矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』

03113_home『人間の条件』におけるハンナ・アーレントの最も重要な洞察の一つに、人間の根本的な「複数性」ということがある。省みるなら、生まれてから死ぬまで人は独りでは生きていない。人は、人々のあいだに生まれ落ち、人々のあいだに生き、そして他者に看取られ、あるいは悼まれながらこの世を去っていく。このように、地上に生きる人間が根本的に複数であるということは、一人ひとりが特異であることも同時に含意している。この点で、複数性という概念は、多数の人間を俯瞰的に一つの類概念に包摂することに道を開く多数性の概念とは次元を異にしている。つまり、人が生まれるとは、自分とは絶対的に異なる他者と遭遇し、その他者と関係を結ぶことであり、他者たちのあいだに生きるとは、他者と出会い、第二、第三の誕生としての「始まり」を経験し続けることなのである。

アーレントによれば、こうして人間が複数性を生きることのうちに、他者とともに生きる関係を築く政治の可能性が宿っている。裏を返すなら、人々が一定の同質性のうちに閉じこめられる全体主義的な体制の下には、人々が関係を築きながらともに生きることができる場は存在しない。むしろ、相互監視とテロルのみが、究極的には自分自身の滅亡を招来させるような一つの方向へ人々を向かわせることになる。アーレントは、1930年代から40年代初頭にかけて全体主義の暴力を身をもって経験した後、複数の人々の〈あいだ〉を開き、人々の関係を築く営為としての「政治」の可能性へ向けた思考を培い、深めていった。本書は、この「政治的思考」の歩みを、アーレントの亡命初期からアイヒマン裁判の頃まで辿り、政治そのものの可能性を問う一書である。

さて、つとに知られているように、アーレントは、『人間の条件』をはじめとする著作において、古代ギリシアのポリスをモデルとしながら、「言論」を伴った「活動」──これによって人は他の人の前に、自分自身の姿を現わす──にもとづく政治を論じている。ただし、本書によると、その際アーレントは、人間を「ポリス的/政治的動物」とするアリストテレスの議論の従来の解釈を乗り越えている。つまり、人間が実体として政治的であるわけではない。むしろ、複数の人々のあいだを開く活動こそが「人間」を形づくっている──ここに人の「現われ」がある──のであって、その〈あいだ〉という空間が、複数の人々が生きる場としての「世界」をなすのである。しかも、自分自身を露わにし、人々の〈あいだ〉を開き、世界を切り開く活動は、それぞれ代替不可能な人々の対等な関係──これが古代ギリシアでは「イソノミア」と呼ばれていたのだ──を築いていく。

著者によれば、ここにこそ、アーレントの考える政治がある。 したがって、アーレントの思考にもとづく政治とは、ある種の人間が歴史的に作り出した「真理」に従属することではありえない。この「真理」の歴史性を見失ったところに、「人種」のような近代の最悪の虚構の起源もある。その暴力がおびただしい人々を虐殺した後で、それぞれ特異な他者たちの〈あいだ〉を開き、他者たちを結びつけることとしての政治の可能性を考えることは、アーレントにとって一方では、あらゆる集団への帰属、ないしは集団への帰属感を乗り越えることを意味していた。このことが、アイヒマン裁判をめぐる論争のなかで彼女が表明した、自分は友人を愛するのであって、「ユダヤ人」のような集団を愛するわけではないとする態度に結びついていることも、著者は指摘している。

他方で、アーレントにとって「あってはならなかった」全体主義のジェノサイドが起きた後で、複数で生きる人間の生そのものの営みとしての政治──人間が生きるとは、〈あいだ〉に生まれることにほかならず、それこそが「始まり」なのだ──についての省察を深めることは、同時に、親友だったヴァルター・ベンヤミンが考えようとした、もう一つの歴史の可能性を考えることでもあったことも、著者は指摘している。ある集団の自己正当化のために物語られ、人々をおぞましい暴力に巻き込んでいった神話としての歴史の「残骸」からの歴史、それは複数の人々のあいだで出来事を物語り、そのリアリティを複数で共有することから始まる。 このもう一つの歴史が始まる場所としてアーレントが指し示しているのが、彼女が『過去と未来のあいだ』をはじめとする著作で繰り返し言及したフランツ・カフカの「彼」の場所である。

著者によると、この「彼」は、過去と未来の狭間に立ち、せめぎ合う両者の力を身に受けているが、歴史の残骸を手に「戦線の外」に出ることができる。ベンヤミンの「歴史の天使」すら思わせるこの歴史の残余を掬い取る身ぶりこそが、出来事を物語ることを可能にする。しかも、著者によれば、この物語る身ぶりこそ、神話的な歴史の流れを中断させるものなのだ。歴史の残余の記憶を担うこの身ぶりにもとづく新たな歴史を、複数性において生きること、このことが、取り返しのつかない出来事の後で、他者とともに生きる空間を、すなわち〈あいだ〉を切り開く。こうして、残余からの歴史とともに開かれる他者たちの〈あいだ〉こそが、来たるべき政治の「場所」にほかならない。

歴史の暴力を身に受け、「あってはならなかった」出来事を目の当たりにした後に、それでもなお他者たちのあいだにある「政治」を探究し、「人間が複数の人間として、世界への関係を創設すること」に「政治の本質」を見て取るアーレントの思考を辿った本書は、歴史の残骸の記憶を担うもう一つの歴史によって、神話的な「真理」を乗り越え、複数の人々の〈あいだ〉に立つ道筋を指し示していよう。歴史の否定にもとづく「真理」の名にまったく値しないイデオロギーに人々が搦め捕られ、人間の根本的な複数性すら忘れ去られようとしている今、本書はアーレントの思想研究であることを越えて、地上における人間の生を構成する営為としての政治の可能性をみずから考えるための重要な手がかりをもたらす一書として、広く読まれるべきであると考えられる。

[みすず書房、2002年]

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矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』」への1件のフィードバック

  1. 2014年9月26日に東京ドイツ文化センターにて、「ハンナ・アーレント──人間的なものへの信頼」と題して、著者の矢野久美子さんと哲学者の森一郎さんの対談のかたちで、本書の内容を掘り下げながら、アーレントの政治思想の可能性を探る場が持たれました。アーレントが、ギュンター・ガウスのなかで語っていた「人間的なものへの信頼」とは、デリダも「信」として語っていた、到来する他者に対する信であるとともに、それは「世界への愛」を支えるものでもあるにちがいありません。今回は、本書の鍵ともなっている、アーレントがメアリー・マッカーシー宛の書簡のなかで語った「木の葉のように自由」であることの重要性を噛みしめる場ともなりました。歴史の暴風に曝されながら、何かを始める自由を、出来事への応答に結びつけ、その出来事が突きつける問題を考え抜くのが、アーレントの「物語る」身ぶりなのかもしれません。そうした見方から『全体主義の起源』などを読み直したいところです。矢野さんと森さんのアーレントの思想をめぐる対談は、10月10日にも同じ会場で、今度は森さんの著書『死を超えるもの』(東京大学出版会)のアーレント論を掘り下げるかたちで行なわれる予定です。http://www.goethe.de/ins/jp/ja/tok/ver.cfm?fuseaction=events.detail&event_id=12435234

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