アリベルト・ライマンのオペラ『リア』の日本初演に接して

Reimann_Lear_2013

シェイクスピアの『リア王』は、たしかにオペラの作曲にとって魅力的な題材であろう。リアの発狂の場面をはじめ音楽になる場面に富むし、歌になる独白や対話にも事欠かない。それに、最後の破局へ向かうドラマの展開を音楽で表現できたなら、聴き手を圧倒できることは間違いない。しかし、十人を優に超えるキャストを要し、リアの家族とグロスターの家族のドラマが並行するシェイクスピアの戯曲にもとづくオペラを書くことは、他方できわめて困難である。ジュゼッペ・ヴェルディも、『リア王』にもとづくオペラの作曲を長く志しながら、それを結局果たしえなかった。

しかし、ヴェルディの死とともに20世紀を迎えた後、『リア王』にもとづくオペラが書かれ始める。そのうち、今も繰り返し上演される重要な作品として、アリベルト・ライマンの『リア』と細川俊夫の『リアの物語』を挙げなければならない。去る11月8日に、日生劇場でそのうちの一つ、ライマンのオペラ『リア』の日本初演の公演を観ることができた。

この作品が要求する大編成のオーケストラは、ピットに入りきらず、金管楽器や打楽器は、舞台の両脇にずらりと並んでいた。そのため、アンサンブルに困難があったのは想像に難くないが、下野竜也の指揮は、オーケストラを見事にまとめ上げて、ライマンの音楽の特徴をなすと思われる、一個の巨大な肉体のように蠕動する響きをしっかりと聴かせていたし、この『リア』の音楽のドラマティックな展開も、力強く引き出していた。とくに最終場面の響きは圧倒的だった。下野竜也の指揮に見事に応えた読売日本交響楽団の演奏の素晴らしさも特筆されるべきだろう。

そのようにオーケストラの響きが充実していることは、ライマンの『リア』という作品においてきわめて重要と思われる。各場面を繋ぐ間奏曲が、ドラマの展開の結節点として、決定的な役割を果たしているのだから。なかでも、リアが狂気に陥る嵐の場面の響きの凄まじさは、客席にいても吹きすさぶ風に身体が煽られるように感じたし、対照的に、エドガーの隠れ家へ場面が転換していくときの、フルートの独奏によって運ばれる音楽の深沈とした響きは、狂気を装うことのうちにしか生きる余地が見いだされない彼の苦境に、聴き手を静かに引き込んでいくものと聴こえた。

このような、オーケストラの響きの充実ぶりに比べると、栗山民也による演出は、少々説得力に欠ける。舞台上にやや傾いた、角に登場人物の運命を暗示するような大きな、尖った杭を吊った舞台を設え、その空間と背後の扉を存分に活用して、全体の凝縮度を高める手法は手堅く感じられたが、間奏曲のあいだ、時間を持て余してしまっている印象も否めない。とくに嵐の場面では、演出が──狂気を表現する一定の意図は感じられるものの──音楽に拮抗していなかった。ゴネリルとリーガンの側を赤で、コーディリアの側を白で象徴させる善悪二元論的な表現も、原作とオペラが行なった人間の深みへの洞察を、逆に曇らせてしまうように思われてならない。それに、照明で十字架のようなものを映し出すのは、この神なき、あるいは神に見捨てられた世界の劇に反することではないだろうか。

演出における最大の問題と思われたのが、歌手の身体的な動きを統御しきれていなかったところ。とくにゴネリルとリーガンの二人のを歌った歌手が示した、いわゆる「オペラティック」な身ぶりは、この二人の悪女の性格のみならず、両者の個性の違いも薄めてしまったように思われてならない。とはいえ、こうした問題は、今回の演出の問題であるにとどまらず、「日本から」のオペラが根本的に抱えてきた問題なのかもしれない。オペラの演出は、歌手に身の丈に合わない演技をさせて、本来見せるべきもの──例えばゴネリルのにやりとした底意地の悪い顔──を、かえって隠してしまっていたのではないだろうか。

日本のオペラ──とくに現代のオペラの──演出は、能をはじめとする日本の舞台芸術の伝統を新しい目で見直しながら、みずからの出発点を今一度確かめる時期を迎えているのかもしれない。日本人の歌手がオペラに取り組む際の基本的な身体表現をどう考えるか、という問題が、今回の公演であらためて浮き彫りになったと思われる。この問題を掘り下げてこそ、日本人のプロダクションによる舞台の美しさと感情表現の豊かさがもたらされるはずである。それから、このライマンのおかげで、リアの役は、もともとディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのために書かれたわけだが、上演を観ていて、彼のような経歴を経て活躍するようになる歌手がもっと増えないと、ドイツ語のオペラを日本人の手で創っていくには、困難が残ることも感じざるをえなかった。

歌手で特筆されるべきは、グロスターとその息子たちの出来。それに比べるとリアとその家族を演じた歌手たちは、少し影が薄かった。グロスター伯を歌った峰茂樹の誠実で力強い歌唱は、全曲を通して印象的だったし、その庶子エドマンドを歌った小原啓楼の強い声は、この自然の掟の下でのし上がろうとするこの男に相応しい。天涯の孤独さを強さに転化させようとする彼の最初の歌は、圧倒的だった。そして、全曲を通して最も素晴らしかったのが、エドガーを歌ったカウンター・テナーの藤木大地。儚さと強さを同時に響かせながら、狂気を演じることの危うさを伝える彼の声は、今回の『リア』の舞台を現代のオペラのそれとして浮かび上がらせる、支点の役割を見事に果たすものだったと思われる。

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