下鴨車窓『建築家M』公演を観て

傾いた円形の舞台の中央に積み上げられているのは、デューラーの版画《メレンコリア》を思わせる色褪せた小道具の数々。今や見かけなくなった真鍮の鳥籠の傍には、ひと時代前の「名作集」が積み上げられている。その周りを登場人物は廻る。その循環には終わりがないかのようだ。誰かが消えても、いずれ別の誰かが取って代わるだろう。

5月30日(木)に広島市のアステールプラザにて、そのリージョナル・セレクションの一環として京都の下鴨車窓の『建築家M』の公演が行なわれたが、その舞台は、このような、廃墟と化しつつある虚構の村の新陳代謝のような循環に呑み込まれていく一人の建築家の姿から、現在の日常を覆っている慣性を照らし出すとともに、そこで足掻くなかで感じざるをえない虚しさにまで触れる、寓意性に富んだものだった。

田辺剛の脚本は、カフカの『城』を思わせる設定で始まる。その測量士Kのように村長の邸宅の設計を依頼されて村へやって来た建築家M。彼が書く設計図は、犬の居場所をめぐり、村長の秘書を介して必ず変更を迫られる。しかも、その話の出所すら定かではない。村の周囲に広がる森のように見通しがつかない村の掟──あるいはその森自体が掟の寓意かもしれない──に翻弄される建築家は、一か月も見つからない犬こそが自分を徒労に縛りつけていると思うようになり、『城』に登場する酒場の娘フリーダにどこか似た村長の娘と犬を探しに出る。

物語はこの二人と、村の掟に順応しきった村長の妻、そしてこの妻に取り入ることに成功した「犬ハンター」──彼は外道の獲物で村人を手懐けることも忘れない──の二人との確執を軸に繰り広げられていくが、それを動かしているのは、不在の、しかも生死すら定かではない一匹の犬である。この見えない犬に向けられた想像の葛藤の、息苦しいまでの密度を持った展開が、この作品の本領と言えるだろう。それを隙なく演じきった俳優たちの演技力も、特筆されるべきと思われる。

それにしても、なぜ犬なのだろう。飼い馴らされていないが、村人にこの上なく愛されている犬が、村長の邸宅の設計への注文に表われるように、村の掟を支えているかのようですらある。しかし、なぜ。この問いに対する答えがありえない──村人たちが想像する犬の姿もまちまちだ──ところに、村の掟の理由のなさが、さらには法の力自体の無根拠性が表われているのかもしれない。建築家は、この理由なき掟の力に挑み、それによってますます掟に縛られ、その腐敗した力──ベンヤミンの言う神話的暴力──の前に剝き出しにされていく。

この消息を辿るとき、東日本大震災と福島第一原子力発電所の人災を経験したにもかかわらず、何かが変わるどころか、それ以前に美味い汁──その中身は人の生き血である──を吸っていた「ムラ」人たちがまたぞろ、それも「復興」の名の下で以前と同じように美味い汁を吸い始めているこの国の慣性を思わざるをえない。「前へ」進むことが何も変わらないことであり、生命そのものの危険を撒き散らすことでしかないという逆説に立ち向かうことは、「犬のように」殺されるカフカの『訴訟』のヨーゼフKとも重なる建築家のような運命を辿ることなのか。あるいは、村人たちのように、自分たちの村が沼地に沈んでいくのに身を委せるほかはないのだろうか。

このように考えると、『建築家M』に描かれた沈みゆく村は、現在の状況の出口のなさを、そこで繰り広げられるドラマの密度をもって、恐ろしいまでに鋭く照らし出していることになろう。とはいえ、今忘れてはならないのは、状況の出口のなさが、時に苦い笑いをも誘う寓意的な虚構をつうじて突き詰められていることである。それを産み出す機知はもしかすると、ベンヤミンがメルヒェンのうちに見た、神話の暴力を解体する知恵に通じているのかもしれない。

[2013年5月30日、広島市のアステールプラザ多目的スタジオにて行なわれた下鴨車窓の『建築家M』の公演後、今回の作品の脚本と演出を担当された田辺剛さんと、前回の『人魚』の公演のときと同様、ポストパフォーマンス・トークにてお話させていただきました。]

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