映画『ハンナ・アーレント』を見て

マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント』をようやく見ることができた。この映画の焦点は、イェルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴し、それをつうじて見いだされた「悪」の真実を、勇気と弛まぬ意志を持って伝えるアーレントの姿である。彼女は、ユダヤ人であるために、亡命先でのフランスで抑留を余儀なくされ、死の収容所へ移送される危険に直面した経験を持つが、このような苦難の日々に連れ戻されることを覚悟のうえで、彼女は裁判を傍聴しにイェルサレムへ出かけ、それをつうじて考え抜いたことを、包み隠さず伝えようとする。

こうした彼女の生きざまのなかで貫かれる「私は理解したい」という意志と、ナチの親衛隊は「怪物」であるといった前提をも突き抜ける思考──「思考」と「意志」は、彼女の未完の遺作『精神の生活』のテーマでもある──こそ、映画全体のテーマであろう。それゆえ、アイヒマン裁判のシーンにおいても、焦点となるのは、去来する大戦中の記憶に苛まれながら裁判に臨み、裁判の進め方に苛立たされながらも、「アイヒマン」という問題に向き合い続けるアーレントである。そのような彼女の内面の掘り下げも──そのために裁判の歴史的な叙述が犠牲になっている面もあるが──、見応えがある。

裁判の傍聴をつうじて捉えられたアイヒマンの「悪の凡庸さ」を──アーレントがユダヤ人指導層のナチによるユダヤ人移送への荷担を指摘していることと相俟って──、当時の多くの人々は理解できず、そのためにアーレントは、轟々たる非難の嵐に巻き込まれることになるのだが、アイヒマンの悪が、さらにありふれたものになっているという意味でも「凡庸」である現代に生きる者は、そこにある、自分自身を問い、行ないを省み、自律的に判断する思考──アーレントによれば、「人間性」そのものを形づくる思考──の欠落という問題に、みずから考えることによって向き合うべきだろう。そのことが「世界」と友人たち──「民族」ではなく──への愛をもって生きる力になることを、バルバラ・スコヴァ演じるアーレントは、力強く示していた。スコヴァは、落ち着きと温かみのある演技で、アーレント独特の率直さに奥行きを与えていたように思う。

フォン・トロッタの映画におけるアーレントには、『イェルサレムのアイヒマン』という傍聴記に向けられた、彼女は冷酷であるという非難を反駁する意味でも、非常に温かいが、それがメアリー・マッカーシーとの親交や、ドイツ語で思いを打ち明けられる環境に支えられていたことも、映画では強調されている。その名も『私は理解したい(Ich will verstehen)』という表題の対談集に収められたインタヴューのなかでアーレントは、亡命後、自分にはドイツ語という「母語だけが残った」と表白しているが、アメリカでの生活のなかでもドイツ語で思索し、ドイツ語で親しい人と遣り取りする彼女の姿が捉えられている点も、この映画の特徴と言えよう。

ちなみにこの映画では、アーレントに「思索」を教えた一人であるハイデガーとの関係にも光が当てられているが、朴訥ながら力強く「思索」そのものを語りかける若き日の姿と、老いてなおアーレントとの「縒り」を戻そうとする彼の姿の落差が大きく、やや滑稽な印象もなくはない。この映画で、それ以上に卑小に描かれているのが、アーレントと同じくハイデガーに学んだハンス・ヨーナスであるが、それにより、みずからの思考を貫くアーレントの姿がいっそう力強く際立つことになる。おそらく、勇気と温かみの双方を強調しながらフォン・トロッタが描きたかったのは、過去の苦難や人間関係だけでなく、理由のない非難にも苦悩しながら、それに応答し、みずからの言葉で「悪」への洞察を実直に伝え続けようとするアーレントの意志──「私は理解したい」という意志である──と、そのなかで貫かれる、他者と世界を肯定する愛──これは彼女がアウグスティヌスから学んだものだ──であろう。『ハンナ・アーレント』は、これらが徹底的な思考と一人の人間のなかで緊密に結びつきうることを、力強く示した映画と思われる。映画『ハンナ・アーレント』画像

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