守中高明『法』

本書は、法そのものについてだけでなく、法と言語の関わりとともに、法をめぐる自己と他者の関係をも、現代的なコンテクストのなかで考えさせる読みごたえのある一冊だった。とりわけ、現代日本における法、とりわけ憲法をめぐる深刻な問題を含んだ状況を批判的に浮かびあがらせながら、法自体に内在する力ないし暴力を見すえたうえで、法をその可能性において問題化している点が印象に残る。 ハート、ルーマン、デリダの法理論を突き合わせて、法についての現代的な議論のコンテクストを浮かび上がらせるなかで、ベンヤミンの「暴力批判論」を読み返し、彼が「神的暴力」と呼ぼうとした、法の内側からその自己措定的にして自己保存的な「神話的暴力」を中断させる力を「市民的不服従」のうちに探る著者の思考は、さらに現代の日本のなかで不服従の「原−形象」アンティゴネーのように生きる可能性を見届けようとする。

著者は、国旗と国歌の強制やいわゆる「有事法制」など、現代日本における、国家権力の犠牲となる「国民」の訓育が押し進められつつある状況を象徴する問題を抉り出したうえで、それに対する非暴力的抵抗の可能性を、「歓待の掟」にもとづいて「来たるべき正義」を求める法の脱構築のうちに求める。 他者を歓待するとき、他者を迎え入れる者の自己が、そのアイデンティティに至るまで動揺させられ、さらにその言語、とりわけその母語の同化の暴力が問いただされる。そして、レヴィナスが指摘するように、「言語活動の本質とは友愛と歓待である」ことを見つめ直すことが迫られるのである。その際、この「友愛と歓待」を実践する翻訳の可能性が問われなければならないのは言うまでもない。それは、差し迫った問題でもある。脱−固有化としての「歓待の掟」は今日本で、難民たちの歓待というかたちで実現されなければならないのだ。

さらに著者は、歓待への問いを、死刑への問いへ結びつけてゆく。「同害刑罰」という「計算」の彼方にある他者との関係、とくに赦しという観点から、日本に今も権力の存続のために生き存えている死刑が問いただされなければならないのだ。 このように、法をめぐるアクチュアルな問題を浮かびあがらせながら、法そのものについての省察というかたちでそれに立ち向かおうとする著者の強靱にして繊細な思考は、前著『脱構築』と同様、言語をその可能性において問ううえでも大いに刺激的である。最後にこの『法』のなかで最も印象深い一節を引いておきたい。「『市民的不服従』の賭札はいたるところにある。クレオーンの法に叛き、来たるべき真実の法の到来に賭けてひとすじの弔いの砂をさらさらと落としたあのアンティゴネーの白い指先は、われわれの未来に属しているのである」。

[守中高明『法』岩波書店、2005年/2005年8月11日執筆]

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