ジョナサン・ノットのシューベルトのことなど

「ザ・グレート」の名で知られるシューベルトの最後のハ長調の交響曲(第8番D944)には、これまで誰も、ベートーヴェンさえも達することのできなかった、深く大きな世界を器楽だけで響かせようとする意欲が漲る一方で、次から次へと歌が湧き出てくる空間が、小気味よさを失うことのないリズムの躍動によって開かれるところがある。これらをいかに両立させるかが、この「大ハ長調」交響曲の解釈の鍵となると考えられるが、東京交響楽団の第621回定期演奏会[2014年6月14日/サントリーホール]でのジョナサン・ノット指揮する東京交響楽団による演奏は、その要求にきわめて洗練されたかたちで応えた演奏だった。

冒頭のホルンによるアンダンテの序奏は、ダイナミクスに過度に神経質になることなく、自然なフレージングで奏でられたが、その響きからは奥行きが感じられる。アレグロの主題の提示においては、付点のリズムによる主題の末尾がディミニュエンドするなかから、三連符のリズムが沸き立ってくるのが印象的であったが、それによって長いスパンを持った歌が感じられる点、実にシューベルトに相応しい。

第一楽章の提示部の終わりには、三度にわたって風が吹き寄せるように、フォルティティッシモの頂点に至る響きが打ち寄せてきた。軽やかなリズムの対の戯れから、高さを感じさせる壮大な響きが生まれてくる展開部の構築も見事。コーダは、けっして居丈高になることなく、しかし高揚感に満ちたかたちで序奏のモティーフを回帰させ、ここに一つの大きなアーチが築かれていることを感じさせてくれた。

第二楽章は、静かな歩みを感じさせるテンポのなかから、連綿と歌い継がれていく旋律が美しい。なかでも、ヴィブラートを抑えた響きによる第二主題は、これまで聴いたどの実演よりも清冽であった。木管が哀愁に満ちた歌を響かせたのに続いて、フォルティッシモで決然と歩みを進めようとする際に、ピリオド楽器の奏法を取り入れた鋭い響きが、新鮮なアクセントとなっていたのも印象に残る。凝縮度の高いクライマックスの後の密やかなチェロの歌は、感動的ですらあった。

第三楽章においては、軽やかさと有機性を失わないスケルツォのリズムの躍動が素晴らしかったが、とくにその主題の上昇音型が上り詰めたところで一瞬の間を取るのは、シューベルトがベートーヴェンたちと共有していたドイツ語圏の音楽の語法を示す表現として重要と思われるし、それによってリズムに息が吹き込まれているように感じられる。シューベルトがピアノのための作品で先鞭をつけた、そして後に豊かに展開していくワルツを予感させる旋律も、簡素さを感じさせながら小気味よく踊る。

フィナーレでは、ノットがテンポとフレージングを絶妙にコントロールしながら、リズムの躍動と旋律美を見事に両立させていた。この楽章においては、第一楽章同様に付点のリズムと三連符が目まぐるしく交錯するなかに、いかに間と静けさを確保するかが重要と考えられるが、ノットと東京交響楽団は、その要求に見事に応えて、とくに第二主題においては、密やかな歌の転調の妙を見事に響かせていた。シューベルトに相応しく、微笑みが歌われるなかに悲しみが染み込む瞬間がを聴くことができた。沸き立つリズムとともに、高揚感に漲った、しかし歯切れよさを失うことのないコーダのクライマックスの後、最後の音は、最も熱くて強い音がふっと消え去るように奏でられた。

シューベルトという作曲家は、歌が息遣いのなかで、儚く消え去る音によって織りなされることを、誰よりもよく心得ていた。おそらくそのことが、彼がしばしば楽譜に書き込んだ、他の作曲家よりも横に長いアクセントの記号に表われているのかもしれないが、ノットと東京交響楽団による「大ハ長調」交響曲の演奏は、こうしたシューベルトの特徴を、現代的な感覚と緻密な解釈で生かしたものと言える。とりわけノットによるこの曲の解釈は、これまで実演で聴いたなかで最も説得的であった。

この定期演奏会では、シューベルトの交響曲の他に、ブーレーズの《ノタシオン》の管弦楽版からの四曲とベルリオーズの歌曲集《夏の夜》が演奏された。ブーレーズの演奏は、当初少しもたつきが感じられたものの、徐々に響きが充実して、一つの流れが楽器間で受け渡されていくのが、また厳密に構成された蠢きが感じられる演奏となった。現代音楽の構成を響かせるノットの手腕を感じさせる演奏で、それがシューベルトなどの解釈にも生きているのだろう。

《夏の夜》において独唱を担当したメゾソプラノのサーシャ・クックの歌は、吹き抜けるような軽やかを求めたいところもあったが、別離の悲しみや死者への哀悼を歌う曲においては、テオフィル・ゴーティエの詩の深みを感じさせる豊かな歌を聴かせてくれた。全体として、この春に東京交響楽団の音楽監督に就任したジョナサン・ノットとこのオーケストラの相性のよさを感じさせ、両者の今後の活動を期待させる内容の演奏会であった。

[追記:6月に聴いた演奏会について]

この6月は、出張などで東京や札幌へ出かけることが多かったおかげで、上記の東京交響楽団の定期演奏会をはじめ、三つのオーケストラの演奏会を週末ごとに聴くことができました。6月22日には、すみだトリフォニーホールで、新日本フィルハーモニー交響楽団の第526回定期演奏会を聴きました。イザベル・ファウストとダニエル・ハーディングによるブラームスのマチネでしたが、この演奏会では何と言っても、ファウストのヴァイオリンが素晴らしかったです。今までに実演で聴いたなかで最高のブラームスの協奏曲であることは、間違いありません。

引き締まったテンポのなかで、ひたすらブラームスの音楽の核心に迫ろうとするアプローチと、それがもたらす演奏の完成度に、深い感銘を受けました。基本的に、音楽そのものに語らせる演奏でしたが、それによって生まれる音楽の内容の充実には、目を見張るものがあります。研ぎ澄まされた音で、恐ろしいまでに寂しさを掘り下げる第一楽章の一節など、鳥肌が立つほどでした。かといってけっして響きが冷たくなってしまうことはなく、第二楽章では、オーケストラの柔らかな響き──とりわけ木管のハーモニーが素晴らしかったです──に乗って、豊かな歌を聴かせてくれました。フィナーレでは様式感と愉悦感を兼ね備えた主題の提示から、次々に湧き立つような音楽の躍動に心を奪われました。管弦楽の伴奏の付いたブゾーニによるカデンツァが聴けたのも収穫でした。アンコールとして演奏されたバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番のラルゴでは、彼女のヴァイオリンの洗練された温かさが、最良のかたちで表われていたのではないでしょうか。

後半に演奏された交響曲第4番ホ短調では、オーケストラの豊かで、そこはかとなく寂寥感を漂わせる響きが感銘深かったです。全体的に、オーケストラの自発的で歌心に満ちた音楽作りが、ハーディングのボウイングを含めたさまざまな試み──第一楽章の第二主題の頂点で下げ弓を繰り返すボウイングで聴いたのは、アーノンクール以来でしょうか──より一歩先に行っていた印象を受けます。第二楽章の弦楽器の柔らかな響きは感動的でした。後半の二つの楽章において、音楽が熱気を増していくとともに響きが充実していくのも、この曲に相応しく、聴き応えがありました。

6月28日の午後には、札幌コンサートホールKitaraで、札幌交響楽団の第570回定期演奏会を聴きました。音楽監督としての最後のシーズンを迎えた尾高忠明の指揮で、ヴェルディのレクイエムが演奏されました。この演奏会では、札幌交響楽団の高い技術に裏打ちされた献身的な演奏もさることながら、礼響合唱団をはじめとする四つの合唱団によって構成された合唱団の素晴らしさに心を奪われました。充実したバスの響きに支えられながら、豊かな声と緻密なアンサンブルで、ヴェルディが作家マンゾーニを追悼するために書いた音楽を、見事に歌い上げていました。各声部のバランスのよさも特筆されるべきで、それがこの曲の随所に見られるフーガで生きていました。

曲の冒頭の、立ち止まりつつ沈潜していくような低弦のモティーフに続いて、悲しみと、死者の魂の安息への祈りに満ちた柔らかな響きが浮かび上がるあたりから、札幌交響楽団のアンサンブルの充実が感じられ、演奏に引き込まれました。「怒りの日」の音楽には、今一歩の荒々しさと推進力を求めたい気もしましたが、ここでの抑制は、この音楽が回帰する最後の「われを解き放ちたまえ(リベラ・メ)」に曲の頂点を築こうとする尾高の設計の表われであることが、後に判ります。表面的な効果に流れることなく、死者のための祈りの内実に迫ることは、この作品において第一に求められるべきことでしょう。「われを解き放ちたまえ」の曲で音楽がじわじわと高まり、充実したクライマックスが築かれるあたりは、実に感動的でした。四人の独唱者(安藤赴美子、加納悦子、吉田浩之、福島明也)の出来も、ほぼ申し分のないもので、とくに四者のアンサンブルには聴き応えがありました。指揮者、オーケストラ、合唱団、独唱が一体となって、ヴェルディが書いたレクイエムの内実を掘り下げ、豊かに響かせた演奏でした。

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緑豊かななかに日が差し込む6月の札幌の風景

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