フランシス・ベーコン展を見て

舞踊家をはじめとする幾多の表現者や思想家を惹きつけてきた20世紀の画家フランシス・ベーコン。そのアジアで初めてという大規模な回顧展が、東京国立近代美術館で開催されているのを見ることができた(2013年5月1日)。人間の身体とその変貌を生涯描き続けたといってよい彼の作品は、時にこちらに吠えかかってくるようであり、あるいは時に見る者の居心地を悪くさせるまでに身体の襞を掘り下げているようでもある。そのような彼の作品に、尖った魅力を感じながらも、ずっと何か摑めないもどかしさを感じていた。今回、1940年代に始まるベーコンの活動の初期から最晩年に至る作品ををまとまったかたちで見ることによって、彼が目指そうとしたものの一端に触れられたように思われる。

初期のベーコンは、人間の身体を凝視することで、それが別のものに変貌していく移行の瞬間を捉えていようとしているように見える。なかでも《屈む裸体のための習作》(1952年)は、屈曲する身体が、肉体としての最後の輝きを発しながら量塊と化していく瞬間を、見事に画面に定着させていよう。それはどこか、靉光が動物園のライオンを肉の塊のように描いた連作を思い起こさせるが、ベーコンの作品において目を惹くのは、影のように下に顔が映るのが、どうしても顔そのものが落ちているようであること。そこでは、人間の匿名化と身体の物質化が奇妙に符合しているように見えてならない。

この作品と同時期に始まる、カトリック教会の教皇や枢機卿をモティーフとする一連の作品もまた、身体の変容を追求するものであるが、そこでは身体の統合の崩壊がさらに進められている。この点からは、例えば同じアイルランド出身のジェイムズ・ジョイスらも抱いていたであろう、カトリックの聖職者に対する複雑な思いがうかがわれるが、この宗教的な精神性を代表すべき者の身体が、世俗性の極限においてどのような相貌を呈しうるのかを、ベーコンは、僧服を纏った聖職者の姿の物体としてのありさまを仮借なく描くことによって追求している。《座る人物像(枢機卿)》(1955年)では、枢機卿の身体が、同じ椅子に長時間座り続けるなかで溶け出してしまっているようだ。名高い《叫ぶ教皇の頭部のための習作》(1952年)では、幾重にも、あるいは幾人もの恐怖が一人の人間の内部で折り重なり──教皇の両眼には、エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』のオデッサでの虐殺のシーンで戦慄する乳母の両眼が重ねられているという──、顔が匿名の叫びそのものと化す瞬間が、フランス・ハルスを思わせるような素早いタッチで捉えられている。

このようなベーコンの挙措は、けっして聖職者とその聖性をたんに冒瀆することを意図するものではなく、むしろその世俗の身体を、そこに宿る生命を、その自由において肯定しようとする試みだったのではないか。しかも、そのために身体の物体化と断片化がむしろ祝福される。哲学者ジル・ドゥルーズを惹きつけたのもこの点なのかもしれない。そして、身体の歪曲と解体によって、生きることの自由を回復する回路は、ベーコンにとっては、やはり聖なるものの解体をつうじて探られなければならなかったようだ。1960年代後半からは、伝統的に祭壇画の形式として聖性が象徴される場をなしていた三幅対の画面が、ベーコンの生の肯定としての絵画の現場となるのである。

三幅対の画面を用いるにあたり、ベーコンは、三つの画面の物語的な関連を徹底して排しながら、断片化された身体の運動のある局面をそこに配置することで、解体された三幅対──それは、今回の展示を辿るとき、人生の三段階を人間に問うスフィンクスの変貌の果てにあるものにも見える──を、異形の身体による対の遊びに構成し直している。あたかもその遊戯のうちに自由が浮かび上がることを目指すかのように。その際彼は、《ジョージ・ダイアの三習作》(1969年)をはじめとするいくつかの作品に見られるように、一瞬の表情のうちに浮かび上がる顔の窪みや襞を徹底的に掘り下げたり、あるいは鍵を回すといった回転運動をモティーフとして、それによって強調されて浮かび上がる身体の局所を切り出したりしている。こうしてベーコンは、今や身体を屈ませるだけでなく、回転させ、歪ませ、解体することによって、人間の身体に物体としての可塑性を取り戻させようとしている。今やこのような迂路だけが、生きることの自由を回復する道筋なのかもしれない。ベーコンの三幅対は、解体された身体の無限の可塑性と、それにもとづく新たな自由とが暗示される場と考えられる。

もしかするとベーコンは、かつて一個の全体としてアウラを放っていた人間の身体の有機的な統合を破壊し、その歪曲され、解体された姿を、その可塑性において画面に定着させることによって、身体が新たなアウラを発するようになるとさえ考えていたのかもしれない。ムンクの一連の「心霊写真」を思わせる仕方でゆらめく身体が、三幅対のうちに描き出されているのを見るとき、またベーコンのエクトプラズムへの関心を聞くとき、そのように想像が駆られるが、ともあれ、物体と化しながらも一定の量感を保つ身体の、そのある局所の、移ろい行く瞬間の相貌を描き出すことで、生の根源的な自由を思い起こさせるところに、ベーコンの20世紀後半の具象画家としての本領の一つがあるのは確かと思われる。それが今回の展覧会で最も美しく発揮されていたのが、ガルシア・ロルカによる闘牛士への追悼詩にもとづくという晩年の《三幅対》(1987年)ではないだろうか。鮮やかなオレンジの上で身体の断片が、不思議な存在感と生命感をもって輝きを放っているのが、非常に印象深い作品である。

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