バーバラ・ハンニガンの声に触れて

それはあたかも、血腥い闇を振り払い、抑圧の歴史を断ち切る新しい日の訪れを渇望する若い女性の魂が、声となって立ち現われてきたかのようだった。Hiroshima Happy New Earの第15回の演奏会[2013年9月8日/アステールプラザオーケストラ等練習場にて]で、歌うことの新たな地平を切り開く一つの出来事と言うべき歌唱を聴かせてくれたバーバラ・ハンニガンは、終演後のトーク・セッションのなかで、歌うとき自分は、作曲家が書いた、詩と不可分である音楽そのものになろうとすると語っていたが、この演奏会の冒頭で彼女が歌った、ルイジ・ノーノの《生命と愛の歌》の第2曲「ジャミラ・ブーパシャ」を聴きながら、ノーノの音楽の精神が、ジャミラ・ブーパシャという女性の魂と一つになって響くのに触れている思いがして、身震いを禁じえなかった。この曲でノーノがひとすじの歌に凝縮させた、アルジェリアの解放へ向けた闘いに身を投じ、牢獄に囚われたこの女性が抱く生とその未来への渇望そのものが、深い闇のなかから響き出て、その闇を切り裂くのを目の当たりにするようだった。

次に演奏されたクロード・ヴィヴィエの《夜への讃歌》は、ノヴァーリスの同名の長編詩の一部を詩に用いた作品だが、この曲でハンニガンは、無限に広がりゆく世界をその起源から詩のかたちで浮かび上がらせようとするノヴァーリスの想像力に呼応しようとするヴィヴィエの瑞々しい感性が結晶した歌を、しっとりと、かつ非常に細やかに──実際、楽譜には細かい歌唱法の指定がある──響かせていた。そのような彼女の歌は、切り詰められた音の配置から奥行きある空間を現出させる中川賢一のピアノと相俟って、夜の深淵の上を静かに歩むように聴こえた。

ヴィヴィエの後に演奏された、アーノルト・シェーンベルクの作品2の《四つの歌》も、休憩を挟んで演奏されたアルバン・ベルクの《初期の七つの歌曲》も、ロマン主義的な歌曲芸術を、それが自己崩壊する極点まで突き詰めながら、次の時代の歌の世界を開こうとするものと言えようが、ハンニガンはいずれの作品においても、詩に込められた感情の揺れ動きや、詩の言葉が一つの風景を開く動きと一体となった音楽を、きわめて自然な、いやおのずと響いてくる──すなわち、優れた意味で自然な──歌として聴かせていた。そのなかから言葉が明晰に、かつ意味深く響いてくる。詩と音楽が一つになる歌曲の精髄が、きわめて高い完成度において具現された希有な瞬間だった。そして、詩と音楽の一体性を追求したとき、音楽が──従来の視点からすれば──断片にならざるをえないことも、深い余韻とともに示した演奏だったように思う。

ハンニガンは、シェーンベルクの初期作品においてはどちらかと言うと、「高揚」のような曲に聴かれるその音楽の若さを強調していたように思えたが、ベルクの歌曲においては、「夜鳴き鶯」や「室内にて」のような曲に聴かれる恋心の瑞々しい発露のみならず、夜のなかへ沈み込んでいこうとする音楽の動きも、非常に大きな、それでいて自然さを失うことのない表現の振幅をもって聴かせていた。静かな箇所など闇のなかにたゆたうかのような彼女の歌に耳を傾けながら、一つの歌の世界が、若さのなかで翳りつつあることとともに、その翳りのなかから『ヴォツェック』などへ連なるベルクの世界が開かれつつあることに思いを馳せていた。

もしかすると、そのようなベルクの世界は、「星の間に間に見捨てられ」のような曲に聴かれるクルト・ヴァイルの世界に通じているのかもしれない。最後にヴァイルが亡命後に書いた三つの歌が演奏されたが、ハンニガンの演奏は、恋人に、そして神に見捨てられた一人の人間の悲哀を、酒の臭いが漂うなかに腹の底から吐き出すものではなく、むしろベルクらにも通じる、優れて音楽的な歌に昇華させるものだった。「シャンソン」や「ソング」として聴こうとする向きには物足りないものがあるかもしれないが、これはこれで、ヴァイルの音楽性を発揮させた演奏と思われる。ここでも詩と歌の自然な結びつきが印象的で、「あなたを愛してないのよ」など、自分を捨てた恋人へのやるせない思いそのものを聴くようでもあった。音楽と言葉を一つにする声を響かせ、何かがおのずと現れてくる場を開くバーバラ・ハンニガンは、一つの媒体、ないしは一人のシャーマンと化しながら、歌の可能性を指し示している。これからも彼女は、世界中の舞台に立ちながら、媒体としての歌をいっそう研ぎ澄ませていくにちがいない。

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サントリー芸術財団Summer Festival 2013より

9月の3日と5日に、サントリー芸術財団が主催するSummer Festival 2013の一環として行なわれた、サントリーホール国際作曲委嘱シリーズの演奏会を聴かせていただきました。今年のテーマ作曲家は細川俊夫さんで、9月3日に開催されたのは、細川さんの弦楽四重奏曲を、最初期の作品から最新の作品まで通観する演奏会、5日に開催されたのは、サントリーホールからの委嘱作品である細川さんのトランペット協奏曲《霧のなかで》の世界初演を中心とする管弦楽作品の演奏会でした。

9月5日の演奏会の開演前には、プレ・トークが行なわれ、その聞き手を務めさせていただきました。先頃ザルツブルク音楽祭で世界初演されたソプラノとオーケストラのための《嘆き》や、演奏会で一部が取り上げられるオペラ『松風』など、最近の作品について、世界初演を迎えるトランペット協奏曲《霧のなかで》について、そしてこの国際作曲委嘱シリーズの創設者である武満徹さんの遺志に沿って、細川さんが最も影響を受けた作曲家と最も将来を嘱望する作曲家の作品を取り上げた、演奏会のプログラム全体のコンセプトについて、細川さんにお話をうかがいました。

それから、Summer Festival 2013のプログラムには、「照応のなかに開花する〈うた〉へ──細川俊夫の近作に聴く〈うた〉の探究」と題するささやかなエッセイを寄稿させていただきました。人間が飼い馴らすことのできない自然との、宇宙的とも言える照応関係が身体的に生きられるなかから開花する〈うた〉、この自然と共振する魂の内側から響き出る〈うた〉を追求する細川さんの作曲活動を、先頃広島で日本初演された尺八協奏曲《旅X──野ざらし》、ベルリンなどで再演されたオペラ《松風》、9月3日にも取り上げられた弦楽四重奏曲《開花》などのうちに見届けようとするものです。

9月3日と5日の演奏会の印象を、それぞれ短く記しておきます[すでにFacebookの私のウォールに記したことと内容的に重なっている点、ご容赦ください]と、まず、9月3日に開催されたディオティマ弦楽四重奏団による、細川俊夫さんの弦楽四重奏曲を集めた演奏会[サントリーホール小ホール「ブルーローズ」]では、このクァルテットの研ぎ澄まされた響きによって、細川さん独特の書の線をなす響きに込められた動きや歌が、余すところなく、かつ濃密な時間のなかで表現されていたのが、非常に感銘深かったです。響きの繊細さが、曲の特色を生かすかたちで発揮されたのが、最新の《遠い声》の演奏で、雲が漂うようにゆったりと流れ、時折笙の音を思わせる響きのなかに、繊細な、自然と感応するなかから歌い出される密やかな歌が、歩むように響いているのを聴くことができました。6月に世界初演されたばかりで、この日の演奏が日本初演だったこの曲は、深く聴くことに誘う一曲と思われます。

また、4つの楽器の音が、ごく近い音で静かに折り重なるなかから音のドラマが展開するのは、最初に1980年の《原像》から変わらない細川さんの弦楽四重奏曲の特徴で、とくにこの最初期の作品では、張りつめた響きのなかから、強い情念を感じさせる音楽が高まっていきます。濃密な沈黙もこの作品の特徴をなすもので、そこにチェロのピツィカートが打ち込まれ、そこからクァルテット全体で琵琶の即興演奏のような音楽が展開する一節がとくに印象深かったです。そこを聴きながら、あるいはコル・レーニョの連打が内的な葛藤を表現する一節を聴きながら、広島で聴いた、これも最初期のヴァイオリン独奏のための《ウィンター・バード》や、武満徹さんの1960年代の作品を思い出しました。

これらの2曲のあいだには、《開花》、《沈黙の花》、そして《書》からの4曲が演奏されましたが、それらの演奏は、ディオティマ弦楽四重奏団が曲を完全に手中に収めていることを感じさせる、見事なものでした。《開花》では、憧れに満ちた歌と、深いところから高まっていく生命の蠢きとの対照が、《沈黙の花》では、移ろいのなかの濃密な音楽の展開が、洗練された響きで、かつ深い音楽的な必然性をもって鳴り響いていました。《書》のまさに一筆の線は、つい先日武生で聴いたときより、さらに鋭敏さを増したような気がします。《原像》から《遠い声》まで、細川さんの弦楽四重奏曲にひとすじの線が貫かれていることに深く聴き入ることができた演奏会でした。

9月5日の管弦楽作品の演奏会[サントリーホール大ホール]では、近作のオペラ《松風》より松風のアリアと委嘱作品のトランペット協奏曲《霧のなかで》を中心に、このシリーズの創設者である武満徹の志に沿って、細川俊夫が影響を受けた作曲家として、ジェルジ・リゲティの作品として《ミステリーズ・オヴ・マカーブル》が、また将来を最も嘱望する作曲家の作品として、フランチェスコ・フィリデイさんのチェロ協奏曲《全ての愛の身振り》が演奏されました。オーケストラは、準メルクルさん指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。すべての作品を優れて音楽的な流れをもってわがものにした指揮の下、献身的とも言える素晴らしい演奏を繰り広げていました。

まず、フィリデイさんの作品では、死を予感させる大太鼓の音が打ち込まれるなかから、怯えるような繊細な響き──彼自身が親しんでいるオルガンの響きを思わせます──が浮かび上がった後、特殊奏法や噪音も駆使しつつ、複雑ながらも厳密なリズムで構成されたチェロの独奏が、オーケストラとよく噛み合いながら凄まじいまでのクライマックスを築いていくのに圧倒されました。そこには、どこか死の不安に駆られながら、生に、その象徴としての愛することにしがみつくことの狂おしさも表現されていたように思います。チェロの最低音がチューニングを下げながらオーケストラの低音と溶け合って、そこから浄化された響きが、生の根底から響くように立ち現われてきたのには、感動を覚えました。作品の要求に見事に応える多井智紀さんの独奏も素晴らしかったです。

次に演奏されたのが、細川俊夫さんのオペラ『松風』より、松風のアリア。曲は、オペラの前奏曲と、主人公の松風が松の木陰に在原行平の姿を幻視し、それと忘我のうちに一体化していく第4景の音楽によって構成されており、松風の妹の村雨のパートを、イェルーン・ベルヴァーツさんのトランペットが担当しました。松風を歌うのは、オペラの初演でも歌ったバーバラ・ハンニガンさんです。サンプリングされた水音のなかから立ち上がる、気配を感じさせる響きが夜を現出させ、海辺の風景を形づくっていきます。そこに松風の声が、行平の名を呼びながら静かに入り込んできて、行平を思いのなかで追いながら高まっていく過程が、湧き上がる情念に身を捩らせるかのような、激しい動きをもった線をなしながら、松風の狂おしいまでの思いを響かせていました。ハンニガンさんの声は、この曲に求められる妖しいまでの艶やかさと、空間を突き抜けるような強さとを兼ね備えていて、とくに行平の狩衣を掻き抱いて忘我の境地に至ろうとする瞬間は、強い印象を残しました。

休憩を挟んで、細川さんのトランペット協奏曲《霧のなかで》の世界初演が行なわれました。海鳴りのような響きも聴こえるなかから、漂うような響きが徐々に立ち上がってきて、そのなかに独奏トランペットが、静かに歩むように響いてきます。やがて、霧をなすオーケストラの響きが高まってきてうねりをなし、人を圧倒する力を持って押し寄せてきます。その波の大きさは、今までに耳にしたことのないほどのものでしたが、それとともに、波に巻き込まれてもがくかのようなトランペットの独奏が強い印象を残しました。独奏を担当したベルヴァーツさんは、輝かしい音と素晴らしい技巧で、時に霧を突き抜けるような音を響かせながら、時折マウスピースを取り、ミュートを付けた楽器を通して、魅力的な声も響かせていました。ミュートを替えるごとに声色を変えるその声は、オーケストラの響きのなかからだと、深いところから聴こえるようでもあり、深く聴くことに誘う歌を響かせるようでもありました。最後に、ミュートを付けたトランペットの音が、風のような響きのなかへ消え入っていく瞬間は、旅人が霧のなかへ歩み去っていくさまを思わせるもので、感銘深かったです。

最後に、リゲティのオペラ『ル・グラン・マカーブル』より、ゲポポのアリアを中心に構成された《ミステリーズ・オヴ・マカーブル》が演奏されましたが、ここではハンニガンさんが歌いながら指揮を執り、一つのオペラティックでもあり、舞踏的でもあるようなシーンを現出させていました。歌うだけでも大変な技巧を要し、指揮するのにも高度な技術を要するこの曲を、ハンニガンさんは完全にわがものにしていて、圧倒されます。根拠なき恐怖に駆られ、過度に緊張したゲポポが、リゲティの哄笑を聴かせるようなアンサンブルの響きと、丁々発止の遣り取りを繰り広げながら、歯車が狂うように狂気に陥っていくさまを、ハンニガンは聴き手を拉し去るような速度感を持ったパフォーマンスで表現していました。この夜演奏されたいずれの曲も、生きることの底にある狂おしさを、音楽ですくい取ろうとする深い〈うた〉に満ちていて、演奏会全体としても深い感銘を残しました。そのことは、生涯にわたり〈うた〉を愛し続けた武満徹さんの志にも適ったことと思われます。

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武生国際音楽祭2013より

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8月29日から31日にかけて福井県の武生に滞在して、当地で開催されていた武生国際音楽祭2013のいくつかの演奏会やワークショップを聴かせていただきました。3日間で7つのコンサートに3つのレクチャー(!)という、きわめて充実した滞在となりました。落ち着いた雰囲気の街のなかで、ヨーロッパの音楽の古典的なレパートリーと最先端の作品が、ヨーロッパの音楽と日本の伝統が出会い、互いの可能性を照らし出しています。

8月29日の夜には、ピアニストの伊藤恵さんのプロデュースによる演奏会「室内楽の夕べII」を聴きました。最初に伊藤さんと若いピアニストの北村朋幹さんの連弾でシューベルトの《幻想曲》が演奏されたのですが、その演奏が歌に満ちていて感銘を受けました。伊藤さんの迷いのない、かつ温かみのある音楽の運びに乗って、北村さんが実に繊細に歌っていました。山根一仁さんのヴァイオリン独奏によるベリオの《セクエンツァVIII》は、勢いを感じさせながら、どの音もしっかりと鳴らした好演と思います。若い演奏家によるショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番の演奏は、これも勢いのある、かつ作品との格闘も伝わってくるものでした。

この夜とくに素晴らしかったのが、シェーンベルクの《浄められた夜》。演奏の前にリヒャルト・デーメルの詩が、翻訳とともに朗読されたので、詩に描かれた林の情景や、そこを歩く男女の感情の揺れを曲から感じ取ることができます。そして弦楽六重奏による演奏も、詩に込められたものをシェーンベルクが、内側から音楽で汲み取ろうとしていることが伝わる演奏でした。息を呑むような感情の高まりと、耽美的な歌のたゆたいがいかに緊密に構成されているかが聴こえてきます。

30日は、朝からワークショップに参加しました。最初に音楽学者のマックス・二フラーさんのベリオとシャリーノについてのレクチャーを聴きました。ベリオの《オー・キング》における声の使い方、《シンフォニア》におけるトランスクリプションのポスト・モダン的とも言える、画期的な意義、そしてシャリーノの音楽の夾雑物の削ぎ落とされた魅力などについて、興味深いお話を聴けました。とくにベリオが、過去の伝統を引用し、そこから新たな意味を引き出す手法は、次のレクチャーで望月京さんが自作について語っておられたことにも通じます。望月さんも、過去を引用し、文脈からずらすことを組み合わせて、新たな意味を創造したいと語っておられました。このような音楽の行き方には、アドルノよりもベンヤミンの思考のほうがよく当てはまるかもしれません。

その日の昼時には、伊東裕さんと北村朋幹さんのミニ・リサイタルを聴きました。伊東さんのチェロの音は、実に瑞々しく澄んでいますが、北村さんの繊細なピアノが、伊東さんの美質を引き立てていました。シューマンのアダージョとアレグロから瞠目させられました。カサドとイザイの無伴奏の曲も素晴らしかったです。昼食前には、瀧正徳さんの遺墨展も見せていただきました。高村光太郎や萩原朔太郎の詩のテクストを広い紙一面に配した、一語一語に潜在するものが踊り出すような最晩年の作品が、非常に印象的でした。

午後に音楽マネージャーのカルステン・ヴィットさんによる、マネージメントの仕事の変貌について示唆的なレクチャーを聴いた後、夜は音楽監督の細川俊夫さんのプロデュースによる「細川俊夫と仲間たち」を聴きました。最初にマリオ・カローリさんの演奏で、ベリオのフルート独奏のための《セクエンツァI》。澄みきった音が微かな線を形成し、張りつめた静寂を響かせるなかから、多声的ですらあるような豊かな音楽が生成するのが非常に印象的でした。続いて、イェルーン・ベルヴァーツさんの独奏で、ベルント=アロイス・ツィンマーマンのトランペット協奏曲《誰も知らない私の悩み》を、ピアノ伴奏版で聴きました。ジャズ風のリズミックなセクションも、何か悲しみに衝き動かされている感触を受けたましたが、何よりも高音へ向けて嘆きがじわじわと高まっていくような過程が印象的です。ベルヴァーツさんは即興で、表題の黒人霊歌の歌詞を声で歌っていましたが、その歌声はトランペットに劣らず魅力的でした。

それから、ディオティマ弦楽四重奏団の演奏で、細川さんの《書》のうち4曲が演奏されましたが、この弦楽四重奏団の独特の響きがさらに洗練されたことを伝えながら、線を描く運動を緊密なアンサンブルで聴かせていました。一転して、フランチェスコ・フィリデイさんの《狂気の練習》は、四人の奏者が風船を引っ張っては放したり、膨らませたり、さらには割ったりして、複雑なリズム構造をユーモラスに聴かせる一曲。身体的な運動の規則性が狂気へ高まっていきそうでありながら、どこか笑いを誘う、洗練された諧謔に満ちた作品と思いました。最後に演奏されたのは、アルベルト・ポサダスさんの《フラクタルの5つの典礼》より3曲。現代音楽の模範とも言うべき作風ながら、独特の運動への関心が貫いています。個人的には2曲目のヴァイオリン独奏の聴かれる曲が気に入りました。

31日は、この音楽祭の国際アカデミーのマスタークラスを受講した若い演奏家がその素晴らしい成果を発表する演奏会のほか、二つの「新しい地平」コンサートを聴きました。若い世代の作曲家の作品で印象に残ったのは、まずオルレリアン・デュモンさんの《踊る火》。炎の揺らめきが、大きな振幅をもって、かつ緊密なフルートの二重奏によって連綿と表現されていて、曲に引き込まれました。また、カスパー・クアフルトさんが室内アンサンブルのために書いた《同じ地に》は、素材の内発的な発展をしっかりと、また美しく構成した作品で好感が持てます。馬場法子さんの弦楽四重奏のための《9600》と望月京さんの打楽器のための《クォーク──インテルメッツィIII》は、いずれも微細な要素からの運動──前者は機関車の運動で、後者は空間そのものの生成の運動──の発展を、細やかに、かつスリリングな時間の持続のなかに表現しながら、奥行きのある世界を開く作品として、興味深く聴きました。

「新しい地平」コンサートでは、その他にポサダスさんの《Pri em hru》が演奏されましたが、エジプトの「死者の書」に題材を得たこの室内アンサンブルのための作品は、蠢くような動きが、前日に演奏された弦楽四重奏曲よりも色彩豊かに表現されていて、いっそう魅力的に感じました。さらに、こうした現代音楽の発展の原点を示すような作品も取り上げられ、シャリーノの《死の太鼓》とベリオの《セクエンツァIII》の演奏は、いずれも素晴らしかったです。前者は、カローリさんのフルート独奏で演奏されましたが、ひたひたと迫るようなタップ音が続くなかに、切り裂くように聴こえてくる彼の音が凄まじい勢いで、しかも深い余韻を残す美しさも兼ね備えていました。太田真紀さんの声によるベリオの演奏は、声の可能性を極限まで追求した作品の特性をしっかりと伝えながら、気持ちの陰りや高まりも豊かに表現するものでした。

同じ日の午後には、武生の街中にある陽願寺で行なわれた、笙の宮田まゆみさんとリコーダーの鈴木俊哉さんによるお話を交えた演奏会も聴きました。笙とリコーダーの古典的なレパートリーだけでなく、ベリオの《ジェスティ》のような曲もしっかりと演奏されて、非常に古い起源を持つ楽器の潜在力が今に生きていることを伝えておられたのが、とくに素晴らしいと思いました。そのような、聴き手の耳を開く努力が続けられている点も、この音楽祭の特色の一つでしょう。時間がかかるかもしれませんが、その努力が実を結ぶことを願ってやみません。