二冊の言語論

最近(2005年9月)読んだ二冊の言語論を、備忘も兼ねて紹介しておきたい。一冊は、以前から気になっていた管啓次郎の『オムニフォン──〈世界の響き〉の詩学』である。表題が示すとおり本書は、著者が翻訳してきた詩や小説についての文学論的なエッセイが集められた著作であるが、その至るところに鋭い言語論的洞察がちりばめられていて、どちらかというとそちらのほうが興味深い。とはいえ、文学論も面白く読めたことは確かで、とりわけフェルナンド・ペソア論は、彼がさまざまな異名で書いた実際の詩作品がいくつも載せられていたこともあって、実に魅力的であった。この詩人の重要性、そしてその詩の魅力を詩的に伝えてくれる文章である。そして、その末尾に管が置いている、「自分であることは牢獄」と歌う「私は逃亡者」という詩は、異名の詩人ペソアの詩作そのものを歌うものであると同時に、著者自身の思索のモットーであろう。

ところで、言語論として興味深いのはまず、「オムニフォン」という言語に対する態度を論じた冒頭のエッセイである。「近代」の顔を示すものとして1492年という年号を呈示する発想も示唆に富むが、それ以上に、この年から本格的に始まることになる植民地主義的「近代」の力によって、アフリカの海岸から引き剝がされ、カリブ海の島々に連れられて来たディアスポラの人びとが産み出してきた、そして今も産み出されつつあるクレオール言語を媒体として文学作品を書いている作家たちが、みずからを「世界の響き」に育てあげようとしていることを論じているあたりがやはり注目に値しよう。

著者によると、クレオール言語で書くということは、異質な言葉たちが隣り合い、ぶつかりあう多島海に身を置くことである。そうすることで、カリブ海の作家たちは、それら異質な諸言語のどれもが、世界の豊饒さを受けとめるのになくてはならないことを洞察したのだ。「世界の多様性は、世界のすべての言語を必要とする」。そして、言語の群島の作家たちは、一つの言語で語るときに、他のすべての言語がかたわらに佇んでいることも意識している。著者に言わせれば、「オムニフォン」とは、そのようにして「あらゆる言葉が同時に響きわたる言語空間で生きる」こと、またその「決意」なのである。それにもとづいて、「理解できない言葉の不透明性をうけいれ、それに耐えつつ、それを尊重し、その来歴を想像し、新たな「列島」を構成しうる可能性を探ろう」とすること、これは「アングロフォン」の資本主義が世界を覆いつつある状況と同時に、日本の列島を一つの「日本語」ないし「国語」という虚像が包もうとしている状況に対抗するかたちで、今まさに試みられなければならないことだろう。

そのことはむろん、管自身が指摘しているように、数えることのできる個々の言語や方言を尊重することではない。むしろ、それらの言語の閉鎖性ないし排他性を解体して、そこにある響きを、さまざまな言語のあいだで聴き出そうとすることである。では、それを具体的にどのように実践しうるのだろう。多和田葉子の行き方はその実践の一つの方向性を示すものかもしれないが、これは他人任せにしてよいことではなく、言葉を語り交わして生きる者一人ひとりの問題である。

もう一つ言語論として面白かったのが、「エコソフィア」の詩人たちとともにヤキ族の詩的言語を論じた「花、野、世」である。そこで管は、その詩的言語がそれ自体一つの「殺し」であると同時に、それが生きてゆくための現実の「殺し」を思い出させつつ、殺されたものの再生を祈るものであることに触れている。その指摘は、言語自体の暴力性とともに、その自己言及性、さらにはその詩的な表現力を思い起こさせる。語ることは、語られるものを殺すことであるが、まさにこの殺害によって、語られるものを甦らせることもできるのである。

このように著者の言語論はさまざまな示唆に富むが、あとがきに代えて置かれた「島と翻訳」というエッセイに含まれているベンヤミン批判には、彼の思想を研究するものとしては見過ごせないものが含まれている。そこで著者は、「翻訳者の課題」でベンヤミンが導入している「純粋言語」の概念に対して、「そんな唯一の、真理の、沈黙の純粋言語がありうると考える」というのには「とても賛成できない」と述べている。「徹底的にローカルな言語質の群れの上に、そんな純粋言語のレベルを想定すること自体に、ぼくは反発を覚える。それは大陸の、どこかに中心と頂点をもたずにいられない「帝国」の発想だ」、というのである。とはいえ、そのように著者が断言するときに忘れられているのは、ベンヤミンが、この「純粋言語」が取り戻しがたく失われているところ、すなわちバベル以後の状況を直視するところから、「翻訳者の課題」の議論を始めていることである。

「多くの言語をひとつの真の言語に積分するというモティーフ」をもって翻訳者が翻訳を行なったとしても、けっして「純粋言語」に達することはできないし、また翻訳者がみずからの課題として遂行すべきとされる諸言語の「補完」とは、実のところ、「文字どおり」翻訳することでそれぞれの言語のうちに不協和をもたらし、その言語を動揺させ、他の言語と響き合う可能性へ向けて、「英語」、「ドイツ語」と数え上げうる言語を解体していくことである。とすれば、「多くの言語をひとつの真の言語に積分する」とは、あらゆる言語が、その「近代」的な桎梏を突破しながらモザイク状に響きあう、それこそ「オムニフォン」的な言語のありようを目指すものなのではないだろうか。それに、「純粋言語」の概念をただ「帝国」的なものとして打ち捨ててしまうことは、その概念をもってベンヤミンが語ろうとしている言語そのものの創造力や表現力を見すごしてしまうことにもなるだろう。

こうした問題を感じるとはいえ、『オムニフォン』が、「世界の響き」に呼応しうるような言語の実践の可能性を、「ピジンという生き方」としても指し示す、魅力的な著作であることに変わりはない。それは言葉の語り手を複数の言語へ、さらには「オムニフォン」の世界へと誘う。

さて、最近読んだもう一冊の言語論とは、半ばそのタイトルだけに惹かれて古本を注文した、竹内芳郎の『言語・その解体と創造』である。絵について絵を描くことはできないが、言語については言語で語ることができるというメルロ−ポンティの洞察──それがほんとうに明察であるかどうかには、いわゆる「モダン・アート」の動きを考えるならちょっと首をかしげてしまうが──にもとづいて、言語が自己言及的に、日常言語から、文学的言語と理論的言語という二つのメタ・レヴェルへ階層化する必然性を述べて、当時も今も死に体を晒している「言論」の地位を理論的に確保したうえで、構造主義的な、さらにはそれ以後の言語論を批判的に検討し、「言論」が体現すべき「社会的伝達性」を本質とする言語の主体的で革命的な変成の普遍的な可能性を語る論理をチョムスキーの変換生成文法の理論のうちに求める著者の執拗な議論は、たしかに今となっては時代がかって見えるし、また「文化革命」に言語を動員しようかという方向性には、ついて行きかねるという思いも禁じえない。しかし、言語そのものの「非現実性」および「疎外」を論じているあたりは、傾聴に値するだろうし、またいち早くデリダのエクリチュール論に対して詳細な批判的論評を加えている点も興味を惹く。

この言語論で何よりも興味深かったのは、ドゥルーズとガタリによる「マイナー文学論」を先取りするかのような議論を展開している一節である。著者は、かつての支配者の言語であり、自分から同胞の言葉を奪った日本語で書く在日朝鮮人の言葉づかいに、この「日本語」のうちに不協和をもたらし、それを内側から解体してゆくようなポテンシャルを見て取っているのである。「在日朝鮮人作家たちの場合」には、「国語の既成性に発話の直接的な自己表出性を対置させただけではどうにもならぬこと、むしろ、己れの発話そのものさえ己れの〈内語〉となった敵の国語によって占拠されてしまっている以上、一旦は己れを徹底的に他者化し、敵の国語をそのまま受容しつつその逆用をもって敵の国語自体を破壊するという、詐術に充ちた迂路を経なければ自己発見すらもできぬことが、したたかに体験されているのである」。

そのように、スピヴァク風に言えば、一つの言語を「学び捨てる」ことでその言語を内側から、そこに潜在する未聞の響きへ向けて解体し、「国語」であるといった言語の「近代」的桎梏を乗り越えてゆく、そうして他者とのあいだに新たな関係を築いてゆく可能性を、言語そのもののうちに見いだすことに、竹内が成功しているとは言いがたい。とはいえ竹内は、言語そのものの「非現実性」と「疎外」ゆえに、言語のうちに住まうことはできないこと、そしてそのことが「語る」可能性に転じうることに気づいていたようである。そして、彼によれば、「国語」の重圧を感じ、自分の言語に違和感をおぼえるところにこそ、言語の創造的な変成の出発点があるのだ。「言語創造の場そのものでも働くコトバの社会的既成性の重圧〔中略〕を自覚的にひき受ける覚悟のない言語観は、どんなに革命的意図に貫かれていても、所詮は真のコトバの創造を基礎づけるには至らぬであろう」。

[管啓次郎『オムニフォン──〈世界の響き〉の詩学』岩波書店、2005年/竹内芳郎『言語・その解体と創造』筑摩書房、1972年/2005年9月23日執筆]

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