目取真俊の「水滴」

機会があって目取真俊の「水滴」を再読した。彼の芥川賞受賞作であるこの作品も、彼の他のいくつかの作品と同様に、未だ自然の豊饒さを残している沖縄の現在に沖縄戦の記憶が突如として侵入してくるさまを描き出し、この地上戦における沖縄の人々の苦難がまだけっして過ぎ去っていないことを読み手に突きつけているが、この作品において戦争の過去が入り込んでくるのは、人間の身体の内部である。生命の熱気でむせ返るような沖縄の六月に、主人公徳正の右足の膝下が突然、石灰質の水を含んで熟れた冬瓜のように肥大する。そして、右足の親指に小さく開いた傷口から漏れ出る水滴が、あたかもアンドレイ・タルコフスキーの映画で惑星ソラリスを包むあのソラリス物質のように、徳正が50年以上ものあいだ抑圧し続けてきた沖縄戦の経験を、彼の眼前に甦らせるのである。

徳正の右足が膨らんで水を滴らせるようになると、夜ごとに沖縄戦で戦死した兵士たちが、当時そのままの傷ついた姿で代わる代わる現われ、親指から水を飲むようになる。そのなかには、首里の師範学校でともに学び、沖縄戦では鉄血勤皇隊員として行動を共にした石嶺の姿もあった。水を飲みに現われるのは、石嶺も含めて、徳正が生き残るために壕に残してきた兵士たちだったのである。

艦砲射撃の砲弾の破片を受けて腹部に致命的な裂傷を負った石嶺をやっとのことで壕まで運び込んだその夜、徳正は部隊と一緒に南へ移動した。しかも壕を立ち去る際に徳正は、兵士の看護のために従軍していた女学生宮城ミネが石嶺の容態を気遣って手渡した水筒の水を、我慢できなくなって飲み干してしまったのだ。徳正は空になった水筒を置いて壕を去ったのである。

この経験を徳正はずっと自分のなかに押し隠していた。石嶺の母親には、逃げる途中ではぐれて行方不明になったと嘘をついたし、平和教育の一環として子どもたちに戦争の経験を物語る際にも、石嶺を見捨てて生き延びたという真実に触れることはなかったのだ。さらに宮城セツが自決を遂げていたことを知ったときには、これで石嶺のことを知る者はいなくなったと安堵さえしたのである。徳正は一方で、過去を抑圧することによって生き残っていることを正当化しようとしていたのだ。しかし彼が他方で、嘘をつき続けるかたちで生き続けることに対して、後ろめたさも感じていたのは間違いない。だからこそ、セツが自決したのを聞いて以来酒量が増えた。自分のなかにある過去の痕跡を酒で洗い流そうとするかのように。

時の流れを攪乱するかのように回帰してきて、徳正の右足から一心に水を飲む石嶺の姿は、このような嘘に満ちた徳正の生きざまを、徳正に見つめ直させる。石嶺が今飲んでいるのは、今まで生き延びるために自分が飲んだ水なのだ。そのことに思い至り、戦慄をおぼえながらも、これまで抑圧してきたこの正当化しえない過去を正視し、自分の傷を担い続けることを心に決めるとき、時が再び速度を増して流れ始める。「自分が急速に老いていくのが分かった。ベッドに寝たまま、五十年余ごまかしてきた記憶と死ぬまで向かい合い続けなければならないことが恐かった」。

徳正が自分のなかの癒えることのない傷を担い続け、そこから湧きあがる記憶に向き合い続けることを決心して以来、兵士たちは現われなくなり、右足の腫れも引いていった。それとともに沖縄の現在が再び前景にせり出してくる。沖縄の夏が帰ってくるのだ。徳正は裏庭の仏桑華の生垣の下に、大きく熟れた冬瓜を発見する。

このように戦争の記憶と向き合い続ける者がいる一方で、沖縄には戦争に寄生しながら金を儲け、したたかに生き延びる人々もやはりいる。徳正の従兄弟清裕は、沖縄のこうした人々の姿を象徴しているようだ。清裕は徳正の右足から滴る水が若々しい生命力を回復させるのに目をつけ、これを瓶詰めにして「奇跡の水」として売り、大金を儲ける。だが、その水は50数年前の若さを取り戻させるのにすぎず、時の流れが元に戻ると、それを飲んだ人々の身体は一挙に50数年分老いてしまう。清裕は、それに怒った人びとによって最後には袋叩きにされてしまうのだ。そんな彼にしても、酒に溺れる徳正にしても、彼の妻ウシのように、地に足を着けて生き、生き続けるための習慣を確立させた女性の支えがなければ生きていけない。

徳正、ウシ、清裕という三人の登場人物を軸に、現在の沖縄を凝縮させたような世界を開きつつ、目取真俊は、生き残ることのうちに拭いがたく染みついた、けっして正当化できない領域を読み手に突きつけている。アウシュヴィッツの生き残りであるプリーモ・レーヴィが『溺れる者と救われる者』(朝日新聞社、2000年)で指摘した、「灰色の領域」である。生き残るとは、死者を見殺しにし、踏み越えてゆくことである点に関しては、アウシュヴィッツの生き残りにしても例外ではないのだ。しかし、生き残りのトラウマと過去の複雑さを形づくるこの「灰色の領域」にしかと向きあい、死者との関係をみずから正してゆくことは、生きることの現在を少しずつ刷新することにもつながりうる。ある意味で人間らしく、酒を断つと誓ったのも束の間、また仲間と大酒を飲んでしまった徳正が、その翌朝に巨大な冬瓜を発見したことは、その希望を暗示しているのかもしれない。

[目取真俊『水滴』文春文庫、2000年、所収/2006年3月16日執筆]

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