小著『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』を上梓しました

『ベンヤミンの言語哲学』書影

帯背コピー:天使の像に結晶した思想の軌跡を追う

このたび『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』と題する小著を、平凡社から上梓しました。初版第1刷発行日の日付は2014年7月15日、ヴァルター・ベンヤミンの122回目の誕生日に当たります。このような日に、ベンヤミンの思想を細々とながら研究してきた成果を世に送り出せることを、大変嬉しく思っております。ここまで導いてくださった方々のお力添えに、心から感謝申し上げます。以下、本書の特徴をごく簡単にご紹介いたします。

ベンヤミンを論じた他の多くの書物と同様に、本書の表紙には、彼が20年にわたって私蔵していたパウル・クレーの《新しい天使》を掲げましたが、このことは、本書の視座を暗示しています。本書は、この絵を手に入れて以来、ベンヤミンが生涯の節目ごとにその著作に描き出した天使の像を、言語の本質へ向かう彼の思考の結晶と捉える視点から、彼の青年期から晩年に至る思考のうちに一貫した言語哲学を見て取ろうとする試みを記したものです。1916年、第一次世界大戦のさなかに書かれた初期の論考「言語一般および人間の言語について」から、死の年の1940年、今度は第二次世界大戦の嵐が押し寄せて来るなかで記された「歴史の概念について」のテーゼに至るまで、ベンヤミンは、これらの戦争を引き起こすに至った時代の趨勢に抗いながら、また言語を覆う神話的な前提を掘り崩しながら、言語そのものを突き詰め、その可能性を追求していたと考えられます。

そのような言語の本質の探究は、何よりも、鋭敏な批評眼と繊細な感性を兼ね備えた著述家にして翻訳家であったベンヤミン自身の言葉が研ぎ澄まされることと軌を一にしていたわけですが、それは同時に、言葉を生きることを深く肯定する道筋を探るものでもありました。彼の思考は、言葉そのものが、死者でもある他者と、あるいは儚い事物と呼応する生命の息遣いとして、翻訳とともに発せられる言語の生成の相を見据えながら、犠牲を美化する神話としての歴史に抗して、想起とともに一つひとつの生を肯定する歴史を語る言葉を見いだそうとしているのです。「翻訳としての言語、想起からの歴史」という本書の副題には、このように、言葉を発すること自体を翻訳することと捉え、過去の出来事が思い起こされるなかから──従来の「歴史」を転換させるような──歴史を語る可能性を追求する、ベンヤミンの思考を浮き彫りにしようという意図が込められています。

天使の像に結晶するベンヤミンの言語哲学を辿る本書は、図らずも、他者の存在そのものを否認する暴力のために、記号としての言葉が撒き散らされ、他者の心身に癒しがたい傷を負わせた出来事の記憶を否認する暴力として、神話としての歴史が喧伝される、危機的な状況のただなかへ送り出されることになりました。本書は、博士学位論文を基にした、ベンヤミンの思想についての研究書ではありますが、そこに織り込まれた、言語自体の歓待性と創造性に触れた議論が、あるいは想起にもとづく新たな歴史を生きることへ向けた議論が、もしわずかなりとも、この深刻な危機のなかに、他者たちのあいだで、他者たちとともに、死を強いられることなく言葉を生き抜く突破口を切り開く契機となるならば、著者としてこれ以上の幸いはありません。

このように本書は、ベンヤミンの言語哲学の研究をつうじて、言語と歴史への一つの視点を提示しようとするものではありますが、申し上げるまでもなく、そこにはベンヤミンの思想の研究という点でも、言語と歴史についての哲学的思考という点でも、不十分なところが数多く残っていることでしょう。ご一読のうえ、そうしたところを、今後の課題とともに忌憚なくご指摘いただければ、これからの研究へ向けて何よりの励みとなります。以下に、本書の目次を掲げておきます。内容を推し量る際の目安としていただければと思います。

『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』目次

はしがき

序章 ベンヤミンの言語哲学の射程

  • プロローグ 天使という思考の像
  • 第一節 今、ベンヤミンとともに言語を問う
  • 第二節 ベンヤミンの言語哲学の射程

第一章 翻訳としての言語へ──「言語一般および人間の言語について」の言語哲学

  • 第一節 ベンヤミンの言語哲学をめぐる思想史的布置
  • 第二節 言語とは媒体である
  • 第三節 言語とは名である
  • 第四節 言語とは翻訳である

第二章 「母語」を越えて翻訳する──「翻訳者の課題」とその布置

  • 第一節 ディアスポラから言語を見つめ直す
  • 第二節 ベンヤミンとローゼンツヴァイクにおける言語の創造としての翻訳
  • 第三節 ディアスポラを生きる翻訳

第三章 破壊による再生──あるいは言語哲学と歴史哲学の結節点

  • 第一節 迂路を辿る言語
  • 第二節 像としてのアレゴリー
  • 第三節 言語哲学と歴史哲学の結節点

終章 歴史を語る言葉を求めて

  • 第一節 認識批判としての歴史哲学
  • 第二節 想起にもとづく歴史の言葉へ
  • 第三節 過去の像としての歴史を語る言葉
  • エピローグ 言語と歴史

参照文献一覧

あとがき

序章には、外観だけはエマニュエル・レヴィナスの『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方に』と同じように、各章の梗概を添えました。本論では、議論の道筋が伝わるよう言葉を尽くしたつもりではありますが、もし議論の出口を見通しがたくお感じになったら、梗概をご参照いただけたらと思います。目次からもうかがえるように、ベンヤミンの言語哲学を、フランツ・ローゼンツヴァイク、ジャック・デリダといった思想家の言語についての思考との布置のなかに浮かび上がらせようとしているのも、本書の特徴の一つと言えるでしょうが、おそらくベンヤミンの言語哲学には、この二人以外に、レヴィナス、ジャック・ランシエール、ジョルジョ・アガンベンといった人々の思想とも呼応し合うところがあるにちがいありません。いずれこうした関係にも論及する機会があればと考えております。ともあれ、まずは本書『ベンヤミンの言語哲学』から、他の生ある者たちに、そして死者たちとともに言葉を生き、さらには歴史を生きる息遣いの場を開こうとする議論を読み取っていただけたらと、心から願っているところです。本書の内容に興味を持っていただき、お手に取っていただけたら幸いです。

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初夏の仕事、能と現代音楽の共鳴

本当に早いもので、そろそろあちこちから梅雨明けの声が聞かれる時季となりました。この時季、急な豪雨が来たり、猛暑に見舞われたりと気候が不安定ですので、みなさまくれぐれも体調などに気をつけてお過ごしください。最近では、初夏に大きな台風が日本列島に上陸するようにもなってきました。先の台風で被害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます。

さて、この6月から7月上旬にかけても、非常に慌ただしく過ぎていきました。心も身体も追いつかないくらい、さまざまなことがあった今年の初夏でした。まず、6月7日(土)のことですが、広島市映像文化ライブラリーでのポーランド映画祭2014のなかで、ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の傑作『サラゴサの写本』(1965年)が上映された際に、広島市立大学の「いちだい知のトライアスロン出張講座」ということで、この作品を紹介するお話をさせていただきました。ナポレオン戦争下のサラゴサで発見された手稿本のなかで、さまざまな物語が無限に組み合わさっていくさまを、実に魅力的に描き出したこの映画のなかでは、今私たちも幻視すべき、異質な者たちが共存する世界が繰り広げられています。また、その世界を小説のうちに現出させた原作者ヤン・ポトツキが示す、歓待性にもとづく精神の自由も、あらためて顧みられるべきではないでしょうか。

それにしても、この『サラゴサの写本』という映画をつうじて、ハスという監督に出会えたのは幸運でした。翌日には、ブルーノ・シュルツの小説にもとづく『砂時計』(1973年)を見ましたが、そこでは、映像のマニエリスムとハシディズム的な幻想が一つになって、驚くべき世界が繰り広げられていて、圧倒されました。今回のポーランド映画祭では、これらのハス監督の作品以外に、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』というアンジェイ・ワイダの初期の傑作を見ました。前者では、明暗の対照のなかに極限的な緊張のうちにある心理が鋭く浮き彫りにされるさまが鮮烈でしたし、後者には、最近の『カティンの森』まで貫かれるワイダのテーマが、凝縮されたかたちで浮かび上がっているように思われました

さて、6月から7月上旬にかけては、二つの評論を公表させていただきました。一つは、5月2日に広島市の東区民文化センターのスタジオ2で行なわれた「人間そっくり」の公演の批評で、こちらは、広島芸術学会の会報128号に掲載していただきました。この公演は、京都の演劇ユニットこのしたやみと三重県の劇団Hi!Position!!による、安部公房の小説『人間そっくり』を構成したテクストのリーディングによるもので、拙稿「『そっくり』の深淵へ──このしたPosition!!リーディング公演『人間そっくり』を観て」では、この公演を、リーディングと巧みな演出によって安部公房の作品の論理的な仕掛けを生かしたスリリングな舞台とご紹介しました。

もう一つは、スーザン・バック=モースの『ベンヤミンとパサージュ論──見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014年)の書評で、こちらは図書新聞の3166号(2014年7月12日付)に掲載していただきました。「大衆文化の夢から目覚め、歴史の主体になれ──歴史への覚醒の場をなす形象の座標系」という表題で、過分にも一面の頭に載せていただいております。バック=モースのこの本は、ベンヤミンの『パサージュ論』の古典的と言ってよい研究ですが、そこにあるベンヤミンの「弁証法的形象」を媒体とする「根源史」の試みの救出に光を当てることで、歴史修正主義とも結びついた今日の大衆文化からの歴史への覚醒を今に語りかける一書として、日本の読者に紹介する内容となりました。おそらく編集者のほうでも、この点に注目してくださったのだろうと思います。ちなみに、四半世紀以上前に刊行された原書は、「見ることの弁証法」という表題が示すとおり、「目の人」としてベンヤミンを特徴づけるのに一役買った書物ですが、現在では彼の思想の音響的なモティーフに注目する研究も増えてきています。今年3月に、広島大学大学院総合科学研究科人間文化講座の論集『人間文化研究』第6号に載せていただいた拙論「谺の詩学試論──ベンヤミンにおける『谺』の形象を手がかりに」も、こうした方向性を示す一つと言えるでしょう。

このように、講演したり評論を執筆したりするあいだにも、大学での講義や演習、そして年々増えるばかりの雑務に追われていたわけですが、大学院の演習では、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの──アルシーヴと証人』(上村忠男+廣石正和訳、月曜社、2001年)を、学生たちと読み直すことができました。ところどころあまりに存在論的と思われる議論も見られますが、アガンベンのこの論考は、証言の可能性を、言語自体の──不可能性と隣り合わせの──可能性から照らし出すとともに、証人であることを主体そのものの「脱主体化」から捉え直させる重要な文献であることは間違いありません。これから、この論考をはじめとするアガンベンの仕事や、ベンヤミンの歴史哲学的なテクストなどの再読をつうじて「残余からの歴史」ということを考え、被爆の記憶を──ベンヤミンの言う「抑圧された者たちの伝統」へ向けて──継承することの世界的な意義にも、わずかなりとも光を当てられたらと思います。それから、ベンヤミンの言語哲学を論じた小著は、まもなくお手に取っていただけます。ご笑覧いただけたら幸いです。こちらについては、稿をあらためてご紹介いたします。

ところで、6月には幸運にも、いくつか非常に充実した内容の演奏会を聴くことができました。それについては、すでに別の記事でお伝えしましたので、ここでは一枚の素敵な、そしてこれからの音楽の可能性を考えるうえで非常に重要なディスクをご紹介しておきたいと思います。6月初旬に、敬愛する能楽師青木涼子さんが、デビュー・アルバム『能×現代音楽』をコジマ録音より出されました(ALCD-98)。これは、青木さんが2010年より“Noh×Contemporary Music”のテーマの下、ヨーロッパの作曲家に能に触発された作品を委嘱し、演奏し続けてきた取り組みの精華であると同時に、青木さんの能謡の魅力が、現代音楽の多彩な書法との共鳴のなかで見事に発揮された一枚であると言えるでしょう。東京オペラシティの今年のコンポージアムで、青木さんの手で日本初演されたペーテル・エトヴェシュの《Harakiri》の演奏も収められています。

このディスクを聴いていて、何よりも素晴らしいと思われるのは、現代の作曲家が、楽器の特殊奏法を含む新たな書法を駆使して、音響の身体性とも言うべき次元を追求しているのが、青木さんの声と共鳴し合っているところです。青木さんの声には、一本の芯とともに、深みと広がりが具わっているのですが、そんな彼女の声は、息遣いとともに周囲の空気に浸透し、またそこから立ち上がってきます。あたかもそれに触発されるかのように、作曲家たちは、響きが生まれる瞬間に注意を差し向けているように聞こえます。また、それによって何かが出現する気配が感じられるのが、この『能×現代音楽』というアルバムの大きな魅力ではないでしょうか。この気配こそ、能をはじめとする舞台芸術の場を開き、満たすとともに、歌う/謡うことを一つの出来事として成り立たせていると考えられます。この出来事のなかで、言葉が意味を帯びて響いてくることでしょう。

青木さんのアルバムのなかで、ことに魅力的に思われたのが、冒頭に収められたフェデリコ・ガルデッラの《風の声》でした。バス・フルートによって奏でられる音楽が、緊密なテクスチュアのなかで楽音と息音を行き来し、響きの襞を感じさせるのが、『井筒』の能謡と見事に調和して、時間的にも奥行きのある世界が開かれています。三島由紀夫の割腹自殺に触発されて書かれたエトヴェシュの《Harakiri》では、自死を遂げるなかで三島の脳裡に去来する想念が、最終的に彼の命を絶つ禍々しい音が断続的に、異様な身体性を伴って響く時間のなかで、聴き手にひたひたと迫るかたちで掘り下げれているように思われました。音楽をその根源に立ち返らせながら、音楽を舞台空間に、あるいはその空間自体を開くかたちで響かせる可能性をじかに感じさせる──マドリッドでヴォルフガング・リームのオペラ《メキシコの征服》にも出演された青木さんの活躍は、それを体現するものと言えるかもしれません──青木さんのアルバム『能×現代音楽』が、能楽を含めたこの時代の音楽の新たな展開を触発するかたちで広く聴かれることを願っております。

青木涼子アルバム表紙1