殿敷侃の点描

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《釋明昭信女A》

足袋に残された皺は、持ち主の足の形のみならず、その身のこなしや佇まいをも物語っているにちがいない。その内側には、持ち主の汗や垢のみならず、床と土を踏みしめた記憶も沈着しているだろう。そのような足袋が、漆黒の闇のなかから、異様な存在感をもって浮かび上がってくる。広島県の廿日市市役所の隣に設けられている、はつかいち美術ギャラリーで開催されていた展覧会「殿敷侃──現代社会への警鐘」(2013年8月1日~9月1日)で目にした《釋明昭信女》(1978年)と題された殿敷侃(1942~92年)の絵画は、この戒名を授かることになった母親への哀惜に捧げられた作品と言えようが、それは足袋の右片方だけを、その皺のみならず、染みや色のくすみに至るまで、恐ろしいまでに緻密に描くことによって、この足袋を履いて生きていた者の存在を、その生きざまとともに伝えながら、その不在を突きつけてもいる。

殿敷の母親は、夫を探して原子爆弾が投下された直後の広島に入り、負ぶっていた当時3歳の殿敷とともに二次被爆した。足袋の肌理には、その後遺症と経済的な困窮に苦しみながら息子を育てた母親の過酷な生の記憶が染みついていよう。《釋明昭信女》の画面は、張りつめた静けさに貫かれたなかに、時間を積み重ねて生じた足袋そのものの質量を、ただならぬ気配をもって浮かび上がらせているが、それによって殿敷は、母親がもういないことを噛みしめているように見える。もう一つ、細密な点描で母親が身に着けていたものを描いて母親を哀悼する作品に、母親の襦袢を描いた《釋明昭信女A》(1978年)があるが、それは、無造作に広げられた襦袢を描き出して、蝕まれた身体をかつて包んでいたことを痛切に感じさせる。

母親の足袋も襦袢も、点描で描かれている。無数の点によって、履き込まれた足袋が、着込まれた襦袢が浮き彫りにされているのだ。一つひとつの点を打ち込む筆の尖端には、母親に寄せる思いが、その生命を蝕み、奪った原子爆弾への怨念などとともに、凝集していたにちがいない。殿敷の点描は、自分自身の記憶と思いを研ぎ澄ませ、一つひとつの点に凝縮させながら、一つの形象を浮き彫りにする技法として見いだされたのではないだろうか。そのように、点描が第一次的には自分自身へ向かうものであることを示しつつ、爆心地に佇む自分の像を描き出したのが、《自画像の風景》(1975年)と言えよう。この作品は、細密でありながら異化されている──右眼だけが、別人の眼のように大きく開いている──と同時に、死骸のような冷たさをもった殿敷自身の姿を、不穏な背景のなかに浮かび上がった広島の廃墟の上に出現させている。それが屹立する様子は、何かに、おそらくは忘却に抗うようでもある。もしかしたら、敗戦から30年後の年──それは「復帰」した沖縄で「海洋博」が催された年でもある──に描かれた殿敷の自画像においても、靉光らの自画像と通底する抵抗が貫かれているのかもしれない。

この《自画像の風景》は、自画像の周りにシュルレアリスム的とも見えるモティーフを配して、どこか寓意的でもある。そのなかでとくに印象的なのが、前景に置かれた段ボール箱のなかから、原子爆弾のキノコ雲が立ち上っている様子。原爆投下の記憶は、けっして封じ込められることなく噴き出てくることを暗示しているのだろうか。その傍らでは、殿敷の頭部が白骨化していくのが描かれている。この作品は、一つの出来事が過ぎ去ることなく記憶に甦ってくる動きと、二次被爆によって蝕まれた自分の身体──それは記憶の場でもあるのだけれども──が朽ちていく動きという、相反する動向を一つの画面のなかで対峙させているのかもしれない。この作品における殿敷の自画像は、両者がせめぎ合うなかに立っているようだ。そして、画面全体は、この作品の殿敷に直接の影響を与えたであろうシュルレアリスムの絵画のみならず、アウシュヴィッツで惨殺されたフェリックス・ヌスバウムの、自嘲的とも言える寓意性を示す作品を思わせるところもある。

ところで、後に銅版画でも突き詰められることになる殿敷の点描は、モティーフを細密に描き出すのみならず、無機的な物が持つ、人の手を拒むかのようなざらざらとした質感を表現するものでもあろう。被爆死した父親の唯一の遺品である鉄兜と、それが発見された場所の煉瓦とを描いた《釋寛量信士》(1977年)や、原爆ドームの下に散乱する瓦礫の一つを拾い上げた《ドームのレンガ》(1977年)では、殿敷の点描のそうした特徴が強く表われているように見える。いや、生き物も、《カニ》(1977年)などが示すように、人が知るのとは別の相貌を帯びながらこちらへ迫ってくる。こうした、言わば物自体に迫ろうとするアプローチも、靉光に通じるものであろう。靉光は、きわめて緻密な筆遣いによって、殿敷は、研ぎ澄まされた点描によって、物を解き放とうとしたのではないだろうか。

廃物の集積を自然の空間に解放しようとしたり、自然の力を食い込ませることで建築物を廃墟の相において現出させようとしたりする、殿敷の早すぎた晩年の美術館をはみ出した行き方は、1982年にカッセルの「ドクメンタ7」でヨーゼフ・ボイスの《7000本の樫の木》に接したことをきっかけとして始まったと語られることが多いが、たしかに直接のきっかけはそこにあるとしても、潜在的にはすでに点描のなかで、こうしたインスタレーションやパフォーマンスにおいて実現されるべきことが試されてきたのではないだろうか。点描で描かれた《クシ》や《ノコ》が密やかに何かを語り始めるように、自然の樹木の上に、あたかもそこから生えてきたかのように置かれた古タイヤも、そのひび割れから、それが経てきた歳月を物語り始めるにちがいない。その声をいつか聴いてみたいと思う。