現代音楽の劇空間と久しぶりの古楽

日比谷公園の薔薇

日比谷公園の薔薇

五月が過ぎようとしています。今年は下旬になって、シューマンの歌曲集《詩人の恋》の冒頭に歌われるように、詩人ハイネが妙なる美しさを称えた五月に相応しく、晴れ渡った、そして気温の高い日が続きました。そのせいか、たまたま通りかかった日比谷公園では、薔薇がすでに見頃を過ぎていました。今年は何事も足早に過ぎていく感じがしてなりませんが、それに押し流されないよう気をつけなければなりません。

さて、5月25日の午後には、日生劇場の会議室にて「現代オペラの挑戦──シェイクスピア戯曲『リア王』のオペラ化をめぐって」というテーマのトーク・セッションを聴かせていただきました。今年11月に日生劇場で上演されるアリベルト・ライマンのオペラ『リア』のドラマトゥルクを務められる長木誠司さんと、すでに『リアの物語』によって『リア王』のオペラ化を果たされている細川俊夫さんとの対談と映像資料をつうじて、シェイクスピアの戯曲をオペラに仕立てること自体にまつわる困難、その歴史、そしてライマンのオペラと細川さんのオペラのアプローチの差異などがよく伝わる充実した内容だったと思います。

初めに、今年生誕200年を迎えるヴェルディが長く構想しながら、結局『リア王』のオペラを書き上げることができなかったことに触れながら、このシェイクスピアの戯曲をオペラにすることの難しさの一つとして、その多声性が指摘されていました。たしかに、リアの三人の娘をはじめ、三人以上の同性の人物が同時に登場する場面で、人物を描き分けるのは至難の業です。そればかりでなく、戯曲自体のポリフォニックな構造も、オペラ化を難しくしているかもしれません。グロスター卿とその息子をどう扱うかは、台本作者と作曲家を悩ませ続けたことでしょう。

また、リアの狂気をどのように捉えるか、ということも、戯曲『リア王』をオペラ化する際に避けては通れない問題の一つでしょう。細川さんがリアの狂気に、物狂が登場する能の伝統を生かしながら、言わば自然体でアプローチしているのに対して、ライマンは、荒野に投げ出されたリアの内面の葛藤から、その狂気を浮き彫りにしているということも、今回論じられたことの一つでした。嵐の荒野を彷徨うリアは、自分の心から生じる嵐を相手に徒手空拳を振るっているというわけです。自然の振動と内面の動揺が共振する場面は、ベルクの『ヴォツェック』にも描かれていますが、ライマンもその影響を受けながら嵐の場面を描き、リアの狂気を浮き彫りにしているかもしれません。

それから、『リア王』という戯曲そのものについて、これがまったく神の現われない最初の戯曲の一つであるという指摘にも考えさせられました。たしかに、先に触れた荒野の場面は、『リア王』の世界が神に見放された世界であることを象徴しているのかもしれません。他者を繋ぎ止めてきた中心が不在であるような世界、そこに儚い被造物として投げ出されたリアは、他者との関係の変調に晒されることになります。木村敏などが述べているように、それが「狂気」と呼ばれるものを生むのだとすれば、もしかすると『リア王』は、「狂気」そのものを掘り下げた戯曲と言えるかもしれません。それを数々の困難を乗り越えてオペラにしたライマンの『リア』に、日生劇場のプロダクションがどのようにアプローチするのか、今から楽しみなところです。11月には、日本人のキャストと演出、それに指揮によるプロダクションにこそ可能なかたちで、清新な「リア」像を打ち出してほしいものです。

このトーク・セッションに先立ち、23日には、東京オペラシティのコンサートホールで、昨年に続いてコンポージアムの演奏会を聴くことができました。また、24日には同じオペラシティの近江楽堂で、バロック・チェロとチェンバロのデュオ・リサイタルも聴きました。以下に両者の印象を短く記しておきます。ちなみに、古楽の演奏会を聴くのは久しぶりのことです。東京に住んでいた頃は、北区の北とぴあの音楽祭の演奏会をはじめ、古楽の演奏会によく通ったものでしたが、広島へ来てから、その機会がめっきりと減ってしまっていました。今では忘れられた作曲家の作品を発掘し、ピリオド奏法ないし唱法による演奏の可能性を追求する演奏活動が、広島でもっと盛んに展開されたら、音楽の世界がずっと豊かになることと思います。

■コンポージアム2013「ハリソン・バートウィスルの音楽」[2013年5月23日/東京オペラシティ・コンサートホール・タケミツメモリアル]

東京オペラシティのコンサートホールで、今年のコンポージアムの武満徹作曲賞の審査員を務めるハリソン・バートウィスルの音楽を特集した演奏会を聴く。この作曲家の持ち味が遺憾なく発揮された、非常に充実した内容の演奏会で、聴きに来た甲斐があったと思ったが、聴衆の入りが少し寂しかった。現代の音楽の響きにじかに触れる経験の重要性にもっと多くの人に気づいてほしい。

全体として、時に原始的な、カオス的とも言えるような響きが迫ってくる一方、それが時間的にも空間的にも計算され尽くしたかたちで、つねに独特の明確さと劇性をもって響いてくるのが、この作曲家の音楽の特徴と思われた。音楽の構成として一番面白かったのは、最初に演奏された、金管楽器、打楽器とコントラバスのための《ある想像の風景》かもしれない。何者かが影絵のように立ち現われる瞬間が、劇的に、かつ空間的な移動を感じさせるかたちで魅力的に表現されていたが、演奏がいささか精度を欠いたのが惜しいところ。

出現や移動の瞬間の面白さはいくぶん後退するものの、やはり聴き応えがあったのは、最後に演奏された、大規模な管弦楽のための《エクソディ──23:59:59》。どこかストラヴィンスキーの《春の祭典》を思わせる原始的なモティーフが、楽器群を替えつつダイナミックに蠢き、儀礼的なメロディが遠くから聞こえてくる巨大な時空間が、すみずみまで緻密に設計されている。すべてが消え去って、柔らかな響きだけが残る曲の終わりは心憎いばかり。

それに比べると、弦楽器が響きの下地を作る上に、独奏ヴァイオリンと管弦楽が、ほぼ全曲にわたって呼応し合うヴァイオリン協奏曲は、近作とはいえ、やや美しくまとまりすぎている印象を受けたが、ダニエル・ホープの独奏の巧みさもあって、曲の面白さは充分に伝わってくる。細かいモティーフが、ヴァイオリンの弓の弾性を駆使して、目眩く時空間のなかの点に音を嵌めることを要求するので、非常に高度な右手の技術が要求されていようが、ホープはそれに見事に応えていた。そのような独奏のエコーを聴かせるオーケストラのパートの難しさも相当なものであろうが、東京交響楽団の各奏者は、素晴らしい集中力を持って、見事に独奏との丁々発止の掛け合いを繰り広げていた。ステファン・アズベリーの誠実な指揮ぶりも好ましい。

ホープのヴィヴラートの少ない、音程の正確さが伝わる音を聴いていて、もしかするとこのヴァイオリニストは、現代音楽と古楽を連続的に捉えているのかもしれないと思ったが、もしかするとバートウィスルもまた、パーセルらの音楽がグローブ座に鳴り響いていた時代からの音楽の伝統を、新たなかたちで現代の舞台空間のなかに、新たな響きをもって甦らせようとしているのかもしれない。バートウィスルの音楽については、theatricalityということがしばしば言われるようだが、今夜演奏された3曲を聴いて、パーセルがシェイクスピアの上演のために音楽を書いたり、あるいはミルトンらがギリシア神話や聖書の素材を新たな時空間のなかに配置し直して、その劇性を詩の響きに甦らせたりしてきた伝統が、バートウィスルのなかにも脈々と息づいていることを感じ取ることができた。

■懸田貴嗣/渡邊孝Duoリサイタル「ランゼッティと同時代のナポリ・バロック」[2013年5月24日/東京オペラシティ近江楽堂]

オペラシティの近江楽堂で、懸田貴嗣と渡邊孝のデュオ・リサイタルを聴く。「ランゼッティと同時代のナポリ・バロック」と題されたこの演奏会で取り上げられた曲のうち、聴いたことがあるのはドメニコ・スカルラッティのニ長調のソナタくらいで、あとはすべて初めて耳にする曲ばかりだったが、いずれの曲にも魅力的な特色があって、音楽を心から楽しむことができた。この時期のチェロ音楽の充実を示すサルヴァトーレ・ランゼッティの2曲のチェロ・ソナタを両端に置き、そのあいだに彼の師に当たるというフランチェスコ・シプリアーニや、アレッサンドロとドミニコのスカルラッティ父子の作品などを挟むプログラムの構成も見事。

聴きながら思い出したのが、今秋広島で上演されることになっているヴォルフ=フェラーリのオペラ『イル・カンピエッロ』で、ヴェネツィアを舞台としたそのオペラの主人公の一人は、当時勢い盛んなナポリから来たという騎士に憧れ、恋に落ちるのだが、このオペラの原作であるゴルドーニの戯曲が書かれたのが1756年で、ちょうど今回取り上げられた作曲家たちが晩年を迎える頃。その頃のナポリの音楽文化の豊饒さの一端に触れる思いだった。なかでも気に入ったのが、シプリアーニがチェロのために書いた2曲のトッカータで、線の太い一筆書きのような曲のなかに、躍動的なリズム、豊かな歌、それに転調の面白さが凝縮されている。一つの音から音楽が脈々と、躍動感をもって溢れ出てくる懸田のチェロも作品に相応しい。そのうちニ短調のトッカータが、アレッサンドロ・スカルラッティのチェンバロのためのニ短調のトッカータと、曲想においても見事に呼応していて、瞠目させられた。

その息子のドメニコのソナタも、渡邊のチェンバロで聴くと、実に音色が豊かで、響きの立体的な存在感も実に輝かしい。当時のナポリの自信のようなものを感じた。ハイドンの師にあたるというニコラ・ポルポラのチェロと通奏低音のためのソナタには、どこかボッケリーニのような絵画的な面白さがある。とはいえ、今回聴いたなかで、チェロのための音楽として最も熟していると思われたのは、やはりランゼッティのソナタ。師のシプリアーニよりもやや装飾的な音楽を基調としながら、チェロの音色の多様性を見事に生かした音楽で、18世紀後半のナポリにおけるチェロ音楽の成熟を実感した。こうした音楽を聴くと、従来の音楽史の捉え方がいかに一面的であったかがよく分かる。 ナポリを中心に、この時代の音楽を発掘し、優れた演奏で伝える活動にこれからも注目していきたい。

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フランシス・ベーコン展を見て

舞踊家をはじめとする幾多の表現者や思想家を惹きつけてきた20世紀の画家フランシス・ベーコン。そのアジアで初めてという大規模な回顧展が、東京国立近代美術館で開催されているのを見ることができた(2013年5月1日)。人間の身体とその変貌を生涯描き続けたといってよい彼の作品は、時にこちらに吠えかかってくるようであり、あるいは時に見る者の居心地を悪くさせるまでに身体の襞を掘り下げているようでもある。そのような彼の作品に、尖った魅力を感じながらも、ずっと何か摑めないもどかしさを感じていた。今回、1940年代に始まるベーコンの活動の初期から最晩年に至る作品ををまとまったかたちで見ることによって、彼が目指そうとしたものの一端に触れられたように思われる。

初期のベーコンは、人間の身体を凝視することで、それが別のものに変貌していく移行の瞬間を捉えていようとしているように見える。なかでも《屈む裸体のための習作》(1952年)は、屈曲する身体が、肉体としての最後の輝きを発しながら量塊と化していく瞬間を、見事に画面に定着させていよう。それはどこか、靉光が動物園のライオンを肉の塊のように描いた連作を思い起こさせるが、ベーコンの作品において目を惹くのは、影のように下に顔が映るのが、どうしても顔そのものが落ちているようであること。そこでは、人間の匿名化と身体の物質化が奇妙に符合しているように見えてならない。

この作品と同時期に始まる、カトリック教会の教皇や枢機卿をモティーフとする一連の作品もまた、身体の変容を追求するものであるが、そこでは身体の統合の崩壊がさらに進められている。この点からは、例えば同じアイルランド出身のジェイムズ・ジョイスらも抱いていたであろう、カトリックの聖職者に対する複雑な思いがうかがわれるが、この宗教的な精神性を代表すべき者の身体が、世俗性の極限においてどのような相貌を呈しうるのかを、ベーコンは、僧服を纏った聖職者の姿の物体としてのありさまを仮借なく描くことによって追求している。《座る人物像(枢機卿)》(1955年)では、枢機卿の身体が、同じ椅子に長時間座り続けるなかで溶け出してしまっているようだ。名高い《叫ぶ教皇の頭部のための習作》(1952年)では、幾重にも、あるいは幾人もの恐怖が一人の人間の内部で折り重なり──教皇の両眼には、エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』のオデッサでの虐殺のシーンで戦慄する乳母の両眼が重ねられているという──、顔が匿名の叫びそのものと化す瞬間が、フランス・ハルスを思わせるような素早いタッチで捉えられている。

このようなベーコンの挙措は、けっして聖職者とその聖性をたんに冒瀆することを意図するものではなく、むしろその世俗の身体を、そこに宿る生命を、その自由において肯定しようとする試みだったのではないか。しかも、そのために身体の物体化と断片化がむしろ祝福される。哲学者ジル・ドゥルーズを惹きつけたのもこの点なのかもしれない。そして、身体の歪曲と解体によって、生きることの自由を回復する回路は、ベーコンにとっては、やはり聖なるものの解体をつうじて探られなければならなかったようだ。1960年代後半からは、伝統的に祭壇画の形式として聖性が象徴される場をなしていた三幅対の画面が、ベーコンの生の肯定としての絵画の現場となるのである。

三幅対の画面を用いるにあたり、ベーコンは、三つの画面の物語的な関連を徹底して排しながら、断片化された身体の運動のある局面をそこに配置することで、解体された三幅対──それは、今回の展示を辿るとき、人生の三段階を人間に問うスフィンクスの変貌の果てにあるものにも見える──を、異形の身体による対の遊びに構成し直している。あたかもその遊戯のうちに自由が浮かび上がることを目指すかのように。その際彼は、《ジョージ・ダイアの三習作》(1969年)をはじめとするいくつかの作品に見られるように、一瞬の表情のうちに浮かび上がる顔の窪みや襞を徹底的に掘り下げたり、あるいは鍵を回すといった回転運動をモティーフとして、それによって強調されて浮かび上がる身体の局所を切り出したりしている。こうしてベーコンは、今や身体を屈ませるだけでなく、回転させ、歪ませ、解体することによって、人間の身体に物体としての可塑性を取り戻させようとしている。今やこのような迂路だけが、生きることの自由を回復する道筋なのかもしれない。ベーコンの三幅対は、解体された身体の無限の可塑性と、それにもとづく新たな自由とが暗示される場と考えられる。

もしかするとベーコンは、かつて一個の全体としてアウラを放っていた人間の身体の有機的な統合を破壊し、その歪曲され、解体された姿を、その可塑性において画面に定着させることによって、身体が新たなアウラを発するようになるとさえ考えていたのかもしれない。ムンクの一連の「心霊写真」を思わせる仕方でゆらめく身体が、三幅対のうちに描き出されているのを見るとき、またベーコンのエクトプラズムへの関心を聞くとき、そのように想像が駆られるが、ともあれ、物体と化しながらも一定の量感を保つ身体の、そのある局所の、移ろい行く瞬間の相貌を描き出すことで、生の根源的な自由を思い起こさせるところに、ベーコンの20世紀後半の具象画家としての本領の一つがあるのは確かと思われる。それが今回の展覧会で最も美しく発揮されていたのが、ガルシア・ロルカによる闘牛士への追悼詩にもとづくという晩年の《三幅対》(1987年)ではないだろうか。鮮やかなオレンジの上で身体の断片が、不思議な存在感と生命感をもって輝きを放っているのが、非常に印象深い作品である。