受難曲としてのプーランク『カルメル派修道女の対話』

フランシス・プーランクのオペラ『カルメル派修道女の対話』は、フランス革命期の恐怖政治の下でカルメル派の16名の修道女が処刑されたという史実を題材としながら、恐怖の時代に信仰に生きようとする魂の姿を、そこにある動揺や葛藤もろとも、音楽で浮き彫りにしていくところがある。それゆえこのオペラは一方では、無名の民衆が歴史を動かし始めた時代を舞台とする、恐怖に駆られた群衆の存在を背景とした群像劇という性格を持ちながらも、他方で処刑という受難へ向けて祈りが深まっていく過程を、多彩な音楽で重層的に描き出していく、一つの受難曲とも言うべき性格も有している。そもそもバッハの受難曲をはじめとするバロック期の受難曲が、同時代におけるオペラの発展を背景に、独唱や重唱、さらには時に二群に分けられる合唱を器楽と折り重ねながら一つの信仰のドラマを現出させる──それゆえ最近では、バッハの受難曲を演出を加えて上演する例も見られる──ものであることを思い起こすならば、プーランクの『カルメル派修道女の対話』は、オペラと受難曲の融合を、20世紀の音楽をもって成し遂げた作品と見ることができよう。

2013年10月25日に東京オペラシティのコンサートホール・タケミツメモリアルで行なわれた、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団によるプーランクの『カルメル派修道女の対話』の演奏会形式の上演は、この作品の受難曲としての側面を生かしながら、その豊かな音楽をもって、祈りに生きようとする魂のドラマを見事に浮き彫りにするものだったと言える。何よりも素晴らしかったのが、矢崎彦太郎の指揮。プーランクの音楽への深い共感をもって、その多彩さを生かしながら、求心力の高い音楽を最後まで持続させていた。プーランクの特徴とも言うべき、しなやかな歌と弾力性のあるリズムをオーケストラから引き出すと同時に、それまでにプーランクが書いた宗教音楽の集大成と言うべき側面も、凝縮度の高い、深い響きで聴かせていた点は、とくに感銘深かった。死の恐怖や、時代の恐怖に晒された祈りの場を暗示する各場面の前奏──これを作曲家は相当に力を入れて書いたはずだ──が、これほど意味深く響いたことがあっただろうか。入りの歌詞を歌うなどしてそれぞれの歌手に気を配りながら、全体を統率して演奏をまとめ上げた手腕も特筆されるべきであろう。

プーランクの『カルメル派修道女の対話』は、先に触れたように群像劇としての側面も具えているため、上演に際しては、それぞれの登場人物の個性を、さらにはその対立をも際立たせる必要があるが、今回の上演では、歌手たちもそれぞれの持ち味を役柄の個性の表現に生かしていた。なかでも印象的だったのが、半田美和子によるリドワーヌ修道院長。処刑場へ向かう直前の監獄の場面では、それまで救おうと奔走してきた修道女たちを最終的に救えなかったことへの悔恨の思いと、そのなかでもこの「娘」たちを天へ導く責任を全うしようという修道院長としての矜恃とが凝縮された、見事な歌を聴かせていて、深く心を動かされた。声の深さを敢えて強調しながらこの人物が造形されていた点も特筆されるべきと思われる。新しい修道院長と対立する関係にあるマリー修練長の役を歌った秦茂子も、明るく芯の通った声を、時代に抗ってでも、精神において信仰を貫くことへ修道女を導こうとする、強い意志の表現に生かしていた。だからこそ、最終的に殉教への意志を貫けずに、処刑を見守る立場に置かれてしまうことのやるせなさが際立つのだ。コロンえりかは、魅力的な明るい声と振幅の大きな表現で、自分の生を純真かつ懸命に生きるがゆえに、生と死に対して時に深い洞察を示すコンスタンス修道女の役を見事に歌っていて、強い印象を残した。小林真理によるドゥ・クロワシー修道院長は、最終的に瀆神的にすらなるまでに病の苦しみと死の恐怖に苛まれる人間の深みを、迫真の表現で抉り出すものだったように思う。騎士と司祭の二役を演じた与儀巧は、妹としても女性としても愛したブランシュを救い出せないことに対する騎士の苦悩と、信仰の場を奪っていく時代の動きを止められない司祭の苦悩との双方を、張りのある輝かしい声で際立たせていた。浜田理恵によるブランシュ役は、この人物の儚さを、もう少し響かせるものであってもよかったかもしれない。

今回の上演では、歌手たちによる人物の造形のみならず、声のアンサンブルも見事だった。このオペラにいくつも差し挟まれている聖歌が、澄んだ響きで、まさに祈りの歌として立ち上がるのには、強い感銘を受けた。合唱団(東京シティ・フィル・コーア)のアンサンブルも加わった処刑場での「サルヴェ・レジナ(元后あわれみの母)」は、時代の恐怖をも突き抜ける強い意志を示すものとして響いていたと思う。しかし、そのなかにもギロチンの刃は仮借なく落とされる。今回ギロチンの落ちる音は、シンバルと大太鼓で表わされ、実際に処刑された16名分16回、舞台の床が鳴るほど強く打ち落とされた。これを楽譜に記された音としてしっかり響かせたのも、矢崎の見識であろう。ここに極まるような厳しい表現があってこそ、こうして生が断ち切られる前に鳴り響いた美しい歌の機微が、いっそうの悲劇性をもって胸に迫ってくる。今回の東京シティ・フィルハーモニックによる『カルメル派修道女の対話』の演奏会形式の上演は、プーランクの楽譜に込められたものを、深い共感と明確な造形をもって、しなやかさと精神性の深さを併せ持った彼の音楽に相応しいアプローチで表現しきろうとすることで、この作品の受難曲としての相貌──もしかすると、そのためにも、バッハのマタイ受難曲のペテロの否認を思わせる対話の場面はカットしなくてもよかったかもしれないし、またその伏線となる殉教の請願の秘密投票の場面には、いくらか演出があってもよかったかもしれないが──を、高い完成度をもって浮き彫りにするものだったと考えられる。

Poulenc_Carmélites