面を見事に構成した台本──その作者は、ペーター・ヴァイスとも交友のあったペーター・キーンである──、後期のショスタコーヴィチを予感させるような引用が駆使されるとともに、ヴァイル風のアイロニカルな諧謔と、ツェムリンスキーを思わせる濃密なロマンティシズムが交錯するなかから、澄んだ無調の響きが聴こえてくる音楽。両者の表現の冴えを、ベルリン国立歌劇場のWerkstattというスタジオのような、これまた凝縮された空間における今回のこのオペラの上演で、存分に味わうことができた。

オペラ『アトランティスの皇帝』は、生きることも死ぬことも愛おしまなくなった人間の世界を嘆く道化と死神の遣り取りから始まるが、やがてすでに触れたオーヴァーオール皇帝による全面戦争の宣言を、自分に対する挑戦と受け取った死神は、一人ひとりの人間に死をもたらすみずからの剣──今回の演出では紙で出来たパイプ──をへし折ってしまう。もはや戦争の撃ち合いのなかでも、それどころか死刑を執行しても、誰ひとり死ぬことはない。そのように死が拒絶された世界のなかで、ほとんど奇跡のように、一人の兵士と武器を執った少女が遭遇し、恋に落ちる。生きることを愛おしむ心が人々のあいだに甦ってくるのだ。もはや戦争そのものが成り立たない。オーヴァーオールは、自分が起こした戦争によって首を絞められていき、徐々に狂気の相をも帯び始める。あとは一人ひとりが自分の死を死ぬことが取り戻されなければならないわけだが、そのためにはまず、この独裁者がみずからの死を受け容れなければならない。そして、オーヴァーオールはついに死を覚悟するわけだが、それに続いて上から響いてくる、死神の帰還を願う四重唱の美しいこと。このオペラには、人がみずからの死を死ぬことが拒絶され、アドルノの言葉を借りれば、ただの「サンプル」として抹殺されていく収容所という空間のなかで、一人ひとりが自分自身の死を死ねることを切に願うことも込められていようが、その願いを不安のなかで純化させ、結晶させたと思われるこの四重唱を、望みうる最高の演奏で聴くことができただけでも、ベルリンまでこのオペラを見に来た甲斐があったと思う。

今回の公演ではまず、マーシャ・ペルツゲンによる演出の巧みさが光った。三つの扉と窓の開いた階上の一室を設けただけの壁を前後に動かしながら駆使しつつ、また舞台向かって左手に設けられた花道も活用しながら展開される非常に簡素な舞台は、収容所での上演の可能性を意識させるだけでなく、人物の寓意性を生かし、観る物を思索に誘うという点でも好ましく思えた。このオペラに、感情移入を促す仕掛けはまったく必要ない。オーヴァーオールの狂気が高じていくとともに壁がこちらに迫ってくる演出も、的確だったのではないか。歌手たちも、素晴らしい歌唱と演技を示してくれたと思う。死神とラウド・スピーカーの役を兼ねたアリン・アンカは、力強い歌唱で舞台をリードしていたし、オーヴァーオール役のギューラ・オレントは、細やかな声の表情と迫真の演技で独裁者の狂気を演じきっていた。とくに彼の最後のアリアは素晴らしかった。道化と兵士の役を兼ねたキム・キュンホは、澄んだ美しい声を聴かせてくれたが、それと彼の少し朴訥としたところの両方が、今回の役にぴたりとはまっていたのではないだろうか。舞台向かって左上方に陣取った小編成のオーケストラ──収容所の制限された状況を反映した、変わった編成のアンサンブルと呼ぶべきかもしれない──も、フェリックス・クリーガーの指揮の下、とても魅力的な演奏を聴かせてくれた。

今回の上演の少し色褪せた雰囲気の舞台の上で、このオペラの新しさが際立っていた。人が自分の死を死ぬことができないというのは、もしかすると、収容所のなかに、全面戦争のなかにあっただけでなく、今ここに現にあることなのかもしれない。それを寓意をもって照らし出し、苦い笑いを交えながら、一人ひとりが自分の死を人々のあいだで死ぬことができることと表裏一体の関係にある生きることのかけがえのなさを、最終的には静かに考えさせるウルマンの『アトランティスの皇帝』。今回の上演を機に、このオペラをベルリン以外の場所でも繰り返し取り上げられてほしい。そして、このような新しさをもった室内オペラこそ、広島で上演されるべきではないだろうか。

■ベルリン・ドイツ・オペラ:ベンジャミン・ブリテン『ピーター・グライムズ』[2013年2月9日]

ベルリン・ドイツ・オペラにおけるベンジャミン・ブリテンの『ピーター・グライムズ』の公演を演出したデイヴィッド・オールデンが公演プログラムに寄せている文章によれば、このオペラにおいて言わば通奏低音をなす海とは、人間の精神状態や人間を圧倒する力のメタファーである。それゆえ、これをあまりリアルに舞台を海岸を描き出すのは適切ではないという。たしかに、今回の公演の舞台には、海の存在や漁港の近さを暗示するものはあっても、海や漁村の直接的な描写はない。その代わりにあるのは、建物の内側と外側を表わす空間で、内側は時に酒場に、時に魚市場に、あるいは時に漁船の内部になる。こうした空間でピーターは徐々に追い詰められていくわけだが、オールデンの演出上の表現の焦点は、最終的にはピーターを死に追い込む村人の、ひとまとまりの群衆としての姿にあったように思われる。村人たちはあたかも、ピーターを「人殺し」として追い詰めるという一点でまとまっているかのように一様な行動を示すのだが、その全体としての形相が凄まじい。日曜のミサの後、教会を出た群衆は、一斉に聖書を掲げて、ピーターの唯一の庇護者であるエレン・オーフォードにピーターの居場所を教えるように迫るのだが、その姿には、観ているこちらも恐怖を覚えた。それくらい合唱団の演技と歌唱が素晴らしかったということだが、この歌劇場の合唱団の合唱には、今回も感銘を受けた。

すでに触れたように、オールデンの演出の焦点は、村人たちがピーターに対して共有している半分は理由のない恐怖と、それにもとづく彼に対する憎しみであり、それが行動の一様性をもたらしていることが、舞台上で繰り返し強調されていた。それによって、他者に対する理由のない恐怖にもとづく憎しみが、他者に対する苛酷な──それ自体テロルとも言える──暴力に転化することが、きわめてアクチュアルな問題であることは痛いほど伝わってくる。ただ、そのような攻撃性を示す行動の一様性が、何やら体操のような規則的な身振りにまで還元されると、少々の違和感を禁じえない。また、舞台装置の抽象性に関しても、どこか中途半端な印象が拭えない。海がメタファーであると言うのなら、思い切って完全に抽象的な舞台にしてもよかったのではないか。ピーターが自分の船を沖に沈めに行く最後の情景の舞台は、荒涼とした陸の風景が海の恐ろしいまでの広さに続いていることを、洗練された仕方で表現していて、非常に美しかったのだけれども。

このように、演出には少し不満を覚えたとはいえ、演奏は申し分なく素晴らしかった。何よりも、ゆったりとしたテンポを基調としたドナルド・ラニクルズの指揮が、オーケストラと合唱の表現力を存分に引き出していたのが印象に残る。「四つの海の間奏曲」として知られるそれぞれの幕の間奏曲の演奏は、広大な空間を開くとともに、凪いだ海に面した村の風景の空恐ろしい静けさを、凄まじい嵐のどよめきを、どこか虚しい休日の漁村の活気を、さらにはこうした風景と人々の心の共鳴を、余すところなく表現していたように思う。何より素晴らしかったのは、これもすでに触れたように合唱のアンサンブル。とくに最後の場面で遠くから聴こえてくる弱音の響きとそこにある澄んだハーモニーには、本当に耳が吸い込まれた。主役を務めた二人の歌手の歌も聴き応え充分だった。ピーター役を歌ったクリストファー・ヴェントリスの歌唱は、少々ヴァーグナーの楽劇のように表現が横に広がってしまう場面もあったが、非常に力強く、充分に存在感を示していた。それ以上に素晴らしかったのが、エレン役を歌ったミヒャエラ・カウネ。真っすぐな声で、エレンの一途さと優しさを見事に歌にしていた。ただ、そのような彼女の人間性も無力である。彼女は、村人とともに、ピーターが船もろとも海の藻屑となるのを見送るほかはない。今回の旅で、『ヴォツェック』、『ピーター・グライムズ』と、ある共同体のなかで蔑まれ、排除された主人公が、最終的にみずから水底へ沈んでいく二つの20世紀のオペラの上演に接したわけだが、その系列に、レオシュ・ヤナーチェクの『カーチャ・カバノヴァー』も付け加えることができるだろう。これらのうちにある、入水への没落を貫くものは何だろうか。機会をみて考えてみたい。

■シュトゥットガルト国立劇場:リヒャルト・ヴァーグナー『神々の黄昏』[2013年2月10日]

シュトゥットガルトの「リング」を特徴づけるのは、徹底したスペクタクルの否定であろう。ペーター・コンヴィチュニーが演出したヴァーグナーの『神々の黄昏』は、舞台上に造られた箱型の建物の内部でほとんどすべての場面が演じらる。すると、『ニーベルンゲンの歌』を翻案しながらヴァーグナー自身が書いたリブレットの世界が、実は19世紀の長編小説が繰り広げられる内部空間であることが浮かび上がるだけではない。その内部に描き出される風景が書き割りでしかないことも、いやがうえにも強調される。ジークフリートとブリュンヒルデが当初は仲睦まじく暮らしている家の窓の外に広がる草原の風景も安っぽいものだし、そこでジークフリートが身につける毛皮の衣服も、キッチュなことこの上ない。しかも、その家からジークフリートは、紙と棒で出来た「お馬」に乗ってラインの旅に出かけるのだ。たしかに妖しい乙女たちの泳ぐラインの流れは美しい映像で表現されていたが、舞台が回転すれば、その映像を投影しているプロジェクターが丸見えだし、カーテンの開閉の際には裏方の人々も公然と登場する。こうして、象徴主義的な意味深さを求める見方を次々と幻滅させながら、神話的表象が捏造される仕組みを暴き出していくコンヴィチュニーの演出が表現しているのは、一つは人間の社会化のプロセスなのかもしれない。大人になるとは──あるいは「社会人」になるとは──、それ自体としては幻滅を催させるものでしかないこの表象の仕組みに適応することだとすれば、そのことを象徴するのが、グンターの家の制服とも言うべきスーツの着用であろう。ブリュンヒルデは、スーツを着て自分の前に現われたジークフリートを前にして、「裏切り!」と叫ぶのである。

このようにコンヴィチュニーの演出は、感情移入を促す神話的なスペクタクルを排して、『神々の黄昏』という一つの装置──あるいはeine Niebelungenmaschieneと言うべきか──のアクチュアリティを聴衆に徹底して考えさせるものと言えよう。その行き方は最後まで徹底していて、今回の演出では、ブリュンヒルデの最後の歌の後、ヴァルハラの神々の国の崩壊を、そして一つの神話的な世界の終わりを、テクストのレクチュールによって考えさせるのだ。黄昏の輝きなきシュトゥットガルトの「黄昏」。それは、ヴァーグナーの言い知れぬ魅力のみならず、禍々しさや虚仮威しをも思考をもって通過したうえで、現代のオペラとしてこの『神々の黄昏』を上演する一つの説得的な試みを提示するものと言えるのではないだろうか。それが目指すところや表現の細かい工夫に関しては、プログラムに収められているコンヴィチュニーを交えた座談の記録などを読んで、より詳しく知りたいと思う。

演奏は総じて非常に聴き応えがあった。まず、マルク・スーストロの指揮は、全体的にきびきびと音楽を運びながら、歌わせるべきところはしっかりと歌わせていたが、オーケストラがそれに見事に応えて、がっちりとした質量感を具えながら輝きのある響きを形づくっていたのが印象に残る。とくに金管楽器の力強さは特筆に値しよう。合唱の力強いハーモニーも舞台をしっかりと支えていた。歌手のなかでは、何と言ってもブリュンヒルデの役を歌ったイルムガルト・ヴィルスマイアが圧倒的に素晴らしかった。ハーゲン役を歌ったアッティラ・ユンは、張りと深みを兼ね備えた声でこの役の禍々しさを演じきっていたし、またグンターの役を歌った石野繁生は、よく通る力強い声で存在感を示すと同時に、グンターという人物の本質的な弱さも細やかに表現していた。これらの歌手と比べると、ジークフリート役を歌ったシュテファン・ヴィンケの歌唱には疑問が残る。声そのものには力があるものの、とくに発音が浅い感じで、言葉がこちらに迫ってこないのだ。先に触れたように、おもちゃの「お馬」にまたがってラインの旅に出るなど、何とも子どもっぽいジークフリートには相応しい声の持ち主かもしれないが、少し実質的な存在感が薄い気がする。ヴォークリンデ役を見事に歌った角田祐子を含め、アジア出身の歌手の活躍が目立った『神々の黄昏』の舞台でもあった。

今回の旅のあいだ、これら四つのオペラの公演に接しただけでなく、2月8日には、ベルリンのフィルハーモニーで、マンフレート・ホーネックの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会も聴くことができました。前半には、ドヴォジャークのヴァイオリンと管弦楽のための初期のロマンスヘ短調(作品11)とヴァイオリン協奏曲イ短調(作品53)が、アンネ=ゾフィー・ムターの独奏で演奏されたのですが、個人的にはあまり演奏に共感できませんでした。ムターの凛と力強い音は、それ自体素晴らしいと思いますが、必ずしもその良さを生かした演奏とは言えなかったように思います。ドヴォジャークの音楽のスラヴ的な民族性を意識したのか、ムターは即興的なテンポ・ルバートを多用していて、それにオーケストラが一生懸命付いて行くさまがスリリングだったという向きもあるかもしれませんが、こうした表現がどこか取って付けたような感じがしたのです。フリアントのリズムをはじめとした民族的な要素は、すでにドヴォジャークの楽譜にかなりの程度書き込まれているはずなので、ムターならではのストレートな音でそのような楽譜をそのまま生かしたほうが、表現に説得力があったように思います。ホーネックの推進力ある音楽の運びには共感がもてました。とくに舞曲のリズムに活気があったように思います。

この日の演奏会では、休憩後にヴィトルド・ルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲が演奏されましたが、その演奏はベルリン・フィルハーモニーの機能性と響きの力強さの双方を存分に生かした、本当に素晴らしいものでした。とりわけ第2楽章で、フガート風の細かい動きが、セクション間で間断なく受け継がれながら舞台上を駆け抜けていくさまには爽快感すら覚えましたし、それは一種の空間的な表現としても見事だったように思います。冒頭の重い力を鬱積させていく響きの深さもこのオーケストラならではのものでしょうし、フィナーレの盛り上がりも、地の底から湧き上がるようでした。ホーネックの統率力も、独奏を担当した各奏者の力量も申し分なかったと思います。この曲の望みうる最高の演奏と言えるのではないでしょうか。ルトスワフスキの生誕100周年の今年、ベルリン・フィルハーモニーはこの作曲家の作品を力を入れて取り上げているようで、管弦楽のための協奏曲に続いては、ピアノ協奏曲とチェロ協奏曲が、今度は音楽監督のサイモン・ラトルが指揮する定期演奏会のプログラムに挙がっています。ソロイストは、クリスティアン・ズィメルマンにミクローシュ・ペレーニ! こちらも大いに期待できるのではないでしょうか。

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