パリへの旅より

先週末からごく短い期間でしたが、パリに滞在しました。パリを訪れるのは、6年ぶりのことになります。滞在期間が、ちょうどアルプスの北側が寒波に見舞われた時期と重なり、最低気温が氷点下になる日もありましたので、真冬のコートを着て美術館や演奏会場に通いました。美術館は、いくつかの絵に再会したくてルーヴルとオルセーへ行ったのですが、いずれも観光客でごったがえしていて、あまり落ち着いて絵を見られませんでした。初期フランドル派の絵画や古いドイツの絵画を展示しているルーヴルの一角が閉鎖されていたのも、残念だったことの一つです。ヤン・ファン・エイクの「ロランの聖母」などを見たかったのですが。あらためてジョルジュ・ラ・トゥールの傑作をじっくり見られた──彼の絵のあたりは人が少ないのです──のが、救いと言えば救いでしょうか。それから、オルセーでは、«L’ange du bizarre»──「風変わりな天使」とでも訳せましょうか──というテーマで、とても興味深い展覧会が開かれているのを見ることができました。人間が自分の恐怖や、自分の内なる魔的なものをどのような形象に結晶させてきたかが、絵画と文学、さらには映画を交差させるかたちで探られていました。

展覧会と言えば、リュクサンブール美術館で見た、「シャガール──戦争と平和のあいだ」というテーマのシャガール展も、なかなか興味深かったです。シャガールの油絵作品をこれほどまとまったかたちで見たのは、広島のシャガール展以来ではないでしょうか。最初のパリ時代の作品と、ハシディズムの影響を感じさせるとともに、第一次世界大戦が影を落とすヴィテブスク時代の作品に始まって、ベラとの愛の日々を描いた美しい作品と続いていましたが、この時期の静かで、同時に親密さを感じさせる絵には独特の魅力があります。第二次世界大戦の恐怖のなかで描かれた作品としては、「レジスタンス」、「復活」、「解放」の三部作──これは広島でも見ています──が、聖書のいくつかの場面を描いた小さな作品に続いて展示されていたのが印象的でした。戦後の作品では、「五本の蝋燭」という比較的に小さな、青を基調とした静かな絵が最も感銘深かったです。鮮やかな黄色が特徴的な「ダンス」と同時期の、1950年頃の作品ですが、蝋燭の上に浮かぶ月と、その傍らにある、赤い花を生けた青白い花瓶に人の顔が映っています。戦争中に死んだ妻のベラをはじめ、戦争中に亡くなった人々への哀悼の思いが深い青に沈着した一枚と感じました。

さて、今回の滞在期間中、二つの演奏会に二つのオペラの公演、そしてバレエの公演に一つ接することができました。その印象を以下に、覚え書き風に記しておきます。まず、パリに到着した3月23日の夜に、オペラ・コミックで、ヴォルフ=フェッラーリの『スザンナの秘密』とプーランクの『声』の二本立ての公演を観ました。真っ白な、おそらく故意に狭さを感じさせるアパルトマン風の装置を使った、奇をてらうことのない、かつ洗練された演出(ルドヴィク・ラガルド)で好感がもてます。装置が狭いからこそ、『スザンナの秘密』では、夫婦間の擦れ違いや家のなかのドタバタが増幅されて、効果的だったのではないでしょうか。逆に後半の『声』では、装置を回転させ、前半では見えなかった部屋も見せることで、独り住まいの女性の寂しさを醸し出していました。それにしても、歌手たちの演技を含めた表現の巧みさには驚かされます。とくに、『スザンナの秘密』では、喫煙の趣味をどうにか隠そうとする妻をコミカルに演じたアンナ・カテリーナ・アントナッチが、『声』では一転して、別れようとする恋人に対するやるせない思いを、奥行き豊かに表現していたのには感銘を受けました。ここでは、彼女の深みのある声も、よい方向に作用していたように思います。パスカル・ロフェ指揮のリュクサンブール・フィルハーモニー管弦楽団もなかなかの力演でした。

3月24日には、まず午前中にシャンゼリゼ劇場で、ストラヴィンスキーの《兵士の物語》の演奏を聴きました。とくに演出を施さない、2人の語り手と7人の器楽奏者のアンサンブルによる演奏でしたが、作品に相応しい演奏で非常に感銘深かったです。ディディエ・サンドルとシャルル=アントワーヌ・ドクロワの二人の雄弁な語りもさることながら、ジャン=クロード・マルゴワール指揮する器楽アンサンブルの演奏の巧さがとくに印象に残りました。ヴァイオリンを中心に、悪魔に騙された兵士の惨めさ、王女と出会った兵士の喜び、さらにはそのそこはかとない虚しさまでも、鋭いリズムと苦い諧謔によって醸し出していたように思います。第二部の小コンセールと一連の舞曲はとくに聴き応えがありました。クラリネット奏者と打楽器奏者の演奏が素晴らしかったのも印象に残っています。それにしても、音楽全体の、どこか突き放すような貧しさと救いのない結末は、考えさせるものがあります。もしかすると《兵士の物語》とは、伝統的な寓話を題材とした、今ここに立ち返る思考を喚起する一つのアレゴリーなのかもしれません。そう言えば、未来とお金をちらつかせる悪魔は今、世界中に蔓延っている気がします。

同じ24日の夕方には、サル・プレイエルで、グスターヴォ・ドゥダメルが指揮するロス・アンジェルス・フィルハーモニックの演奏会を聴きました。クロード・ヴィヴィエの《ジパング》、ドビュッシーの交響的素描《海》、それにストラヴィンスキーのバレエ音楽《火の鳥》の全曲というプログラム。パリの聴衆を前に敢えてドビュッシーの《海》を取り上げるあたりに、ドゥダメルの意気込みを感じますが、実際この曲の演奏が最も力のこもったものでした。たしかにフランスのオーケストラの演奏のような微妙なニュアンスは感じられないものの、波濤のダイナミックな動きが実に鮮やかに表現されていました。とにかく響きの解像度を保ちながら、推進力に富んだ演奏が繰り広げられるのが印象的で、終曲など、無数の蠢きがポリフォニックにクライマックスへ高まっていくようでした。もう一つの《海》の姿を、説得的に示した演奏だったのではないでしょうか。ドゥダメルの指揮はこのように、持ち前のリズム感を、オーケストラの機能性を最大限に活かすかたちで発揮させる一方で、精緻な表現も志向していて、その方向性は、ストラヴィンスキーの《火の鳥》の演奏でいっそうはっきりと示されていたように思います。ただ、「カスチェイ一党の凶悪な踊り」の曲が終わったところで盛大な喝采が起きてしまって、やや興を殺がれてしまいました。演奏そのものは、各曲を細やかに描き分けた、また起伏と緊迫感に富んだ、なかなか聴き応えのあるもので、各楽器のソロも見事でした。ヴィヴィエの《ジパング》は、ところどころ響きが魅力的な箇所があったものの、時間の推移が少し単調に思えました。

3月25日の夜には、バスティーユの国立オペラ劇場で、ヴァーグナーの楽劇『ジークフリート』の公演を観ました。題名役を歌ったトルステン・ケールをはじめ力のある歌手が揃っていて、とくにアルベリヒの役を歌ったペーター・シドムなど、もの凄い迫力の声で驚かされました。ケールは徐々に調子を上げて、最後の場面ではブリュンヒルデ役のアーウィン・メラーと力強い愛の二重唱を聴かせてくれました。そのように、歌手たちの出来にはそれなりに満足できたのですが、ギュンター・クレーマーの演出がどうしても気に入らず、最後までもどかしい思いで観ておりました。何と言っても、舞台から歴史性が感じられないのです。唯一歴史の一端が垣間見られたのは、大蛇の姿で指環を隠し持つファーフナーが、「ラインの黄金」と書かれた木箱を引きずる、奴隷のような男たちの集団によって表現されていた場面でしょうか。ただそれも、充分に掘り下げられた表現とは言えず、どちらかと言うと、スペクタクルを志向するもののように思われました。その志向が最もはっきりと表われていたのが第3幕で、たしかに舞台全体を天井まで覆い尽くす階段は、眼には鮮やかですが、逆に人物を小さくして、その造形の彫りを甘くしてしまうものに感じられてなりません。実際、音楽を掘り下げるかたちで細かい演技が工夫されているところは少なかったように思いますし、そのせいか舞台がとても退屈でした。このような表面的な演出の舞台に、フィリップ・ジョルダンのやや呼吸の浅い指揮による音楽が響くと、ヴァーグナーの音楽が、時折安っぽい「テーマ音楽」のように聴こえてしまう印象はどうしても拭えません。オーケストラのせっかくの力演が虚しく響く場面も、いくつかあったように思います。聴衆はとても喜んでいて、盛んに喝采を送っていましたが、そのぶんいっそう、今ヴァーグナーを取り上げることの難しさを感じないではいられませんでした。

リュクサンブール公園の桜

リュクサンブール公園の桜

3月26日の夜には、ガルニエ宮の国立オペラ劇場で、ローラン・プティの振り付けによるバレエの公演を観ました。この劇場のバレエ団を代表するプリマ、オーレリー・デュポンの登場する後半の「カルメン」が呼び物だったのでしょうが、全体的に、歌がないと様にならない曲に無理して踊りを付けている印象が拭えず、少し退屈でした。たしかにデュポンの美しい踊りには独特の存在感がありましたが。個人的には、ディティユーの音楽を使った「狼」が、コミカルなところも含めて、最も楽しめました。音楽自体の躍動感と舞台上の身体的な動きがとてもよく呼応していたように思います。最後には狼男が、彼を愛した女性ともども虐殺されてしまう「狼」のストーリーそのものは、とても残酷なもので、一般受けはしにくいでしょうが、このバレエは、「人間」そのものを問うアレゴリーとして、もう少し取り上げられてもよいかもしれません。

最近聴いた二つの演奏会──能と悲劇の邂逅など

ここ二週間ほどのあいだに、いつになく足早に春がやって来ました。その足取りが速すぎて、風が吹き荒れたり、そのために地上の塵が舞い上がったりしたところもあったようです。そのせいか曇りがちで、かつざらついた春の空気ですが、そのなかでも木々はたくましく花を咲かせようとしています。東京では桜がすでに満開と聞きましたが、広島の住まいの近くでも桜が咲き始めています。そのような木々のたくましさにはあやかりたいところですが、同時に、目に見えない物質によって水や空気がこれ以上汚染されるのには立ち向かう意志も、今新たにしなければならないようにも思います。

さて、この二週間のあいだに、興味深い二つの演奏会に接することができましたので、その印象を少し記しておきたいと思います。まず、3月8日(金)には東京で、能楽の青木涼子さんが主宰されている、能と現代音楽のコラボレーションの場を開く演奏会のシリーズ“Noh X Contemporary Music”の今シーズン2回目の演奏会(港区芝浦のSHIBAURA HOUSEにて)を訪れることができました。青木さんを中心とするensemble-noが若手作曲家に委嘱した作品が初演されるこのシリーズの今回の演奏会では、ストラティス・ミカナキスというギリシア出身の作曲家、そしてヴァソス・ニコラウというキプロス出身の作曲家の作品が初演されました。ギリシア語の伝統、何よりもその底流にあるギリシア悲劇の精神と、能の精神とがどのように出会うのか、楽しみにして出かけました。

まず興味深く思われたのが、冒頭のトーク・セッションで、とくに能謡と現代音楽の協働の可能性を探りたいと青木さんが述べられたのに応えるかたちで、ミカナキスが、ギリシア悲劇の一定の節をもった語りは能に通じると語っていたことです。ギリシア悲劇の三部作の上演の合間にサテュロス劇という喜劇が差し挟まれることが、能の上演のあいだに狂言が挟まれるのと対応していることは、つとに指摘されてきたことですが、そうした外的な上演形式のみならず、もっと内的な表現においても、能と悲劇には相通じるものがあるのかもしれません。思えばニーチェは、『悲劇の誕生』──その本来の表題は「音楽の精神からの悲劇の誕生」です──において、悲劇が歌うことから生まれたと論じていました。そして、生の根源的な苦悩を歌う声が響き出ようとする次元に源泉をもつという点で、ギリシア悲劇と、謡いを含む能が応え合うことができるのではないか。この可能性に迫ろうとしたのが、ミカナキスの新作、謡、バス・フルート、打楽器のための「Apoploys II Homeric Shard」だったように思います。

この作品は、ホメーロスの『オデュッセイア』より、オデュッセウスの冥府行の一節をテクストとするもので、そこでは、オデュッセウスが母親の霊を三度にわたって抱きしめようとするも、その手を擦り抜けるように霊が消え去ってしまうさまが物語られます。ここにあるのは、その姿が見えるまでに母への思慕が強まっているにもかかわらず、母にけっして手を触れることができないという苦悩ですが、ミカナキスの曲では、その苦悩の深まりが音楽の緊張を強めていくのが、とても率直に表現されていたように思います。言葉の節々に打楽器の音が鋭く打ち込まれるのがとても効果的で、印象的でしたが、それとともに青木さんの声が、ホメーロスの言葉に込められた情念を浮き彫りにしていました。

今回の演奏会で新作を発表したもう一人の作曲家ニコラウは、過剰さが排されている点で、能と現代のムジークテアーター(Musiktheater)──「オペラ」の因習に対する批判から生まれた、現代の音楽による舞台芸術と申しましょうか──には相通じるものがあると語っていました。彼の新作、謡、フルート、打楽器のための「Macbeth 5.1」は、シェイクスピアの悲劇『マクベス』の第5幕第1場をテクストとするもので、能の要素を活かすかたちで、ムジークテアーターの一場面を構成しようと試みるものでした。その際ニクラウは、仮面を着けることをはじめとする能の要素を、例えばガラス板へ向けて声を出すことで声を「マスクする」といった具合に、現代音楽の語法に自由に翻訳していました。これはこれで、能と現代音楽の接点を探る一つの可能な行き方ではないでしょうか。とくに紙を扇子のように扇ぐのに向けて声や息を発することで、それを震わせる手法は、マクベス夫人が、自分が謀って殺した者たちの亡霊に脅える空間の雰囲気を醸し出していましたし、その点でフルートの多様な使い方も効果的だったように思います。青木さんの声の使い方や、能の所作を生かした動きも、『マクベス』のこの場面に相応しく感じられました。

今回初演されたミカナキスの作品も、ニクラウの作品も、広い意味でのモノ・ドラマと言えるものでしょう。現代音楽におけるこの形式の可能性があらためて実感されましたが、その可能性が能との出会いによってさらに切り開かれたとすれば、今回のコラボレーションは非常に有意義だったのではないでしょうか。いずれも場所を変えて、必要に応じて演出も加えて再演されてよい作品と思われました。現代の音楽がその源泉と言うべき声の可能性に目覚め、能の側も、謡うという、その始まりにあるものに立ち返りながら、新しい可能性を拡げるかたちで、これからも両者の協働が重ねられたら素晴らしいことでしょう。そして、とくに能とギリシア悲劇が真に出会う地点は、今回の演奏会を機に、音楽という共通の源泉からさらに探究されたらよいのではと思いました。

それから、3月22日(金)には、広島市の文化交流会館で、広島交響楽団の定期演奏会をしばらくぶりに聴きました。世界的な活躍が期待されている注目の若手指揮者山田和樹が指揮するというので、彼がどのような響きを聴かせてくれるのか、楽しみに出かけた次第です。曲目は、武満徹の《系図》とブルックナーの交響曲第3番ニ短調。とくに後者が、ヴァーグナーからの引用がいくつも見られるノーヴァク版第1稿を使って演奏されるのが、注目されるところです。シンフォニストとしての書法を確立した後年の視点からまとまりよく書き改められた、そして最も一般的に演奏されるノーヴァク版第3稿ではなく、少々粗削りながらも、完成を顧みないゴシックの教会の建築さながらに楽想を自由に展開させ、書きたいことをありったけ詰め込んだ感のある、それゆえに説得力ある演奏が難しい第1稿を敢えて取り上げるところに、この若い指揮者の並々ならぬ意欲を感じます。

このブルックナーの交響曲の演奏は、期待にたがわぬ本当に素晴らしいものでした。広島交響楽団の演奏の完成度も、ここ数年間で私が聴いたなかで、いやもしかすると、これまで聴いたなかで最高であったように思います。それは何よりも、山田和樹の並外れた手腕に拠るところが大きいと感じられました。彼は、低音をしっかりと鳴らし、内声部を充実させて、素晴らしいバランスの、そして実にブルックナーに相応しいピラミッド状の響きをオーケストラから引き出していました。フォルテの響きは、地の底から迫ってくるようでしたし、ピアノの響きもけっして痩せ細ることがありません。かといって、響きが濁ることがないのも特筆されるべきで、第3交響曲のそこかしこで聴かれるコラール状の一節は、非常に美しかったです。

山田和樹のこの曲の解釈は、メリハリの利いた非常にスケールの大きなもので、この曲に特徴的なフォルティッシモのユニゾンを充実した響きでしっかりと聴かせ、かつその後の休止も充分に取って、何か巨大なものを屹立させる一方で、そこへ向けてさまざまな音が蝟集していく動きは、推進力をもって聴かせていました。スケルツォやフィナーレに見られるリズミックな動きの躍動にも素晴らしいものがあったと思います。フィナーレで、そのような動きが高まって、巨大なものが崩れ落ちるかのようなクライマックス──この第1稿でしか聴けない瞬間──が形づくられるあたりは圧倒的でした。その一方で、旋律的な主題を、とても繊細に歌わせていたのも印象的でした。とくに第1楽章の第2主題が、香気をもって立ち上るかのような響きで奏でられたのには、はっとさせられたところです。第2楽章における深沈とした祈りの響きも、美しく、かつ充実したものでした。

山田和樹が、ブルックナーの第3交響曲の第1稿のきわめて複雑な──複雑怪奇ですらある──スコアを完全に自分のものにして、この曲を非常に魅力的に聴かせた、かつこの指揮者の音楽の大きさをも感じさせるこの曲の演奏でしたが、他方で、武満徹の「系図」の演奏にも、見るべきものがあったように思います。ここでは山田の響きに対する繊細な感性が生きて、とても柔らかな肌触りの響きが印象的でした。終曲では、大田智美が、武満のメロディに相応しい、粋なルバートを利かせた見事なアコーディオンのソロを聴かせてくれました。ただ、曲と曲のあいだの継ぎ目あたりに、もう少し丁寧な仕上げを求めたいとも思ったところです。また、朗読で音楽がたびたび中断されることによって、曲の印象が薄くなる感じを受けましたが、このことは、この武満最晩年の、聴きやすいメロディに富んだ作品の問題として、あらためて考える必要がありそうです。それから、この曲でヴァイオリンのハーモニクスが続くのを、残響に乏しいホールで聴くのはやや辛いものがありました。ブルックナーの交響曲を聴いているあいだにも感じたことですが、もっと響きの豊かな、演奏者を助けるホールがあれば、広島交響楽団の演奏活動も、そして広島の音楽文化も、より充実したものになるのではないでしょうか。広島の街に音楽専用ホールが、できるだけ近い将来に造られることを望んでやみません。

近所の公園に咲いていた梅

近所の公園に咲いていた梅