武生国際音楽祭2013より

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8月29日から31日にかけて福井県の武生に滞在して、当地で開催されていた武生国際音楽祭2013のいくつかの演奏会やワークショップを聴かせていただきました。3日間で7つのコンサートに3つのレクチャー(!)という、きわめて充実した滞在となりました。落ち着いた雰囲気の街のなかで、ヨーロッパの音楽の古典的なレパートリーと最先端の作品が、ヨーロッパの音楽と日本の伝統が出会い、互いの可能性を照らし出しています。

8月29日の夜には、ピアニストの伊藤恵さんのプロデュースによる演奏会「室内楽の夕べII」を聴きました。最初に伊藤さんと若いピアニストの北村朋幹さんの連弾でシューベルトの《幻想曲》が演奏されたのですが、その演奏が歌に満ちていて感銘を受けました。伊藤さんの迷いのない、かつ温かみのある音楽の運びに乗って、北村さんが実に繊細に歌っていました。山根一仁さんのヴァイオリン独奏によるベリオの《セクエンツァVIII》は、勢いを感じさせながら、どの音もしっかりと鳴らした好演と思います。若い演奏家によるショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番の演奏は、これも勢いのある、かつ作品との格闘も伝わってくるものでした。

この夜とくに素晴らしかったのが、シェーンベルクの《浄められた夜》。演奏の前にリヒャルト・デーメルの詩が、翻訳とともに朗読されたので、詩に描かれた林の情景や、そこを歩く男女の感情の揺れを曲から感じ取ることができます。そして弦楽六重奏による演奏も、詩に込められたものをシェーンベルクが、内側から音楽で汲み取ろうとしていることが伝わる演奏でした。息を呑むような感情の高まりと、耽美的な歌のたゆたいがいかに緊密に構成されているかが聴こえてきます。

30日は、朝からワークショップに参加しました。最初に音楽学者のマックス・二フラーさんのベリオとシャリーノについてのレクチャーを聴きました。ベリオの《オー・キング》における声の使い方、《シンフォニア》におけるトランスクリプションのポスト・モダン的とも言える、画期的な意義、そしてシャリーノの音楽の夾雑物の削ぎ落とされた魅力などについて、興味深いお話を聴けました。とくにベリオが、過去の伝統を引用し、そこから新たな意味を引き出す手法は、次のレクチャーで望月京さんが自作について語っておられたことにも通じます。望月さんも、過去を引用し、文脈からずらすことを組み合わせて、新たな意味を創造したいと語っておられました。このような音楽の行き方には、アドルノよりもベンヤミンの思考のほうがよく当てはまるかもしれません。

その日の昼時には、伊東裕さんと北村朋幹さんのミニ・リサイタルを聴きました。伊東さんのチェロの音は、実に瑞々しく澄んでいますが、北村さんの繊細なピアノが、伊東さんの美質を引き立てていました。シューマンのアダージョとアレグロから瞠目させられました。カサドとイザイの無伴奏の曲も素晴らしかったです。昼食前には、瀧正徳さんの遺墨展も見せていただきました。高村光太郎や萩原朔太郎の詩のテクストを広い紙一面に配した、一語一語に潜在するものが踊り出すような最晩年の作品が、非常に印象的でした。

午後に音楽マネージャーのカルステン・ヴィットさんによる、マネージメントの仕事の変貌について示唆的なレクチャーを聴いた後、夜は音楽監督の細川俊夫さんのプロデュースによる「細川俊夫と仲間たち」を聴きました。最初にマリオ・カローリさんの演奏で、ベリオのフルート独奏のための《セクエンツァI》。澄みきった音が微かな線を形成し、張りつめた静寂を響かせるなかから、多声的ですらあるような豊かな音楽が生成するのが非常に印象的でした。続いて、イェルーン・ベルヴァーツさんの独奏で、ベルント=アロイス・ツィンマーマンのトランペット協奏曲《誰も知らない私の悩み》を、ピアノ伴奏版で聴きました。ジャズ風のリズミックなセクションも、何か悲しみに衝き動かされている感触を受けたましたが、何よりも高音へ向けて嘆きがじわじわと高まっていくような過程が印象的です。ベルヴァーツさんは即興で、表題の黒人霊歌の歌詞を声で歌っていましたが、その歌声はトランペットに劣らず魅力的でした。

それから、ディオティマ弦楽四重奏団の演奏で、細川さんの《書》のうち4曲が演奏されましたが、この弦楽四重奏団の独特の響きがさらに洗練されたことを伝えながら、線を描く運動を緊密なアンサンブルで聴かせていました。一転して、フランチェスコ・フィリデイさんの《狂気の練習》は、四人の奏者が風船を引っ張っては放したり、膨らませたり、さらには割ったりして、複雑なリズム構造をユーモラスに聴かせる一曲。身体的な運動の規則性が狂気へ高まっていきそうでありながら、どこか笑いを誘う、洗練された諧謔に満ちた作品と思いました。最後に演奏されたのは、アルベルト・ポサダスさんの《フラクタルの5つの典礼》より3曲。現代音楽の模範とも言うべき作風ながら、独特の運動への関心が貫いています。個人的には2曲目のヴァイオリン独奏の聴かれる曲が気に入りました。

31日は、この音楽祭の国際アカデミーのマスタークラスを受講した若い演奏家がその素晴らしい成果を発表する演奏会のほか、二つの「新しい地平」コンサートを聴きました。若い世代の作曲家の作品で印象に残ったのは、まずオルレリアン・デュモンさんの《踊る火》。炎の揺らめきが、大きな振幅をもって、かつ緊密なフルートの二重奏によって連綿と表現されていて、曲に引き込まれました。また、カスパー・クアフルトさんが室内アンサンブルのために書いた《同じ地に》は、素材の内発的な発展をしっかりと、また美しく構成した作品で好感が持てます。馬場法子さんの弦楽四重奏のための《9600》と望月京さんの打楽器のための《クォーク──インテルメッツィIII》は、いずれも微細な要素からの運動──前者は機関車の運動で、後者は空間そのものの生成の運動──の発展を、細やかに、かつスリリングな時間の持続のなかに表現しながら、奥行きのある世界を開く作品として、興味深く聴きました。

「新しい地平」コンサートでは、その他にポサダスさんの《Pri em hru》が演奏されましたが、エジプトの「死者の書」に題材を得たこの室内アンサンブルのための作品は、蠢くような動きが、前日に演奏された弦楽四重奏曲よりも色彩豊かに表現されていて、いっそう魅力的に感じました。さらに、こうした現代音楽の発展の原点を示すような作品も取り上げられ、シャリーノの《死の太鼓》とベリオの《セクエンツァIII》の演奏は、いずれも素晴らしかったです。前者は、カローリさんのフルート独奏で演奏されましたが、ひたひたと迫るようなタップ音が続くなかに、切り裂くように聴こえてくる彼の音が凄まじい勢いで、しかも深い余韻を残す美しさも兼ね備えていました。太田真紀さんの声によるベリオの演奏は、声の可能性を極限まで追求した作品の特性をしっかりと伝えながら、気持ちの陰りや高まりも豊かに表現するものでした。

同じ日の午後には、武生の街中にある陽願寺で行なわれた、笙の宮田まゆみさんとリコーダーの鈴木俊哉さんによるお話を交えた演奏会も聴きました。笙とリコーダーの古典的なレパートリーだけでなく、ベリオの《ジェスティ》のような曲もしっかりと演奏されて、非常に古い起源を持つ楽器の潜在力が今に生きていることを伝えておられたのが、とくに素晴らしいと思いました。そのような、聴き手の耳を開く努力が続けられている点も、この音楽祭の特色の一つでしょう。時間がかかるかもしれませんが、その努力が実を結ぶことを願ってやみません。

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