最近聴いた二つの演奏会──能と悲劇の邂逅など

ここ二週間ほどのあいだに、いつになく足早に春がやって来ました。その足取りが速すぎて、風が吹き荒れたり、そのために地上の塵が舞い上がったりしたところもあったようです。そのせいか曇りがちで、かつざらついた春の空気ですが、そのなかでも木々はたくましく花を咲かせようとしています。東京では桜がすでに満開と聞きましたが、広島の住まいの近くでも桜が咲き始めています。そのような木々のたくましさにはあやかりたいところですが、同時に、目に見えない物質によって水や空気がこれ以上汚染されるのには立ち向かう意志も、今新たにしなければならないようにも思います。

さて、この二週間のあいだに、興味深い二つの演奏会に接することができましたので、その印象を少し記しておきたいと思います。まず、3月8日(金)には東京で、能楽の青木涼子さんが主宰されている、能と現代音楽のコラボレーションの場を開く演奏会のシリーズ“Noh X Contemporary Music”の今シーズン2回目の演奏会(港区芝浦のSHIBAURA HOUSEにて)を訪れることができました。青木さんを中心とするensemble-noが若手作曲家に委嘱した作品が初演されるこのシリーズの今回の演奏会では、ストラティス・ミカナキスというギリシア出身の作曲家、そしてヴァソス・ニコラウというキプロス出身の作曲家の作品が初演されました。ギリシア語の伝統、何よりもその底流にあるギリシア悲劇の精神と、能の精神とがどのように出会うのか、楽しみにして出かけました。

まず興味深く思われたのが、冒頭のトーク・セッションで、とくに能謡と現代音楽の協働の可能性を探りたいと青木さんが述べられたのに応えるかたちで、ミカナキスが、ギリシア悲劇の一定の節をもった語りは能に通じると語っていたことです。ギリシア悲劇の三部作の上演の合間にサテュロス劇という喜劇が差し挟まれることが、能の上演のあいだに狂言が挟まれるのと対応していることは、つとに指摘されてきたことですが、そうした外的な上演形式のみならず、もっと内的な表現においても、能と悲劇には相通じるものがあるのかもしれません。思えばニーチェは、『悲劇の誕生』──その本来の表題は「音楽の精神からの悲劇の誕生」です──において、悲劇が歌うことから生まれたと論じていました。そして、生の根源的な苦悩を歌う声が響き出ようとする次元に源泉をもつという点で、ギリシア悲劇と、謡いを含む能が応え合うことができるのではないか。この可能性に迫ろうとしたのが、ミカナキスの新作、謡、バス・フルート、打楽器のための「Apoploys II Homeric Shard」だったように思います。

この作品は、ホメーロスの『オデュッセイア』より、オデュッセウスの冥府行の一節をテクストとするもので、そこでは、オデュッセウスが母親の霊を三度にわたって抱きしめようとするも、その手を擦り抜けるように霊が消え去ってしまうさまが物語られます。ここにあるのは、その姿が見えるまでに母への思慕が強まっているにもかかわらず、母にけっして手を触れることができないという苦悩ですが、ミカナキスの曲では、その苦悩の深まりが音楽の緊張を強めていくのが、とても率直に表現されていたように思います。言葉の節々に打楽器の音が鋭く打ち込まれるのがとても効果的で、印象的でしたが、それとともに青木さんの声が、ホメーロスの言葉に込められた情念を浮き彫りにしていました。

今回の演奏会で新作を発表したもう一人の作曲家ニコラウは、過剰さが排されている点で、能と現代のムジークテアーター(Musiktheater)──「オペラ」の因習に対する批判から生まれた、現代の音楽による舞台芸術と申しましょうか──には相通じるものがあると語っていました。彼の新作、謡、フルート、打楽器のための「Macbeth 5.1」は、シェイクスピアの悲劇『マクベス』の第5幕第1場をテクストとするもので、能の要素を活かすかたちで、ムジークテアーターの一場面を構成しようと試みるものでした。その際ニクラウは、仮面を着けることをはじめとする能の要素を、例えばガラス板へ向けて声を出すことで声を「マスクする」といった具合に、現代音楽の語法に自由に翻訳していました。これはこれで、能と現代音楽の接点を探る一つの可能な行き方ではないでしょうか。とくに紙を扇子のように扇ぐのに向けて声や息を発することで、それを震わせる手法は、マクベス夫人が、自分が謀って殺した者たちの亡霊に脅える空間の雰囲気を醸し出していましたし、その点でフルートの多様な使い方も効果的だったように思います。青木さんの声の使い方や、能の所作を生かした動きも、『マクベス』のこの場面に相応しく感じられました。

今回初演されたミカナキスの作品も、ニクラウの作品も、広い意味でのモノ・ドラマと言えるものでしょう。現代音楽におけるこの形式の可能性があらためて実感されましたが、その可能性が能との出会いによってさらに切り開かれたとすれば、今回のコラボレーションは非常に有意義だったのではないでしょうか。いずれも場所を変えて、必要に応じて演出も加えて再演されてよい作品と思われました。現代の音楽がその源泉と言うべき声の可能性に目覚め、能の側も、謡うという、その始まりにあるものに立ち返りながら、新しい可能性を拡げるかたちで、これからも両者の協働が重ねられたら素晴らしいことでしょう。そして、とくに能とギリシア悲劇が真に出会う地点は、今回の演奏会を機に、音楽という共通の源泉からさらに探究されたらよいのではと思いました。

それから、3月22日(金)には、広島市の文化交流会館で、広島交響楽団の定期演奏会をしばらくぶりに聴きました。世界的な活躍が期待されている注目の若手指揮者山田和樹が指揮するというので、彼がどのような響きを聴かせてくれるのか、楽しみに出かけた次第です。曲目は、武満徹の《系図》とブルックナーの交響曲第3番ニ短調。とくに後者が、ヴァーグナーからの引用がいくつも見られるノーヴァク版第1稿を使って演奏されるのが、注目されるところです。シンフォニストとしての書法を確立した後年の視点からまとまりよく書き改められた、そして最も一般的に演奏されるノーヴァク版第3稿ではなく、少々粗削りながらも、完成を顧みないゴシックの教会の建築さながらに楽想を自由に展開させ、書きたいことをありったけ詰め込んだ感のある、それゆえに説得力ある演奏が難しい第1稿を敢えて取り上げるところに、この若い指揮者の並々ならぬ意欲を感じます。

このブルックナーの交響曲の演奏は、期待にたがわぬ本当に素晴らしいものでした。広島交響楽団の演奏の完成度も、ここ数年間で私が聴いたなかで、いやもしかすると、これまで聴いたなかで最高であったように思います。それは何よりも、山田和樹の並外れた手腕に拠るところが大きいと感じられました。彼は、低音をしっかりと鳴らし、内声部を充実させて、素晴らしいバランスの、そして実にブルックナーに相応しいピラミッド状の響きをオーケストラから引き出していました。フォルテの響きは、地の底から迫ってくるようでしたし、ピアノの響きもけっして痩せ細ることがありません。かといって、響きが濁ることがないのも特筆されるべきで、第3交響曲のそこかしこで聴かれるコラール状の一節は、非常に美しかったです。

山田和樹のこの曲の解釈は、メリハリの利いた非常にスケールの大きなもので、この曲に特徴的なフォルティッシモのユニゾンを充実した響きでしっかりと聴かせ、かつその後の休止も充分に取って、何か巨大なものを屹立させる一方で、そこへ向けてさまざまな音が蝟集していく動きは、推進力をもって聴かせていました。スケルツォやフィナーレに見られるリズミックな動きの躍動にも素晴らしいものがあったと思います。フィナーレで、そのような動きが高まって、巨大なものが崩れ落ちるかのようなクライマックス──この第1稿でしか聴けない瞬間──が形づくられるあたりは圧倒的でした。その一方で、旋律的な主題を、とても繊細に歌わせていたのも印象的でした。とくに第1楽章の第2主題が、香気をもって立ち上るかのような響きで奏でられたのには、はっとさせられたところです。第2楽章における深沈とした祈りの響きも、美しく、かつ充実したものでした。

山田和樹が、ブルックナーの第3交響曲の第1稿のきわめて複雑な──複雑怪奇ですらある──スコアを完全に自分のものにして、この曲を非常に魅力的に聴かせた、かつこの指揮者の音楽の大きさをも感じさせるこの曲の演奏でしたが、他方で、武満徹の「系図」の演奏にも、見るべきものがあったように思います。ここでは山田の響きに対する繊細な感性が生きて、とても柔らかな肌触りの響きが印象的でした。終曲では、大田智美が、武満のメロディに相応しい、粋なルバートを利かせた見事なアコーディオンのソロを聴かせてくれました。ただ、曲と曲のあいだの継ぎ目あたりに、もう少し丁寧な仕上げを求めたいとも思ったところです。また、朗読で音楽がたびたび中断されることによって、曲の印象が薄くなる感じを受けましたが、このことは、この武満最晩年の、聴きやすいメロディに富んだ作品の問題として、あらためて考える必要がありそうです。それから、この曲でヴァイオリンのハーモニクスが続くのを、残響に乏しいホールで聴くのはやや辛いものがありました。ブルックナーの交響曲を聴いているあいだにも感じたことですが、もっと響きの豊かな、演奏者を助けるホールがあれば、広島交響楽団の演奏活動も、そして広島の音楽文化も、より充実したものになるのではないでしょうか。広島の街に音楽専用ホールが、できるだけ近い将来に造られることを望んでやみません。

近所の公園に咲いていた梅

近所の公園に咲いていた梅

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