Hiroshima Happy New Ear XIVを聴いて

夏が近づくと、瀬戸内海に面した広島には、「凪」と呼ばれる風の止まるひと時が訪れるようになる。蒸し暑さが身体にじんわりと滲みてくるこの夕暮れ頃のひと時は、この街に時が吹き溜まっていることを感じさせられる時間でもある。そのような時間に汗を滴らせながら佇むなかにも、あの日に起きた出来事の記憶が回帰してくるにちがいない。このとき、出来事はけっして過ぎ去ってはいない。それは現在に浸透しながら、その衝撃の余韻を響かせている。広島に今なお残る原子爆弾の傷を目の当たりにするとは、まさにこの余韻に触れることでもあろう。そうした瞬間に始まる、過去と現在の照応としての想起の経験を、その場とも言うべき過去と現在が相互に浸透した時間とともに、精緻に形象化したのが、渡辺俊哉の新作《影法師》であったと考えられる。渡辺は、広島に生きる、あるいは広島を思う一人ひとりの魂そのものを形成する、過去と現在が共存する時間の風景を、響きの層を細やかに折り重ねながら紡ぎ出し、そこに忽然と、影法師のように立ち現われてくる過去の破片が前景としての現在、あるいは現在を生きる身体と呼応し合う瞬間も、音響の空間性を巧みに構築しながら響かせていた。

このように、今広島において「記憶の継承」の可能性へ向けて掘り下げられるべき想起の経験を、その時間とともに音楽化した渡辺俊哉の《影法師》の世界初演とともに幕を開けた、第14回目のHiroshima Happy New Ear[次世代の作曲家たちIII:2013年6月29日、アステールプラザ・オーケストラ等練習場にて]の演奏会では、もう一曲、次世代を担う作曲家が「ヒロシマ」に向き合った作品が世界初演された。福井とも子の《断歌》である。この表題を聞いて真っ先に思い出されたのが、ルイジ・ノーノの《断ち切られた歌》。ノーノのこの作品が、ファシズムに対するレジスタンスに身を投じたうら若い人々の生が無残に断ち切られるという出来事に迫るものであったとすれば、福井の作品は、歌うことが、すなわちみずからの魂を響かせる生の営みが、自分自身の死を死ぬことすらできないかたちで断たれるような出来事の後で、それでもなお歌うことがありうるとすれば、それはどのようにしてか、という重い問いに、みずからの語法を研ぎ澄ませながら取り組んだものと言えるだろうか。三つの断章により構成される《断歌》の最初の曲「落葉」では、福井が衝撃を受けたという、ダニエル・リベスキンドが設計したベルリンのユダヤ博物館の空虚な空間に無数に散らばる、人の顔を思わせるプレートを通して、過去の記憶が突き上がってくるかのような音響が印象に残る。第2曲「有機的風景」の音楽は、逆説的ながら、無機的な人工物が自然と化して、一つの風景を現出させるさまを思い起こさせるが、過去を想起する現在は、そのような風景の内部にあるにちがいない。第3曲「eve」では、これまでの二曲のモティーフを凝縮させたような強烈な音響が、記憶の衝撃を伝えていた。

渡辺の作品も福井の作品も、「ヒロシマ」という困難なテーマを、過去と接している現在の問題として捉えながら、これに、自分自身の音楽に沈潜するなかから応えようと試みるものと考えられる。それはとりもなおさず、ヴァルター・ベンヤミンが「歴史の概念について」のなかで語る、「今では沈黙してしまった声の谺」の混じった風に触れる身体を引き受けることでもあろう。そのような意志をもった生き方をひしひしと伝えるのが、今回の演奏会で日本初演された細川俊夫の尺八協奏曲《旅X──野ざらし》だったのかもしれない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」という松尾芭蕉の句に着想を得たこの作品は、「野ざらし」、すなわち野垂れ死にしてされこうべを風に晒すことを覚悟しつつ、俳句の道を追求する旅に生きる者の姿を、尺八の音に託しているが、それは生きることの悲しみそのものを響かせるような尺八の歌とともに始まる。不如意そのものであるような生を、風に身を晒しながら生きること、そのなかでこそ、自然そのものと魂の奥底で応え合うことができるし、死者たちの記憶にも呼応することができよう。ただし、そのことは根本的に悲しみとともに経験されざるをえない。そのことを深々と響かせる田嶋直士の尺八の響きのなかから、旅人を取り巻く自然を象徴する室内アンサンブルの響きが、まさにおのずと立ち現われてきた瞬間には、心動かされた。漂泊を生きる身を震わせながら、ひとすじの音を、そして歌を響かせようとする道の途上に、自然がそれ自身の力とともに出現する。その衝撃に煽られながら、時に力強く、また時にたゆたうように響く尺八の音はやはり、細川が長年にわたり追求してきた書の線の動きを感じさせるものと言える。その滲みや擦れが、ここでは、ひとすじの歌が風と響き合うなかに生まれているのだ。その歌は、決然とした覚悟を一瞬響かせた後、風のなかへ消え入っていく。その瞬間の余韻も忘れられない。

今回の演奏会で最後に取り上げられたのは、ジェルジ・リゲティの室内協奏曲。恐ろしいまでに緻密に構成された浮遊する響きが夜の帳を開くさまを、川瀬賢太郎が指揮する広島交響楽団のアンサンブルは、見事に響かせていた。リゲティの演奏困難な楽譜を音にする個々の奏者の技量もさることながら、微細な層が折り重なる響きを織りなすアンサンブルも素晴らしかった。この曲のみならず、新作を含めたすべての曲を完全に手中に収めた川瀬の指揮も特筆に値しよう。続く楽章で、彼方からの呼び声のような響きが蠕動する響きと応え合い、無機的な音の集積が一つの風景を現出させるのを聴くとき、このリゲティの代表作のうちに、それまでの三曲を構成していた語法のいくばくかが、すでにこの作品のうちに含まれていることを感じないではいられなかった。13人の奏者のために書かれた彼の室内協奏曲が、新ヴィーン楽派によって前世紀の初頭に確立された室内アンサンブルの編成の可能性を突き詰めながら、現在の音楽への道を切り開く画期的な作品であることが実感させられる演奏だった。広島の凪が始まろうとするこの時季に、新しい音楽の原点を望みうる最高の演奏で指し示すとともに、広島に吹き溜まった時に回帰してくる記憶に身体を震わせながら呼応する歌の可能性を開く、そんな新しい作品の誕生の場を開いた今回の演奏会は、それ自体、広島の音楽史にとってエポック・メイキングな出来事だったと考えられる。

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