バイエルン国立歌劇場におけるB. A. ツィンマーマン《軍人たち》の上演に接して

バイエルン国立歌劇場のB. A. ツィンマーマン《軍人たち》ポスター

作曲家ベルント・アロイス・ツィンマーマンについてのドキュメンタリーに収められたインタヴューのなかで、《軍人たち》のケルンでの初演を指揮したミヒャエル・ギーレンは、ツィンマーマンはこの途方もないオペラのために、今も社会に蔓延している暴力を仮借なく抉り出す音楽だけでなく、光彩に満ちた歌も書いたと述べていた。それに呼応するかのように、2014年の春と秋にバイエルン国立歌劇場で行なわれた《軍人たち》の上演で主人公のマリーの役を歌ったバーバラ・ハンニガンも、テレビ放送のためのインタヴューのなかで、マリーの歌にあるのは、美しいベル・カントだと語っている。

2014年の10月31日と11月2日に、このバイエルン国立歌劇場での《軍人たち》の上演に接する機会に恵まれたが、その際、ツィンマーマンが書いた、時に切々と、また時に身をよじるように歌われる光彩豊かな歌にしっかりと耳を傾けることができた。そして、その歌のなかから、暴力の蠢きを、あるいはその身体への刻印を感じないではいられなかった。例えば、第一幕におけるマリーとデポルトの出会いの場面において、両者の歌の高い音域への跳躍は、一方では「高貴」な人に対する態度としてマリーの身に染み付いてしまったコケットリーを、他方ではデポルトのぎらりと閃く艶っぽさを示しながら、その出会いに続く暴力の予感に充ち満ちている。

こうしたことがはっきりと感じ取られるほどに、アンドレーアス・クリーゲンブルクの演出は、ツィンマーマンの音楽を舞台に生かすものだった。彼は、現代のオペラの演出で時に見られるように、センセーショナルな仕掛けによって音楽を遮ってしまうことはない。彼はむしろ、音楽と身体的表現を緊密に結びつけることで、音楽そのものの強度をより凝縮されたかたちで伝えていた。クリーゲンブルクの演出は、ダンサーを数名登場させ──時に肉体を剝き出しにし、虐待の跡をも露わにする女性ダンサーの表現は、芸術的にきわめて洗練されたものと思われた──、歌手の身ぶりも舞踊的に様式化することによって、軍隊における訓育と当時の市民社会の抑圧性の身体的表現を、ツィンマーマンの音楽の厳密な形式性と一体化させることによって、《軍人たち》という作品の主題である暴力の核心に迫ることに迫ることに成功していたのではないだろうか。第二幕で舞台上の身ぶりは、さまざまな器物を叩きながら、音楽の厳格なリズムとも一つになっていた。

クリーゲンブルクの演出においてもう一つ特筆されるべきは、舞台装置である。多くの場面が舞台上に積み重ねられた檻のような箱部屋で演じられ、その一つひとつが前後に移動する。このことによって、ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツの同名の戯曲にもとづくこのオペラの上演を困難にしている、異なった場所のほぼ同じ時間の場面が続くという問題を解くことだけでなく、軍隊の閉鎖性や、この閉鎖的な組織に内在する性暴力を、より鮮明に表現することができていた。さらに、舞台の両端から出入りする長机の使い方も印象的であった。それは当初マリーがシュトルツィウスへの手紙を認める机として現われ、後には彼女を市民社会から弾き出す力として現われる。大道具の運動がこれほど効果的に使われた舞台は、今まで観たことがない。

今回のバイエルン国立歌劇場での《軍人たち》の上演において、クリーゲンブルクの演出とともに感銘深かったのは、指揮者のキリル・ペトレンコの見事な統率力と、それに応えたオーケストラの力演であった。仮借のない打楽器の打撃の激しさも、第二幕に聴かれる瀆神的なまでに輝かしく響く金管楽器のコラールも印象的であったが、それにも増して素晴らしいと思われたのは、弦楽器群の表情の振幅の大きさであった。その緊密なアンサンブルは、時に荒々しく蠢き、また時に、時間が止まるかと思うまでに張りつめたピアノを聴かせてくれた。すでに触れたように、舞台上の打楽器奏者たちの巧みさも光ったし、ジャズ・コンボの演奏にも目覚ましいものがあった。

歌手たちのなかでは、やはりマリー役のバーバラ・ハンニガンが際立った存在感を示していた。彼女は、「ドラマティックなコロラトゥーラ」という無理な声質への要求に見事に応えながら、技術的にきわめて困難と思われる音の跳躍のなかで、艶と陰の双方を響かせていた。時折聴かれる柔らかなカンティレーナは、癒しがたい傷と幸福への切なる願いを一つながらに響かせていたように思う。マリーの姉のシャルロッテの役を歌った、オッカ・フォン・ダムラウの豊かな声も忘れがたい。レンツの詩を歌う冒頭の歌唱は、情景を破局の予感とともに浮かび上がらせていた。そして、第三幕に聴かれるマリー、シャルロッテ、ニコラ・ベラー・カルボーンが歌ったラ・ロシュ伯爵夫人の三重唱は、リヒャルト・シュトラウスの《薔薇の騎士》の終幕の三重唱の陰画のように響きながら、出口のない状況における慄きを切々と歌うものだったように思う。これら以外では、シュトルツィウス役を歌ったミヒャエル・ナジーが、思い詰めた男の深い叫びを見事に響かせていた。デポルト役のダニエル・ブレマも巧みだったが、彼を含めた男性歌手のそれぞれの性格の違いがもう少し際立てば、力関係としての人間関係がいっそう明瞭になったのではないだろうか。

幕切れが近づくと、マリーの陵辱が演じられた舞台中央の溝には、ゴミ袋が投げ込まれていく、人が、女性が、死に至るまで虐げられ、棄てられていく社会があることを、今に突きつける演出である。その傍らでは、別の女性の陵辱が続き、ゴミ袋のあいだを縫ってマリーを探す父親は、物乞いをするマリーをもはや認めることができない。そして、そのあいだも軍靴の音は止むことがない。それがふと静まったところで、凄まじい叫びが響いて、《軍人たち》は幕切れを迎えるわけだが、今回その叫びは、舞台上にいるすべての演者とスピーカーから発せられた。スピーカーから聞こえるのは、サンプリングされた無数の匿名の人々の叫びである。これらは、クリーゲンブルクの演出による今回の舞台において、軍隊組織のなかで最も腐敗したかたちで、しかも性暴力のかたちで今も跋扈している暴力の犠牲となったすべての人々の叫びを凝縮した叫びだったのではないか。このような叫びを劇場に響きわたらせることによって、ツィンマーマンは、この暴力の歴史の連続に介入しようとしていたにちがいない。そこにある歴史を中断させる力を、バイエルン国立歌劇場における今回の《軍人たち》の上演は、洗練された表現によって、またそれだけに凝縮されたかたちで劇場空間に発揮させるものだったと考えられる。

ほとんど一冊の本と言ってよいほど充実した内容の《軍人たち》プログラムの表紙

ほとんど一冊の本と言ってよいほど充実した内容の《軍人たち》プログラムの表紙

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